第10話 置いて行った生き霊
お酒を飲まずに見た、推しの配信で、「蜷川さんの生き霊を見た」と、感想でポロッと言ってしまった手前、説明責任として語る。
和田琢磨さんへ。
あと、わだともさんへ。
こう言う、話です。
私、人生の4年間ぐらいを、水戸芸術館の地下にある、リハA、一番大きな稽古場で、リハーサル室Aの略。そこで、11歳、12歳から16歳までの大半を過ごしてきたから。
オペラ座の怪人だと、クリスティーヌがエリック、オペラ座の地下室にいた怪人の元に通った期間は、1年にも満たないと思うけど、自分の意思でせっせと通っていたから、いまだに浮世離れしていて、「青春とは」ってなると、普通は野球、とか、テニスとか、そう言うスポーツか、漫画、写真、とか、そう言う文化系の娯楽とか、あるいはテレビゲームとか、普通の子たちはそうなんだと思う。
ちなみに、わたしは1986年7月18日生まれ、わだっくまさんから半年以上遅れて生まれているので、まぁ、その、「わだっくまさんがまだ普通の少年だった頃」の話で、果たして需要があるのか、ってな話だけど。
まぁ、その、23年前の話だから。
たぶん、語る人はいないだろうから、語っておく。
いいよ。
別に、聞かなくても。
売れない元子役の話なんか。
自分が最初に、子劇、水戸子供演劇アカデミーに参加したのは1997年、5月。
わたしは当時10歳、小学5年生。
同期は石崎ひゅーいさん。
それから、2年後、1999年の話です。
わたしは12歳、中学1年生。
ひゅーいさんは、高校生になったので、子劇に参加しませんでした。
水戸子供演劇アカデミーは、水戸周辺の小学4年生から中学3年生までを対象にした演劇の「学校」でした。
学校と違うのは、入学が5月で、卒業公演と卒業式が春休みのまっただ中だったこと。
夏休みも、稽古でした。
部活に入ってなかった私にとっては、子劇は青春そのもの。
あ、そうそう。
毎年、オーディションがあったので、1年契約みたいなもんで、毎年、
1人か2人か落とされる選考試験は、恐怖でしたよ。
さいわい、毎年パスしましたが。
それで。
1997年には蜷川さんの姿を、稽古場で見ることはありませんでした。
もう、今年であれから26年経つことが信じられない。
ああ、灰皿を投げられて育ったあの人、演出家が、稽古場をそのままにして、2時間ぐらい帰ってこなくて、帰ってきたら、きたらで、「なんで連れ戻しにこない!」ということは、ありましたよ。
いい大人が、ですよ。
26年経った今、あの時のあの人の歳は超えましたが、いまだに、あの人のことは、超えられそうにありません。
ひゅーいさんが、ファーストテイクで、あえて、語っていない話です。
https://youtu.be/Lj5B_0WPWps
時代が、それを許したし、それが普通だと思ってました。
それが演劇ではなく、外とは違う世界に育ったこと、特殊、変わった環境にいたことを知るのは、ずいぶんあとになってからですよ。
そうだなぁ、あさステ!聞いて何年か経ってから気づいたんですよ。
そんな現場、滅多にない、って。
時は経ちまして。
中学受験に失敗したわたしは、仲間が誰1人いない中に戻ってきました。
1999年の話です。
わたしは、中学1年生になってました。
戻ってきた時、あまりにも誰もいないので、聞いたんですよ。
あまりにも、激しく、厳しすぎたため、私以外全員逃げ出したそうです。
わたしはその時点で記憶がなかったので気づかなかったんですが、それを聞いて、
「そんなに厳しくないのに、
逃げ出したんですか?」と、
聞いたことだけは覚えています。
そんなに、厳しくない現場だったんですよ、1989年か、1990年に花笠音頭に参加した時は、厳しいなんてもんじゃなかった。
そのことに気づいたのはずっと後です。
大人になってから、知りました。
山形の花笠音頭、あのお祭りは、子供が参加する行事じゃない。
イレギュラー、例外中の例外だったんだと。
もしかしたら、あの時、見ているかもしれませんが、見ていないかもしれません。
3、4歳だったので、記憶してませんし。
身体は覚えていますが。
たしか、その年、1999年度、世紀末はたしか、書類審査だけだったのかな。
甘やかされて育った、依存心バリバリのわたしは、親に応募、丸投げだったので。
それで、ある日、ガラッと。
いや、ガラッと、ではないか。
うーんと、たぶん、ただ、足踏み入れただけなんですよ。
リハAって、開け放しだったんですよ、滅多に人来なかったから。
おはようございまーす、って稽古場入ると。
いるんですよ。
蜷川さんが。
それから、1999年5月から2002年3月まで、リハA行くと蜷川さんとご対面、な日々を過ごしたので。
よく考えてみればおかしな話で、蜷川さんから、直接指導うけたわけじゃないし、明らかに生き霊なわけじゃないですか。
でも、行くと、必ず、蜷川さんににらまれるので、熱心に稽古せざるを得なかった。
びっくりするぐらい、毎日、いましたよ。
わたしは、蜷川さんににらまれながら育ったんです。
あれは、間違いなく生き霊でした。
ちなみに、串田和美さんをはじめとした演出家も、水戸に来ています。
彼らは、生き霊を残さなかった。
蜷川さんが早死にしたのは、水戸に生き霊を置いて行ったから、だとわたしは思っています。
それから、嘘の噂で、ストーキング被害にあい、2003年2月を最後に、私は、舞台を去るわけですが。
その話は、したくないです。
インターネットでは。
いずれ、しますが。
カクヨムやツイッターでも書いてますが、いつか、あなた、若い人たち、21世紀以降に芸能界入りした人の夢を壊すことになっても。
それが、同期と後輩と、おないどしの女優さんを、ひとりは薬物依存症で、ひとりは謎の死で失った、1986年生誕の、元子役として、仲間に報いることのできる、最後の仕事かな、と。
もしも、あの時、救いを求められる環境だったら?
春馬さんは、沙也加さんは、沢尻エリカさんは、黒崎真音さんは、今でも芸能界にいたんじゃないか、って思うんですよ。
大人たちは、誰も責任を取らないまま、六フィートアンダー、安らかな眠りを得るんだろうな、と思うと、同期が浮かばれない。
その後。
さて。
2011年3月、東日本大震災がありました。
私は24歳。
茨城は、見捨てられました。
震源地だったにもかかわらず、知名度のある芸能人がいなかったから、なのか、それとも。
わたしたち、何かしたでしょうか。
見捨てられ、計画停電の対象地域になり、芸能人は、そろって、東北支援。
二度と、忘れません。
だから、わたしは、東京には、東京の芸能界には、戻りません、そう決めたので。
そして、夢破れて、役者になることをあきらめて。
まるで、チェーホフ作「かもめ」のニーナ、みたいに。
それで、それからしばらくして、久しぶりに、リハAに行ったんですよ。
蜷川さんの生き霊、居なくなってました。
コロナ禍で、舞台、演劇の舞台にようやく戻ってきた時も。
蜷川さんは、どこにもいなかった。
あのころ。
世紀末を過ごした演劇人は、1990年代を駆け抜けたものはみな、つかさんと、蜷川さんと、そして、まだ元気だった頃の唐さん、若かった三谷さん、太田省吾さん、まぁ、駆け抜けたわけじゃないですか。
若い私は、あなたたちと違って、長く生きるから、きっと、説明責任もあります。
若い彼らにとっては、親子ほど歳が離れている上世代、具体的には社中さんとか、青木豪さんとか、そこらへん。
に比べれば、話しやすいですし。
1986年生まれで、子供の頃から活躍している女優は、ひとりは引退し、ひとりは死にました。
だから、伝えていく義務があるんでしょうけど。
蜷川さんもつかさんも井上ひさしさんも生きていたら!と思わない日はありません。
彼らだったら、コロナ禍でも反逆し、反抗したかもしれないし、しなかったかもしれない。
反体制だった演劇の、体制に迎合する姿を見て、失われた日々を思うと同時に、二度と帰りたくない、とも思うんです。
わたしは、ごめんですよ。
あの頃はあの頃ですし、今は今、なので。
第10話、終わり。
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