第9話

 退学届を握りしめた陽音は、雅の背中にくっついてまた少し離れたところにある公園に来ていた。

 バイクを降りたタイミングで、雅のポケットに入った携帯が軽快な音楽を奏で始めた。一般的な、あの着信音だ。

「わ、電話だわ」

「出ていいよ」

「そ?じゃあ出る」

ぱっと画面を開き、かけてきた相手を見て彼は一瞬表情を曇らせた。

「・・・もしもし」

「雅?あんた、なにしてんの?」

小学校ぶりに聞いた、母親が本気でキレている時の声だった。

「べつに」

「べつにじゃないでしょ。今日模試でしょ?学校はどうしたの」

唇を噛む。陽音のことも、他のことも、なにひとつ言うつもりなかった。

「しかも、今日だけじゃないそうね?無断欠席」

「そうだね」

最近は高校も厳しくなってきて、一時間でも学校を遅刻するともう親に連絡がはいる。しかし雅の両親はどちらも多忙で、学校からの電話に出れることが少ないのだ。

 今日、偶然電話を取った母親は担任からすべてを聞いて、すっかり怒り心頭に発してしまったわけだ。

「どういうつもりなの?ねぇ」

「どういうつもりもないよ」

電話越しに深いため息が聞こえた。

「・・・あんただけなら、まだいいのよ」

ぞくっと、背筋が冷える。一気に背中にぐっしょりと汗をかいた。

「ほかの子、巻き込んでんの?あんたと同じ日に休むらしいけど」

「・・・さぁ」

「誤魔化すなよ」

心臓がぎゅっと掴まれる。先ほどの陽音がいったいどれほどの勇気を出していたのか、いまさらながら理解した。

「ふざけんなよ。あんたの事情に、他所様を巻き込むな」

「・・・母さん」

息を吸う。あまりの緊張で涙が出そうだった。

「俺、家出るよ。今までありがとう」

「・・・は?」

「こないだ、卒業までの学費くれたよね?期限になったら渡すようにって。ありがとう。騙してごめんね」

「・・・なに?辞めんの?」

いっそう冷たい声だった。しかし、雅の顔には笑みが浮かんでいた。

「辞めないよ、とりあえずは。母さんのくれたお金で卒業まではいるつもり。ほんと、迷惑ばっかかけてごめん」

もう一度、深い深いため息が聞こえた。

「・・・腹痛めて産んだ子が、こんな馬鹿だとは思わなかったよ」

「ごめんなさい」

途端、さっきまで冷静な怒りを漂わせていた声が、鋭い憤怒をまとった。

「二度と帰ってくんな、この親不孝者」

ガンッと何かが壊れる音と共に、通話が切られた。

 ふっと視線を落とし、携帯をポケットに入れなおす。

「・・・雅?」

陽音の怯えた声が聞こえて、つきかけたため息を慌てて呑んだ。

 にこぱっと笑って言う。

「あーあ、俺も出てくことにしちゃった。もう新居、行けたっけ?」

「・・・うん。今日からだったはずだよ」

「じゃあ、退学届だしたらそのまま鍵もらいに行こっか。それで家に着いたら、竹井の兄ちゃんにバイク返さなくちゃ」

バイクを跨ぐ。笑顔のまま陽音を見た。

「あ、もうちょっと休む?」

陽音はしばらく黙っていたが、突然崩顔して雅を抱きしめた。

「えっ・・・陽音?」

ぼろぼろと涙があふれ、耳元で呻く彼女の背をなでる。

「大丈夫?」

ふるふると頭を横に振る。そしておもむろに体を離し、雅の顔を両手で支えた。

「は、陽音?」

彼女はぼろぼろに濡れた顔で雅を見つめ、そっとキスをした。

 抱きしめる。彼女の思いが、やっと雅に流れ出した。

「・・・っ」

雅の目から涙がこぼれた。陽音の手前、泣かないように努めていたが、もう歯止めが利かなくなったかのように、次から次へとあふれだす。

「陽音、俺は・・・」

彼女の細い体を抱きしめる。もうすこし力を込めれば、すぐに折れてしまいそうだった。

「俺は、笑わないと・・・」

それでも涙はとまらなかった。鼻先から耳まで、赤く染まっていく。

「笑わなくていいでしょ?」

耳元で、優しく声が聞こえる。笑うような、泣くような、不思議な声だった。

「・・・私のこと守るために、雅が傷つくのはもう見たくないの」

近くで鳥が鳴く。あくまでこれは日常で、見るはずのなかった未来だったと、ふたりを教え諭すようだった。

 そっと彼女が雅を離す。泣きはらした目を細めて笑った。

「傷ついた笑顔は、何よりも辛いよ」

なるほど、こういうことか、と思った。


 その後陽音は一人で学校に向かい、退学届を提出した。

 せめて雅に矛先が向かないようにする、彼女の気遣いだった。

 学校近くにとめているバイクに戻ってきた陽音の目元はいっそう腫れていて、髪が乱れていた。息も上がっているし、どうやら走って来たらしい。

「陽音、大丈夫?」

雅の心配そうな声を聞き、彼女は困ったように笑った。

「あはっ、結構とめられちゃった!マジで焦った~!だって校長、教頭、生徒指導に保健の先生まで出てくるんだよ?顔も見たことない人もいたもん!赤坂さん、悩みがあるなら聞くよ~って。はは・・・言えるかっつぅの」

元気だった声が尻つぼみになり、雅の肩にとん、と頭を寄せた。

「はー、ほんと、どきどきしたぁ」

「うん、・・・うん」

この距離でも、陽音の心臓が跳ねているのがわかった。自分の人生を自分で曲げるというのは、比喩でもなく、死ぬほど怖い。

 彼女の勇気に、自分の弱さに、泣きそうだった。



 笹良雅と赤坂改め笹良陽音は、ついに二人暮らしを始めた。

 場所は両実家および学校から少し離れた海岸沿いにある築52年の木造アパートの二階。事故物件なのか何なのか知らないが、2DKで2万円と破格。しかも二人同居可、子供可、ユニットバス付き。たぶんホントに何人か死んでいる。

 家を飛び出してから、雅はバイトを三つに増やし、家と学校間にあるバイト先から一時間かけ通学し、二時間かけて帰宅した。

 陽音も心配されつつコンビニのレジ打ちのアルバイトを始め、時間があるときはティッシュ配りなど単発のアルバイトもした。

 ふたりの持ち寄った少額の貯金を切り崩し、ある程度の家具をそろえると、その日の食費のために働くようになった。

 今までとは比べようもないほど目まぐるしい生活だった。

 そして比べようもないほど不便で苦しい生活だった。


 しかしそれでも、彼らは幸せだった。

 唯一信じ合え、愛し合える相手がそばにいることが嬉しかった。


 長くは続かなかったけれど。

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