第9話 嫌な笑み

「何かあったんですか?」


 いつまでも目の前で夫婦が揃ってもじもじとされていても苛つくだけなので、マナリナはそう促してロゼスに黒色の瞳を向けた。


 そうやってマナリナに促されたロゼスは、少しだけ安堵の表情を浮かべて口を開いた。


「実はね、マナリナに相談があって」


 相談があって。他人からそう切り出される相談ごとの九割は、既に決定事項であることをマナリナは経験上で分かっていた。マナリナの中で不快感が更に高まっていく。


「私たち夫婦も随分と高齢になってきた。勿論、年寄りぶるのは好きじゃない。でも、実際に体のあちらこちらに、がたがきていてね」


 それでとマナリナは思う。あんたたちの体がどうであろうが自分には関係ない。二日酔いの不快感もあって苛つきが頂点に達しようとしているようだった。


「隣の街に住む娘夫婦が子育ても落ち着いたから、一緒に住まないかといってくれてね」


 そう言いながらロゼスが心の底から嬉しそうな笑顔を見せた。その笑顔を見ながらマナリナは、はあと思う。


 で、一体、何だと言うのだ。

 頂点に達しつつあるマナリナの苛つきを知ってか、後の言葉を婦人のエマが続けた。


「これまで本当によくやってくれたマナリナには申し訳ないけど、宿屋の経営から身を引こうと思うの。幸いなことに、この宿屋を買い取ってもいいという人も見つかってね。勿論、高く買って貰うわけではないのだけれども」


 マナリナの頭に一気に血が登る。同時に二日酔いからくる頭痛が、さらに酷くなったようだった。


 宿屋の売値が高かろうが、そうでなかろうがマナリナの知ったことではなかった。

 

 それにマナリナには悪いけどと言ったが、あんたらはそんなことをこれっぽっちも思っていないだろうとマナリナは思う。


 経営者が変わってからもマナリナが継続して雇われるとは思えなかった。そもそも、こんな小さな染みったれた宿屋など、人を雇っていたら採算が合わないはずだった。


 ならば、自分は職を失うだけなのだろうとマナリナは思う。ろくな職の経験がない自分に、他の仕事が都合よくすぐに見つかるとも思えない。


 ふざけるなとマナリナは思う。

 今まで散々、自分の娘のようだと言っておきながら、結局はそうなのかと思う。マナリナが職を失ってどうなろうが、少しの興味もないということなのだ。


 今まで口では綺麗なことばかりを言っておきながら。


「そんな急に……だって、私はどうなるのか……」


 マナリナの言葉を聞いてロゼスが慌てたように口を開いた。


「勿論、すぐにってわけじゃない。二、三か月先になる話だよ。色々と準備もあるからね。それにマナリナ、マナリナのことで最近はよい噂を聞かないんだ。夜はほぼ宿屋にいないというし、得体の知れない若い男たちと毎日飲み歩いているって話じゃないか」


 そうロゼスに指摘されて、再びマナリナの頭に血が上る。何が、それになのかと思う。


「毎日じゃないわ。それにカイトは得体の知れない男なんかじゃない」


 確かにカイトはろくな男じゃないと思う。だが、それを他人から指摘されると単純に怒りを覚える。カイトのことを何も知らないのにとマナリナは言いたくなる。


 マナリナの反論にロゼスは更に大きな溜息を吐いてみせた。その様子が更にマナリナの癇に触る。


「しかし、夜や朝にいなかったりするのは本当なのだろう?」

「だから、別に毎日じゃないって」


 気づけばマナリナの口から金切り声に近いような大きな声が出ていた。そんなマナリナのいつもとは違う様子に、ロゼスは表情を凍らせた。


 駄目だ。本当に苛々する。このままではこの爺さんと婆さんを殴ってしまう。

 マナリナは唇を噛み締めると、そのまま宿屋を飛び出したのだった。





 本当に苛々する。

 街の中心部へ続く道をあるきながら、マナリナは親指の爪を噛む。


 すれ違う人たちが興味深そうな顔で自分を見ていくのは、血相が変わっているからなのだろうとマナリナは思う。


 くそっ。くそっ。くそっ。

 大声で喚き散らしたかった。


 そんなマナリナの視界にカイトの姿があった。

 そう。カイトはとても嫌な笑みを浮かべていた。

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