第10話
はじめのほうは互いにハードスケジュールで息もできないほど必死だった。
学校に行けばいい噂の的で、巻き込ませないために竹井とは距離を置いた。
放課後そのまま清掃のバイトに向かい、7時くらいに退勤、家まで走って帰る。金曜日はその途中で閉店寸前のスーパーに滑り込んで食材を買い、陽音と一緒に夕ご飯、お風呂に入って、深夜の警備バイトに向かう。夜中3時から5時まで睡眠をとり、今度は早朝の工場で備品の仕分けをするバイトに向かう。7時半にそこを出て、走って登校した。学校の授業はほとんど睡眠時間だった。
陽音は、6時に起きて朝食をとり、一階の共同洗濯機を使って洗濯、足も出せないほど狭いベランダで干して、昨晩まとめたゴミを捨てて単発のアルバイトに向かう。その後、昼食は抜いてコンビニのバイトに向かう。雅が帰宅する一時間前に帰宅し、夕ご飯をつくり、家をざっと掃除。洗濯物を取りこんだあたりで雅が帰宅。夕食を取って、お風呂からあがったら、もう出かける準備をしている雅にハグをして見送る。寝室で一人毛布にくるまって眠り、また朝6時に起きる。
結婚して一緒に暮らしているのに、以前よりもずっと互いに会えず、ふと目をつむる時間もないほど忙しいこの生活に、先に耐えられなくなったのは、妊娠中の陽音だった。
ある日の朝、突然ひどい頭痛と吐き気がして、トイレまで這いずるように向かった。そしてそのまま、意識を手放してしまった。
それを雅に知らしてくれたのはとなりの部屋に住む、
陽音がアルバイトの関係で出る時間がぴったり決まっている人だということはわかっていたので、インターホンに反応がないことにいくらか不信感を抱いていた。
そして彼女はふと、陽音が妊娠中だということを思い出した。ただ単に今日は偶然違う予定があったとかならいいが、もし中で倒れていれば赤ちゃんにもなにか影響があるかもしれない。かつて看護師をしていた女に何かしらの勘が働き、前に陽音から聞いた雅の携帯に電話をかけたのだった。
「お節介ババアでごめんなさい。でも妊婦は何があるかわからないものだから・・・」
陽音の多忙さを知っていた雅は、工場のバイトを急遽早退し、全速力で帰宅した。
玄関前で千々岩さんと合流し、中に入ると、浴室で倒れている陽音を発見した。
「陽音!」
抱き上げる。息も呼吸もあったが、意識はない。千々岩さんに頼んで救急車を呼び、病院に運んだ。
過労と栄養失調だった。
「妊娠されているんですし、ご負担はいけません。胎児に影響があるかもしれません。精神も不安定になっていらっしゃるご様子です。できれば、出産するまで当院で入院することをお勧めします」
すぐには答えられなかった。今、何か月も入院させられるお金など、到底あるはずがない。むしろ今回の診察料だけでも厳しいくらいだ。
「・・・一度、陽音と話してもいいですか」
医者はじろりと雅を一瞥し、「わかりました。もうすぐ目が覚めると思いますので、しばらく病室でお待ちください」と冷たく言った。
病院の個室で、目の覚まさない陽音の隣、雅は黙ってうなだれていた。
もちろん、雅としては入院させたい。陽音が安全に過ごせるのなら、それが一番いいに決まってる。自分は家をあけてることが多いし、たとえ体調が万全だとしても若い女の子が過ごすには危険が多すぎる。
ただ、お金がない。彼女を救えるだけの額が用意できない。たとえこれ以上バイトを増やしたとしても、払えるか怪しいところだ。
「・・・っは、俺、ほんとゴミだなー・・・」
くしゃっと髪を握りしめる。しばらく切っていないせいで伸びてきている。
「・・・みやび?」
小さな声がした。はっと顔をあげる。
陽音が起き上がって、目をこすっていた。
「私、どうしたんだっけ?雅はどうしたの?」
おもわず立ち上がって抱きしめた。陽音は戸惑って右頬を掻く。
「え?雅?」
「ごめん・・・!ほんと、俺・・・」
「なんで謝るのー?」
困ったように笑う。優しく雅を抱きしめ返した。
雅の目からあふれる涙が、ぽたぽたと真っ白なシーツに落ちた。
医者から説明を受けた陽音は「しません」と即答した。
「そんなお金ありません」
むしろ清々しいほどの宣言に、おもわず医者はたじろいだ。
「しかしあなた、妊娠なさっているでしょう?もはやあなた一人の体ではないのですよ?」
「私の体です」
間髪入れずに返答して、ベッドの上で深々と頭をさげた。
「今日はお世話になりました」
「えっ・・・ちょっと」
彼女はベッドからおり、雅に身を寄せた。
きりりとした目つきで医者を見つめる。
「ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」
その凛とした横顔を見て、雅はひっそりと陽音の沼にいっそう潜っていった。
「雅、ごめんね?無駄なお金使わせちゃって」
家までの長い長い帰り道を歩きながら、雅を見上げ謝る。彼はううんと首を振った。
「むしろ、無理させてごめん」
「いやいや、雅のほうがずっと無理してるし・・・」
彼女はふっと暗い顔をしてうつむいた。
「・・・でもバイトは・・・もう無理そう」
泣きそうな声を絞りだした彼女の頭をなでて雅が笑う。
「うん。たくさん頑張ってくれて、本当にありがとうね」
唇を噛んで黙っている陽音の顔を覗き込んで言った。
「大好きだよ。ごめんね」
陽音はバイトを辞め、家事に専念し始めたが、やはりうまくはいかなくなっていく。
朝起きられなくなり、料理や洗濯が重労働で、ご飯を食べることやお風呂に入ることさえ大変になっていった。
彼女ができなくなるものが増えるほど、雅がしなくてはならないものが増えていく。
夜の警備バイトが終わってから仮眠をとるのをやめ、家に帰り、自己嫌悪で泣きじゃくる陽音をなんとかなだめ、夜食を食べて洗濯の準備をして(アパートの規則で朝6時から夜中の8時までしか洗濯機が使えない)、陽音の朝ご飯の準備をしてバイトに向かい、工場のバイトが終わると全速力で帰宅、陽音を起こして朝ご飯を食べさせ、昼食を作って、同時進行の洗濯を済ませて、遅刻ギリギリに登校。そこから昼までぶっ通しで寝て、5時間目の体育で目をしゃっきりさせてから、清掃のバイトへ。そこからまた走って帰り、陽音と共に夕食をとる。
午後になると陽音もまだ落ち着き、買い物や夕食づくりをしてくれるのだが、なんせ朝は息つく暇のない忙しさだった。
このままでは子供が生まれるより先に雅がこの世を去ってしまいそうだった。
しかし雅は、それでも幸せだった。
自分がどれほど苦しくとも、帰宅したら陽音が微笑みかけてくれる。そりゃもちろん泣いてるときもあるけれど、好きな人のためだったらそれを支えるだけで本望だった。
対して陽音は、出産に対する不安に加え、自分の無力さに打ちひしがれ、徐々に自己肯定感を失っていった。これ以上雅の足を引っ張りたくないという思いが、いっそう彼女を追い詰めていた。
噛み合うようで、すれ違い続ける愛には、ちいさな亀裂を塞ぐ力がなかった
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