第2話 硝子玉のような瞳
マナリナがこの街に流れ着いてから、二年が過ぎようとしていた。幸いと言うべきか街外れにある宿屋を営む老夫婦に拾われて、マナリナはすぐにこの宿屋の職を得ることができた。
あてもなく流れ着いた身としては、まさに僥倖だった。給金はお世辞にも高いとは言えなかったが、食べていくだけであれば何とかなる。
老夫婦も何かとマナリナを気にかけ、よくしてくれていた。毎日、毎日が平穏に何事もなく過ぎていく。まさにそのような日々の連続だった。
その日、マナリナがいつものように宿屋の受付台にいると、先日から逗留しているあの親子が二階から降りてきた。
「出かけるのだが、娘を置いていきたい。特に面倒を見る必要はない。放っておけば、端でずっと本を読んでいるはずだ。ただ、昼に簡単な食事だけ出してほしい」
父親はそう言って数枚の銅貨をマナリナに手渡した。手渡された銅貨は昼食代としては少しだけ多いようだった。
別に拒否する理由もなくて、マナリナは頷いた。娘に顔を向けると娘はマナリナに明るい空色の瞳を無言で向けていた。
改めて見ても綺麗な顔立ちをしている女の子には違いないのだが、相変わらずその顔には表情というものが浮かんでいなかった。表情がないだけに、その綺麗な顔立ちが逆に不気味な印象を他者に与えてしまうのかもしれなかった。
思えばこの親子が泊まるようになってからの一週間、マナリナは娘が笑った姿すら見たことがなかった。
「お父さん、お出かけするんだって。お姉さんと大人しく待っていようね」
マナリナは笑顔で声をかけたのだが、娘は表情を変えることもなく黙って頷く。
「はい。宜しくお願いします」
どうやら受け答えは問題ないようだった。その顔に表情というものがないということ以外は。
まるで本物の人形みたいね。
マナリナは心の中で呟く。
「名はミアだ」
「そっか。ミアちゃんね。何歳になるのかな?」
「八歳」
ミアがにこりともしないで答える。
愛想というものをどこかに置いてきたのかしら。
マナリナは心の中で皮肉気味に呟いた。
「ミア、夕方までには帰る。昼は一人で食べてくれ」
「はい、
ミアの言葉に父親が少しだけ不思議そうな顔をして口を開いた。
「気をつけてか。心配か、ミア?」
「いえ、このような時は、そう言わなければならないものだと本にありました」
奇妙な会話だ。心配かと訊く父親も奇妙だし、本で読んだという娘の返事はもっと奇妙だった。マナリナはそう思いながら、親子の会話を聞いていたのだった。
確かに父親が言ったように、ミアは大人しかった。受付台がある部屋の端で、子供が読むには重厚すぎるように思える表紙の本と向き合っていた。
もっとも、そのような端にいなくてもミアの存在がマナリナの邪魔になることはなかった。実際、今日の朝から新規のお客などはいなくて正直、いつものごとく暇だった。使用した寝具の敷布を変えて、朝に宿を発って行った宿泊客の部屋を掃除してしまうと、いつものようにすることがなくなる。
店回りや共用部の掃除した後、マナリナは何をするでもなく椅子に腰かけていた。さぼるつもりなどはない。単純にすることがないのだ。
視線の先にはミアがいる。ミアは先程から身じろぎすることもなく、分厚い本と向き合っていた。教養のないマナリナにしてみると、表紙さえも読みたくないような分厚い本だ。
あんな本を八歳の子供が読めるものなのだろうか。それも、あそこまで熱心に。マナリナの中でそんな疑問が持ち上がってきた。
「ミアちゃん、面白いのかな? 随分と真剣に本を読んでいるけど」
声をかけられて、ミアはマナリナに明るい空色の瞳を向けた。やはりその瞳には感情といったものが感じられず、まるで硝子玉のようだった。
「はい、面白いです」
感情の起伏が全く感じられない平坦な口調だ。
この子は自分のことが嫌いで、わざとそうしているのだろうか。
そんな疑問がマナリナの中で生まれる。だが、嫌われるような理由が思い当たらない。それに、嫌っているにしても、そんなことをする理由はないだろう。嫌いならば、話さなければよいのだから。
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