第12話 向こう側で望むこと

 気がつけば部屋で動いているのは、マナリナと乱入してきた長身の男だけのようだった。床一面は血の海となっている。この長身の男に皆、殺されてしまったのだろうか。逃げ出すことができた者もいるのだろうか。


 自分も逃げ出さなくてはと思うのだが、マリアナは腰が抜けたようになっていて立ち上がることができなかった。ただ、薬の影響なのか恐怖は少しも感じない。


「宿屋の老人はお前を助けたいと言う。そのために代償を払った。その先に何がある。その向こう側は何だ。お前は何を望む。その代償は何だ?」


 長身の男は床の上で座り込んでいるマナリナを見下ろしながら尋ねてきた。一糸もまとわない姿なのだったが、恥ずかしさなどは微塵も感じない。恐怖心もありはしない。それどころか、まだ至福感に包まれてさえいた。


 長身の男が言った宿屋の老人。ロゼスとエマのことを言っているのだろうかとマナリナは思う。

そうか、この男は宿屋の客だったあの親子の父親だ。名前は何と言っただろうか……。


 何を望む。いきなりそう言われても意味が分からなかった。


 代償。

 代償と言うのであれば既に払っている。このごみのような人生がそうだろう。この惨めな生き様がそうだろう。それが代償ではなくて何だと言うのだ。


「代償なら既に払っているね。ごみのような人生がその代償だよ。こんな状態がその代償だろうさ」

「違うな。お前のごみのような人生は、お前の行動の代償だ。老人はお前を救いたいと言う。その先には何がある。老人の代償でここから救われたお前はどうする。老人の代償。その向こう側でお前は何を望む?」


 救われた……。

 そう聞いてマナリナは思わず笑いが込み上げてきそうになる。頼んでもいないのに、ここから救われたところで何になるのだろう。

 

 そうなのだ。ここで救われたところで、きっと自分はまた必ずここに戻ってくるのだ。ごみのような人生に。今までがそうだったのだ。きっとこれからだってそうなのだろう。


 ならば、自分が望むことは……。

 それがきっと自分がここから救われることの代償なのかもしれなかった。それがこの男が言う代償なのかもしれなかった。


「死にたい。殺して……もう、辛くて嫌なの。ごみのような人生を生きていくのは」


 そう。こうして偽りの至福感に包まれている内に。恐怖すらも感じない内に。


 結局、自分は、どこまでも愚かで弱いのだとマナリナは思う。だから、同じことを繰り返す。駄目だと思っていても、同じことを何度も繰り返してしまう。きっと死ぬまで。ならば……。

 

 マナリナの言葉に男が頷く素振りはなかった。だが、男が振り上げた長剣で男の意思は分かった。


 マナリナの両頬を涙が伝う。その感触を感じながら、これは何の涙なのだろうかとマナリナは思う。


 その感情がわからないまま、マナリナは頭上に振り上げられた長剣を受け止め、抱きしめるように両手を伸ばしたのだった。





 日が落ちかかり薄暗くなった夕暮れ、山道を歩く二つの影があった。一つは大きく、一つは小さい。小さい影が大きい影に語りかけた。


とと様、次はどこに行くのですか?」

「行き先に興味があるのか?」

「いえ、旅には目的があるものだと本で読みました」

「そうか」


 大きな影は少しだけ沈黙した後、言葉を続けた。


「次は南にあるもっと大きな街だ」

「そうですか」


 自らが訊いたのにも関わらず、小さな影の返答は素っ気なかった。だが、大きな影はそれを気にする様子はなかった。


 他に聞く者がいれば、二人の会話はきっと奇妙な物だと思うのだろう。


「今日の夜は野宿になる。きっと夜は寒い」

「本にありました。寒いと風邪を引きやすいので気をつけないといけませんね」

「そうだな、ミア……」


 大きな影の声が少しだけ震えて掠れたようだった。


 夜に支配されつつある山道。その日は不思議と風がそよぐ音も獣たちが騒ぐ声も聞こえず、静寂に包まれていた。そこには二つの黒い影が、ただ静かにあるだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る