第8話

 婚姻届が完成した。それに沿って、二人はともに住む新居の賃貸契約を結んだ。

 暑さの残る朝、学校に行く前にふたりは役所に婚姻届を提出した。

 制服姿で現れた彼らに、役所はしばらくざわついた。しかし彼らは堂々としていた。

「・・・おめでとうございます」

若い女性の役人の小さなその声に、二人は悲しそうに笑った。

 役人の彼女は、なんだか幸せになってほしい二人だな、と、この仕事をしていて初めて思った。


 二人の次の問題は、退学だった。

 話し合いの結果、雅はとりあえず卒業まではいることになった。部活はやめるけれど、一応卒業したほうが長い目で見たときに有利だろうということだった。

 対して陽音は出産、育児、心身どちらにも負担がかかる中、学校で勉強している暇も、好奇の目にさらされるメンタルもなかった。


 そこで問題になったのは、陽音が退学するためには、両親の印がいることだった。

 彼らの名を偽装し、強引にそれを受け取ってもらって、そのまま姿をくらます、ということもできるだろうが、あまりに現実的でなかった。

 両親を説得する。それはその存在から逃げ続けた陽音にとって一番の難関とも言えた。


 精神が不安定になり、泣きじゃくる陽音をなだめながら、雅は言った。

「いい?陽音。全部俺を悪者にして。俺に騙されているかのように振舞って。妊娠してることは言わなくていい。俺に騙されて、そのまま一緒に暮らすことになった、それだけでいいんだよ」

彼女は涙でぼろぼろの顔でしゃくりあげながら言う。

「だめだよ、ふたりで一緒に行くんでしょ?私だけ逃げちゃだめだよ」

「逃げるんじゃないよ。陽音、むしろ君は立ち向かうんだ。楽しているのは俺のほうだよ。無理言ってごめんね」

頭をなでる。彼女は雅の肩に目元を押し付け呻いた。

「ちがうよ!雅はずっと苦しんでるじゃん。もしも、雅がほんとに悪者にされて、むしろ退学になっちゃうかもしれないじゃん」

「その時はその時だよ。むしろ俺はいますぐ働きたいくらいなんだ。それが早まっただけだよ」

彼女はそれに対してもなにか反論したが、それはただの嗚咽となって消えた。

 何度も頭をなで、キスをして、抱きしめた。

 陽音の恐怖が、不安が、ひしひしと伝わってきて、切なかった。



 決行の日は、婚姻届を出してから二週間後のことだった。

 土曜日、一度公園に集まったふたりは、雅がこっそり免許をとった原付バイクに乗って陽音の家に向かった。

 バイクは竹井の兄のもので、それを頼みに行った時も、竹井は快くそれを受け入れた。

「これから、いっぱいツラいことあると思うけどさー、俺はずっと笹良と先輩の味方だし、ふたりが幸せでいることを願ってるよ」

いつまでも明るい笑顔だった。彼を頼りにすることを少し躊躇わせるほど、まっすぐで暖かかった。

 陽音の家の前まで来て、彼女はおもわず雅の背中をぎゅっと抱きしめた。

「・・・陽音」

彼女の指はぷるぷると震えていた。

「こわい?」

彼女は首を横に振ったが、彼女の爪は雅に食い込んだままだった。

「・・・俺と一緒に、悪者になる必要はないよ。陽音は騙されてるんだ」

さきほどより大きく、陽音は首を横に振った。

「ちがう・・・私は、悪者だよ。雅と違って、ちゃんと、悪い」

「悪くないよ」

「悪いよ」

「じゃあ、行こう」

ぱっと顔をあげる。泣きそうな顔でこちらを見つめる雅がいた。

「俺らは、親友の厚意にあぐらをかいて、原付バイクに二人乗りするような、悪い奴らでしょ?」

目を瞠った。怒ってる、と思うけれど、泣いてるようにも見えた。

「行こうよ。それが無理なら、もうなにもかも捨てて逃げよう」

雅は陽音を強く抱きしめた。息ができなくなるほど、強く。

「べつに、現世いまにこだわる必要ないもんね」

 彼と一緒になら、このまま終わってしまっていいと思っていた。

 だけど、自分のぐちゃぐちゃな人生に巻き込んで、あまつさえ未来を奪うのは、多分、違う。

「・・・雅・・・・・・」

「うん?」

――― 私はいったい、何度貴方にそんな顔をさせたのだろう ―――

唇を噛む。やっと、彼女は、自分で立つ決意をした。

「・・・ごめんね、逃げ、ない・・・よ」

「・・・ん」

彼は笑った。バイクから降りて、まっすぐ陽音に手を伸ばした。

「じゃ、堕落こうか」

「うん・・・!」

彼女が飛び降りたバイクが、すこし揺れて、ヘルメットが滑り落ちる。

 カーン、と甲高い音が、少しだけ響いていた。


 インターホンを押し、母親がおそるおそる玄関ドアを開けたタイミングで中に押し入った。

「え、は、陽音!?誰なの、これ!どういうこと!?」

母親の戸惑う声を聞きつけ、奥から父親も現れる。見慣れた娘の見たことのない表情におもわず眉根を寄せる。

 彼らの娘は、隣に立つ男と同じ目で両親を睨んでいた。

「突然ごめんね。私、彼と暮らすことにしたの。だから、この家出る」

そっと手を腕に絡める。娘の「女」の顔に、ふたりは戸惑いが隠せなかった。

「でもさぁ、結構遠いとこでさぁ、学校、行けなさそうなんだよね」

脳が状況に追いつけず、ふたりはただ黙って娘の話に耳を傾けていた。

「で、退学届書こうと思ったんだけど、親の名前いるんだよね。出すのはウチの学校、いろんな事情もあるだろうし、ってことで生徒わたしだけでいいんだけど、流石に名前はねー」

徐々に頭が追いついてきた父親は、娘、そしてその隣に立つ男を睨んだ。

 彼は厳格な父親を絵にかいたような人で、目鼻立ちもはっきりとしていて、目の前の相手に強い印象を植え付ける雰囲気を持ち合わせていた。

 しかし雅はそれに怯むことなく、黙って彼を睨み返した。

「・・・で、おまえは何が言いたい」

父親はすごむように言った。陽音は一瞬押し黙り、もう一度余裕そうな声と顔を作って言った。

「退学届にハンコ押してほしいの。それだけ。そんだけ済ましてくれたら、もう出てくから。ウチにあるものはもういらないし、捨てといてくんない?」

すると突然、父親に倒れこむようにしながら立っていた母親が陽音の頭を両手でわしづかみにして叫んだ。

「何言ってんの、この親不孝者!!」

甲高い悲鳴のような声で、陽音の艶やかな髪がブチブチと千切れていくのが見えた。

「やめてください!」

雅がすぐさまその手を跳ねのけ、陽音を自身の後ろに隠した。

 しかし母親はそのまま雅にとびかかり、長い爪で彼の目元を引っ掻いた。

「おまえがうちの子を誑かしたの!?そうでしょ!そうなんでしょ!?陽音はそんな言葉を言う子じゃなかった!!恋だのなんだの言う、そんな汚い子じゃなかった!!」

「・・・は?」

頭に血が上った母がついこぼしたその言葉が、陽音をこよなく愛す雅の癇に障った。

「陽音が、汚い?」

「しゃべんな、このクソガキぃ!!」

ばちん、と鈍い音が雅の耳を切り裂く。左頬と目元がずくずく痛んだ。しかし、彼の目の色は失せなかった。

「ふざけんなよ・・・陽音はいつだって綺麗なんだよ!騙されて、ズタズタになるくらいまっすぐなんだ!おまえ、陽音と19年間一緒にいて、いったい彼女の何を見てきたんだ!!」

雅の反抗に、母親の目はいっそう血走り、唇は噛み締めたせいで血が滲んでいた。額に青筋が浮かび上がり、彼女の手はまっすぐ雅の首に伸びていた。

 雅の白く細い首に、母親の赤い爪が食い込んだ。

 一瞬目の前が、赤く点滅した。雅は、憎しみの色とはこうかもしれない、と、ふと思った。

「――っ!やめろ、母さん!!」

父親が必死に彼女を雅から引きはがす。ほとんど同時に陽音が雅を抱きしめた。

「雅、雅・・・ごめん」

耳元で、彼女がすすり泣くのが聞こえた。

「はる・・・ね」

父親は暴れる妻を押さえながら、ふたりを見た。そして、誰にも聞こえないほど小さく、ため息をついた。

「・・・陽音、退学届を貸しなさい」

「あなた!」

「おまえは静かにしてろ」

陽音がおずおずと退学届をさし出すと、彼は母親を片手で抑えながら、玄関の靴箱の上で届け出に名を殴り書き、その名の隣にガラスの皿に造花とともに入れてある印鑑で判を押した。

 彼は書き終わった退学届をぐしゃっと握りつぶすように持ちながら、雅の胸に叩きつけた。雅は慌ててそれを支え持つ。

 父親は強く二人をにらみつけた。陽音は見たことのない父親の激しい感情に圧倒されていた。

 彼は低い小さな声で言った。

「親不孝者」

同時に家を追い出された。

 ドアが閉まる大きな音が、陽音を責め立てるように響いていた。


 門扉を越え、バイクの手前まで来て、我慢していたものが一気に爆発した陽音は泣き崩れた。

 寸前の父親の言葉が何度も頭の中で叫んでいた。

「よく、頑張ったね」

背中をなでる雅の声が、やけに遠くで聞こえた。

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