第8話 苛立ち

 「……で、俺はマシュの野郎に言ったんだよ。確かに可愛い尻かもしれねえが、そいつは俺の尻だ。アンの尻はあっちだってよ」


 マナリナはカイトの言葉に両手を叩きながら大きな笑い声を上げる。それに合わせて灰色の髪が別の生き物であるかのように宙で波打つ。


「笑いごとじゃねえって、マリアナ。危うくマシュの野郎と違う意味での穴兄弟になるとこだったんだからよ。先っぽがよ、こうして当たってたんだぜ。こうしてさ」


 カイトも笑いながら身振り手振りでそれを伝える。

 マナリナは再び両手を叩いて大きな笑い声を上げた。カイトはそんなマナリナを見ながら、満足そうな顔で麦酒を煽っていた。お互いに何杯目だろうか。もうよく覚えてはいない。


 でも、これだけお酒を飲むのは久しぶりだった。そして、何よりもマナリナは楽しかったのだ。


「なあ、マナリナ、何で俺たちの前から急に消えたんだよ?」


 あ、本質に切り込んできた。

 マナリナの脳裏でそんな言葉が浮かんできたが、酔いのせいなのかその言葉は瞬時に頭の中で霧散してしまう。


「嫌になったのよ。あれも、嘘つきなあんたのこともね。何もかもが全部、嫌になったのよ」

「何だよ、それ。それに俺は嘘なんかついてねえぞ」


 カイトが子供のように口を尖らせる。

 そう言えば、こういう表情もよくしていたな。マナリナはカイトを見つめながら思う。


「それが嘘だっていうの。あんなに酷いことをしてて、なに言ってるのよ。私、何度カイトに殴られたか」

「だから、それは悪かったって、さっきから謝ってるじゃねえか。少し歳を取ったとはいっても、お前は十分に綺麗なんだ。お前だったらまだまだ稼げるぜ。なあ、だからまた一緒にやろうぜ。謝るからさあ」


 こいつは私だったら謝れば、全てがそれで許されるとでも思っているのだろうか。

 そんな思いが浮かんだが、それもすぐに脳裏で霧散してしまう。


「まあ、昔の話なんて何でもいいんだけどね」


 マナリナは小さく呟くように言う。

 

 何でもいいはずがなかった。

 それでいいはずがなかった。

 

 マナリナの脳裏でそんな言葉が浮かぶが、またすぐに消えていく。それが酔いのためなのか、楽しいからなのかは分からない。そんなことは、どちらでもよいのだとマナリナは思う。


 そう。今が楽しいのだから。この懐かしい感じが今は楽しいのだから。





 それからマナリナは二、三日に一度の割合でカイトと夜の店に出かけるようになっていった。いや、もっと多かった気もするとマナリナは思う。


 昔を懐かしむなどと言うつもりはないが、酒の席も含めたカイトと一緒にいる夜の世界はやっぱり刺激的で楽しかったのだ。


 それは宿屋だけの閉ざされた世界では、絶対に味わうことができない世界であり感覚だった。


 そんな生活が始まって一か月ほど経ったある日だった。その日、二日酔いで頭を抱えながら不機嫌な顔でマナリナが宿屋の受付台に座っていると、宿屋の経営者であるロゼスとエマの老夫婦が姿を見せた。


 今日は宿屋に来る日ではなかったのに。二日酔いで痛む頭を抱えながら少しだけ顔を上げて、灰色の髪の間から見える老夫婦にマナリナは視線を向けた。


 二日酔いからくる不快感で、自分の視線は尖っているかもしれないとマナリナは思う。でも、それを取り繕う気にはどうしてもなれなかった。


「マナリナ、変わりはないかい?」


 ロゼスのいつもと同じ言葉だった。それすらも今のマナリナは苛立ちを覚えてしまうようだった。


 いつもと変わりがあるはずがないだろうとマナリナは思う。こんな街の外れにあるような染みったれた宿屋で。


「いえ、別に」


 マナリナの返答が素っ気なかったからなのか、ロゼスは何かを言い出しづらそうな雰囲気を醸し出していた。


 そんなロゼスの様子が二日酔いによる不快感に加えて、更に輪をかけてマナリナを苛立たせてしまうようだった。

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