第11話

 ある晩、陽音が夕食分の食材を購入し帰宅していた。

 ここに越してきてから徐々に日暮れが早くなっていったが、もうすっかりあたりは真っ暗、それに随分冷えてきて、昔っからのコートでは心許なくなってきた。なにせ家は隙間風がひどく、家に帰ったら毛布と衣服を幾重にも重ねその中に身を潜めている。

「さむい、なぁ」

(雅、どうしてるだろう。こんなに寒いのに、掃除のバイトしてるんだよね)

鼻を赤くして、作業服に身を包む彼が鮮明に思い浮かぶ。

(・・・なんでこんなに、何もできないんだろう)

おもい荷物で腕の筋がピンと張りつめて痛かった。

「・・・っはー・・・私、ほんとゴミだなぁー・・・」

燃えるゴミの袋に入って、ゴミ捨て場に並ぶ自分を想像した。やけにはっきりとその光景がまぶたの裏に映った。

 やっと自宅が見えてきて、一息つく。俄然手の荷物は重みを増している気がする。

 買い物袋を持ち直して、さぁ階段をのぼろうとしたときだった。


「陽音っ――!」


心臓が全部持ってかれる。そんな気がした。


 振り返る。記憶にあるよりずっと老けてやつれた顔が、そこにあった。

「え・・・お母さん・・・な、んで・・・?」

鬼の形相をしたかつての母は、ずかずかと大股でこちらに向かい、恐怖で逃げようとする陽音の腕を掴んだ。

「いった――」

爪がぎりりと陽音の青白い肌に食い込んだ。

 母、――女の目は、ギラギラと光っていた。怒りと、執念と、あふれんばかりの愛を、これ以上なく感じさせた。

「陽音っ!帰りますよ!」

野獣のような光る眼が、鋭く陽音を射抜いていた。恐怖で何も口が利けなかった。

「ぼさっとしてないで!あの男が帰ってくる前に!」

雅の存在をちらつかされ、我を取り戻した彼女は慌てて女の手をふりほどこうとした。そして叫ぶように問う。

「ねぇ!お母さんはどうやって私を見つけたの!?なんで雅が家にいないって知ってるの!?いったいいつから私を監視していたの!?」

女はぎょろりとした目で陽音をにらみつけ、赤い口紅が塗りたくられた唇をつりあげた。

「・・・あなた、随分と頭がゆるくなったものね」

くすくすと笑っていた彼女は、突然大笑いし始めた。

「馬鹿ね!ああほんと!あんたも!あの男も!随分お馬鹿さんだこと!」

顔は笑っていても、その醜い眼は笑わずにじっと陽音を睨んでいた。

「あなた、病院行ったでしょう?どれくらい前かしら・・・ひと月くらい?その時の保険証の利用情報が、いったいどこに届くと思ってんの?」

目を瞠る。ぞっと、背中からうなじにかけて冷たい風が吹いた。

「そこからは簡単!探偵を使えば楽勝だったわ。・・・私はすぐにでもあなたを取り返したかったのに、あの男、随分何度も家を行き来するものだから、タイミングがつかめなくてね」

にっこり、と笑う。奇妙な、気味が悪い笑顔だった。

「あなたのお隣さん、千々岩さんですっけ?に聞いたの。よくもまぁ、ぺらぺらしゃべるオバサンだったわ」

息がとまる。おかしい、もう、狂ってしまっている、そう思った。

「おかげで、陽音がひとりになるタイミングを知れたの」

ぎゅっと手にいっそう力を込める。陽音の手首から上が紫色に変色し始め、掴まれている手首からは血が滲んでいた。

「さあ、もうすぐであの男が帰ってきてしまうでしょ?行くわよ」

「いやっ!」

女は力任せに娘を引っ張った。陽音は恐怖で倒れてしまいそうだった。

「離して、いやだ!私は雅と一緒にいるの!もう帰らない!」

途端、陽音の手が軽くなった。と同時に、左頬に強い衝撃と痛みが走った。

 ばちんっという音が、遅れて聞こえたような気がした。

 ばたりと倒れこんだ陽音はあまりの衝撃に声も出せず、その場から動けなかった。

 それに覆いかぶさるように女が跪き、彼女の頭を両手でわしづかみにして持ち上げた。

「いた・・・い」

ブチッブチッと髪が千切れ、涙が目の端に浮かぶ。しかし女は気にせず、額をこすりつけん勢いで顔を近づけて叫んだ。

「まだ夢見てんのか!!いい加減にしろ!おまえは騙されてるんだよ!あの男はおまえなんか愛していない!おまえなんか見ていない!おまえを家に残してほかの女のところにいっているんだ!!」

「うそ!」

「うそじゃないさ!こっちは探偵を使ったんだ!証拠を見せてやろうか!なぁ!!あの男の汚れた本性を見せてやろうか!!!」

ぼたぼたと涙があふれだす。恐怖と痛みで心がいっぱいだった。

 女は握りしめた娘の頭をいたずらに揺さぶって笑った。

「なぁ?陽音?あんた、妊娠してんだろ?そのでかい醜い腹、そうなんだろ?」

陽音の顔がついに歪む。確かにもう陽音のお腹は、言い訳もつかないほど大きくなっていた。

「可哀想になぁ!そんなちっちゃな体で妊娠させられて、もう堕ろせないよ?あの男に騙されて、いいように利用されて!あの男はおまえなんか愛していないんだよ!?おまえはあの男のお荷物なんだ!!ああ、さぞ面倒に思っているだろうねぇ!こんなに醜い、病弱な、使えない身重の女!!」

「やめて!」

次から次へとこぼれる涙が、彼女の服さえびしょびしょに濡らしていく。

 女は快感そうに笑った。やつれた皺だらけの顔に厚い化粧を乗せ、似合わない若々しい服をまとうこの女が、醜くて、恐ろしくて、たまらなかった。

「・・・帰っておいで?私の可愛い陽音」

手を離し、腕を広げる。その笑顔は、この貧相な胸に飛び込んでくると信じてやまない様子だった。

「あ、あ・・・」

手先が震え、涙がこぼれる。

 恐怖が彼女の心を支配していた。


『陽音!』


 女がすさまじい速さで頭を向ける。その男は予定より一時間近く早く帰ってきていた。

 こんなに冷える夜だというのに、男の体は汗でびしょびしょだった。

「み、雅!」

陽音が立ち上がる。

「あ、陽音ぇ!!」

彼女はまっすぐ、愛しい男の胸に飛び込んだ。

「うっ・・・ぅう・・・」

「ごめん、ごめんね。遅くなった」

彼女の頭を愛おしむようになでた雅は、じっと女を見た。

 先ほどのこの女よりはるかに、狂気に血走った眼だった。

「・・・陽音、先に家に入っておいて。入ったらすぐに鍵を閉めるんだよ」

頷き、部屋へと一目散に向かった。

「陽音っ!」

追いかけようとした女を押さえる。女が罵詈雑言を浴びせかけようと雅を見ると、

彼は先ほどと全く同じ目で彼女を見ていた。

 陽音が家に入ったのを確認すると、落ちた食材を拾い集め、女に向き直った。

「・・・警察に、通報しました。たぶん、もうすぐで着くと思います」

女は目を瞠り、がぁっと歯を剝きだして雅にとびかかった。

「この泥棒!陽音を返しやがれ!!私の娘なんだ!」

そこからはもう理解不能な言葉を発し、奇声をあげて雅を殴りつけた。

 それに対して雅は、何も言わなかった。何もしなかった。ただ彼女がこれ以上陽音に近づかないよう押さえながら、冷たい、しかし鋭い、憎しみと軽蔑の眼を向けていた。

 遠くで、サイレンの音が聞こえた。

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