第7話 楽しかった日々

「ところで、あのお嬢ちゃんはどうしたのかしら? あんな所に一人で座っていて」


 部屋の隅で本を読んでいるミアに、夫人のエマが興味深げな視線を向けた。


「父親と二人連れのお客です。夕方まで見ているように頼まれたので」

「おやおや……」


 何がおやおやなのかマナリナには分からなかったが、エマがそんな声を上げた。


「お嬢ちゃん、お名前は?」


 エマが声をかけると、ミアは本から顔を上げてマナリナたちに視線を向けた。


「ミア」


 ミアはそれだけを短く言う。その顔には何の表情も浮かんではいない。


「あ、あら、綺麗なお顔のお嬢ちゃんね。幾つなのかな?」

「八歳」

「あ、あら、そうなのね。えっと、随分と難しそうな本を読んでいるのね。まだ小さいのに偉いわね」

「そうかしら」


 いつものように表情を少しも変えることがないミアの顔や、まるで抑揚のない口調にエマは気圧されたようで、次の言葉を探しあぐねているようだった。


「エマさん、この子は少しだけ変わっているみたいで。そっとしておいた方が……」

「そ、そうなのかしら。え、ええ、そうね。そうみたいね」


 マナリナが言う障りのない言葉にエマは頷く。


「すまんな、お嬢ちゃん。妻が本を読む邪魔をしたようじゃ。気にせずに続けてくれ」


 夫のロゼスが言うとミアは何を言うでもなく、分厚い本に再び視線を落とした。気づくとロゼスが微妙な苦笑を浮かべながらマナリナの顔を見ている。


「悪気はないのでしょうが……ね」


 マナリナとしてもそう言い淀みながら、ロゼスに苦笑を返すことぐらいしかできないのだった。





 その日の夜だった。新たなお客も来ないし、そろそろ自分の部屋に戻ろうかとマナリナが考えていた時だった。


 宿屋の扉が静かに開いた。それを目にした時、マナリナは嫌な予感がした。マナリナは子供の頃からこの手の勘はよく当たる。


 やはりと言うべきなのだろうか。姿を現したのはカイトだった。宿屋から出ようとしないマナリナに、とうとう業を煮やしたのかもしれない。


「ちょっと、どういうつもりなのよ? こんなところにまで押しかけて」

「そんな顔をするなよ、マナリナ。知らない仲じゃないだろう」


 カイトは前に再会した時とは違って不遜な態度を見せるようなことはなくて、逆に少しだけ気弱そうな笑顔を浮かべた。


 ああ、いつもの顔なのだとマナリナは頭の隅で思う。

 その顔を見ているとマナリナの中で、かつての記憶が次々と掘り起こされていく。不思議と思い出される記憶は、楽しかった日々だった。


 楽しかった日々よりも辛く嫌な日々の方が多かったはずだ。それだけは間違いないはずだ。だからこそ、カイトから逃げ出したのだ。だが、思い出す記憶は楽しかったことばかりだった。


「で、一体、何の用なの?」


 マナリナはカイトの顔を見ながら、大きな溜息を吐いて尋ねた。


「いや、この前の態度は俺も反省したんだ。あれは酷いよな。謝るよ。それも兼ねて久々に会ったんだから、飲みにでも行かねえかなって。仕事、もう終わったんだろう? 久々に会ったんだ。面白い話もたくさんあるんだぜ」


 カイトが言うように、もう部屋に戻ろうかと思っていた時だった。そもそも、宿屋に夜の仕事はほぼないのだ。食事を提供する宿屋ではないので、夜はあてもなく新たなお客を待つ以外に仕事らしい仕事はなかった。


「あれだったら、もう私はやらないわよ」

「分かってるよ。反省したって言ったろう。そんなつもりで来たわけじゃねえ」


 反論しながらも、再びカイトは気弱そうな笑顔を浮かべる。


 嘘つきのカイト。酷いカイト。私を叩くカイト。大嫌いなカイト。

 でも、やっぱり私の大好きなカイト。

 マナリナの中でそんな言葉が浮かび上がってくる。


 マナリナは大きな溜息を吐くと、小さく頷いて同意の意思を示したのだった。

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