代償の向こう側

yaasan

第1話 奇妙な親子

 ああ、これで終われるのだ。

 ようやく、これで終わるのだ。


 マナリナは思う。どうしようもない、ごみのような人生だった。普通の人であれば、きっと目を背けたくなるようなこれまでだった。そんな人生を三十年近くも続けてきた。


 今までがそうだったのだから、これからだって、きっとそうなのだろう。それは至極明確な答えであるようにマナリナには思えた。


 この先はきっと晴れやかで穏やかな明日がくる。


 そう思うには、これまでの人生が余りにもごみだった。ごみであり過ぎて、そう前向きに思えるはずがなかった。それに、そう単純に思えるほど自分はきっと若くない。


 そう。だから、ごみのような人生からこうして解き放たれるのだ。それを喜びとして何が悪いものか。


 今、自分の中にある至福感はそれによるものなのだろうか。


 いや、違うのかとマナリナは思い直す。これはあの薬のせいだ。これはきっとまがい物の至福感なのだ。


 でも、それでもマナリナはよかった。至福感が何によるものなのか。そんなことはマナリナにはどうでもよかった。


 望んでいることはこの至福感で包まれている間に、ごみのような人生から解き放たれること。今のマナリナにはそれがたった一つの望みだった。その望みが至福感から誘発されているものだとしても、それでよかった。


 ああ、頬を伝うものは涙なのか。

 自分は泣いているのだろうか。

 ならば、それはきっと歓喜の涙なのかもしれない。


 涙を流して跪くマナリナの眼前には長身の男が立っている。男は無言で彼女を見下ろしていた。

 

 きっと自分は、こうして罰を受けなければいけないのだろうとマナリナは思った。そして、罰を受けるからこそ、ごみのような人生から解き放たれることができるのだと。


 やがて、長身の男が鮮血に塗れた長剣をゆっくりと振り上げる。


 マナリナは顔を上げるとそれを受け止めて、まるで抱きしめるかのように両手を伸ばす。それに合わせてマナリナの豊かな灰色の髪が宙で広がった。頬には涙が伝い、歓喜の表情が浮かんでいる。マナリナは両手を伸ばし、広げ続けるのだった。





 随分と奇妙な親子連れね。

 その日、いつもと変わることもなく宿屋で店番をしていたマナリナは、扉を開けて入ってきた男とその娘らしき女の子に少しだけ奇異の目を向けた。


 父親と思しき男は長身で、剥き出しの幅広で長い剣を背負っている。茶色の髪の毛と茶色い瞳をしていて、歳は三十半ばぐらいであろうか。


 隣にいる娘は八歳ぐらいに思える。真っ直ぐな明るい茶色をした髪の毛を腰のあたりまで伸ばしていた。瞳の色は父親と思しき男とは違って明るい空色だった。


 背にある剥き出しの長剣といい、醸し出している雰囲気といい、父親の方はどこからか流れてきた傭兵くずれだろうかとマナリナは思った。


とと様、ここに泊まるのですか?」


 娘が口を開いた。その瞬間、マナリナの背筋に嫌な悪寒が走った。

 何故か。マナリナはその原因を自問する。


 そう。娘が発した言葉はどこまでも平坦で抑揚がなかった。砂の一粒さえもそこには感情がこもっていないように思える。まるで地の底から響いてくるかのような声。


 だが、父親はそんな娘の言葉を気にする素振りはみせなかった。


 父親は娘の片手を引きながら受付台越しにマナリナの前に立った。改めて正面に立たれると、父親が本当に大きな男だと分かる。背丈だけではない。分厚い胸板と太い二本の腕。腰回りや太腿も発達していて、正面に立たれると得も言われぬ圧力が凄まじかった。


「二、三か月ほど、泊まるつもりなのだが」


 さして大きくはない低い声だったが、父親に関しては娘と違って普通の声といって差し支えがなかった。


 では、先程の娘の声は一体……。

 マナリナはそう思い、再び黒色の瞳を娘に向けた。


 磨いたかのような白い肌と大きな明るい空色の瞳。


 見た目だけであれば、美少女と言っても差し支えがなかった。しかし、確かに美しいのだが、彼女の顔には表情といった生気というものが全く感じられない。


 そう。その顔はまるで人形のようだと表現するのが適切に思えた。

娘はマナリナの顔を無言で見つめ返している。


 そうして娘の瞳に見つめられていると妙な不安を感じてきて、マナリナはごくりと唾を一つだけ飲み込んだ。


 それにしても、小さな子供連れで長期の逗留とは珍しかった。この街で長期の仕事でも行いに来たのだろうか。だが、傭兵くずれに適した仕事がこの街にあるとも思えない。


 しかし、いずれにしても客には違いない。マナリナは詮索したくなる気持ちを抑えて口を開いた。


「大丈夫ですよ。ただ、一週間毎に宿代は前金でのお支払いとなります。それと寝具は毎日取り替えますが、食事は出ません」

「構わん。宜しく頼む」


 父親は頷くとマナリナが伝えた金額を払う。


「暫く、厄介になる」


 普通に掛けられた言葉だったが、マナリナにはそれが不吉なものに聞こえたのが不思議だった。

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