第7話

 雅はすぐに退学届けをもらいにいこうとした。しかし陽音はそれを止めた。

「雅はそのまま学校にいて。せっかくここまで頑張ったのに、もったいないよ」

「でもそれじゃあ、どうやって生きていくの」

 二人はあの日、初めて外泊をした。二人で寄り添いあって夜を越し、朝一番に婚姻届を役所でもらってきた。

 結婚したら家を出て、二人で暮らそうと約束した。そのための部屋ももう見つけてある。

「・・・お金は、確かに大変だけど、辞めちゃうほうがもったいないと思うの」

それはたしかにそうだった。「高校中退」と「高校卒業」の差はあまりにも大きい。ただでさえ生きていくのにお金がかかるっていうのに、出産、育児なんて考え始めると気が遠くなるほどだ。

「・・・だけど」

「私、働くよ」

彼女がパッと顔をあげる。土いじりをしていたせいで頬に土がついている。

 覚悟が決まった瞳を見て雅は多少なり動揺した。

「もちろん身重だし、どこも雇ってくんないかもしれないけど、それでも私、このまま学校に通っていけない・・・」

それもわかった。たくさん着こめば目立たないとはいえ、確実に大きくなっている腹をこのままにしておけば周りにバレるのは時間の問題だろう。それから出産もあるのだ。このまま学校に通うのは現実的じゃない。

「・・・でも、赤ちゃんがいる陽音だけ働かせて、俺が働かないなんて・・・」

彼女は笑った。からっとした明るい笑顔だった。

「そんなの気にしないで。私ばっかりワガママ強いてるんだし」


『え、それどういうこと・・・?』


二人は一斉に振り向いた。

「あ・・・竹井・・・」

竹井の顔は明らかに引き攣っていた。しばらくは反射的に笑い顔をしていたが、だんだん口角も下がっていった。

「えっ…と、…に、妊娠…?笹良と、赤坂先輩が…?」

「いや、雅は――」

「陽音!」

竹井の誤解を訂正しようとした陽音を慌てて制した彼は竹井に言った。

「黙っててごめん。竹井には色々世話になったのに…」

「いや、それはいいけどよ…」

頭をぽりぽりと掻く。雅のこんな強い目を見たのは初めてだった。

「・・・や、俺は別にカンケーねーし、いいんだけど・・・」

聞いていいものか、ぐるぐる考えていた。突然の出来事に完全にキャパオーバーだった。

 しかし雅、そして陽音からすると、ハプニングとはいえ竹井に妊娠を知られることは好都合だった。

「・・・竹井。本当に突然で悪いんだけど・・・」

ごくり、息を呑んだ。

「婚姻届の証人になってくれ」

「・・・は?」

呑んだ息を全部吐いてしまう。そのまま内臓まで吐いてしまいそうだった。

「え、は?・・・婚姻届、って・・・結婚すんの!?」

キン、と声が響く。竹井は慌てて口を手でふさいだ。

「大丈夫。まだ誰もいないだろ」

雅はひらひらと手を振り、改めて頭を下げた。

「急な話だってわかってる。竹井に頼むべきじゃないってことも・・・。だけどほかにいないんだ。どうか、面倒だろうけど・・・お願いできないか・・・?」

多分一生見ることのなかった自分より高身長の雅のつむじを見ながら、竹井は突然のショックジェットコースターに酔いまくっていた。

 陽音を見る。彼女も真っ青な顔をしながら、雅と同じだけ頭をさげていた。

 竹井は戸惑っていた。しかし、彼は迷ってはいなかった。

「・・・おぅ、いいよ」

ぱっと面をあげる。驚きと喜びの入り混じった、笑顔ともつかない不思議な表情だった。

「これでも一応笹良のことは一番のダチだと思ってるし、二人の恋愛は成功してほしいと思ってたしな。・・・さすがに展開はやくてビビったけど・・・」

にこっと笑った。彼特有の、あかるい太陽的な笑顔だった。

「ありがとうっ・・・!」

ふたりの目ににじんだ涙が、嫌でも彼に二人の心がどれだけ追い詰められていたか示していた。


 雅の鞄から飛び出てきた婚姻届に驚きつつも、竹井は証人欄に自身の名前を書いていた。経緯等色々説明する前に書き出した彼を二人は慌ててとめようとした。結婚とはそう簡単なことではないことは、学生の彼らでも十分わかっていた。

「俺こないだ成人したし、大丈夫だよ。ふたりは色々心配してくれてるけど、これだって俺の人生だ。俺が責任持つよ」

無鉄砲で頼りないような言葉だったが、雅の心には暖かな日が差した。改めて、この竹井という男の凄さを痛感する。

 横を見ると、陽音が黙って泣いていた。自分が頼りないばっかりに不安にさせていただろうし、彼女にとっては自分以上に竹井のこの言葉は助けになったのだろう。

「ありがとう、本当に、ありがとう・・・」

彼女は祈るように手を握りながら何度も泣いた。そのたびに竹井は困ったように眉をひそめ、「大丈夫ですって。二人で幸せになってください」と笑った。

 明るく優しいこの男は、大きすぎる重圧に押しつぶされかけていた彼らに、確かにまぶしい救いの手を差し伸べたのだった。


 書き終えた婚姻届を手渡しながら、竹井は雅らを心配した。

「とりあえず俺はいいけどよ、もうひとりの証人はどうすんの?俺に頼むってことは、両親からはあんま賛成されてねぇんだろ?結婚」

雅はすぅっと視線を上げ、「あぁ」とつぶやいた。

「大丈夫だよ。それに関してはね」

その瞳と声の冷たさに、竹井は自身の知らない笹良雅を見た。

「おー・・・なら、いいけど・・・」


 その日の夕方、雅と陽音はともに駅前のカフェにいた。

 しかしデートのような雰囲気ではなく、カフェだというのに紅茶もケーキも楽しまず、じっと黙って烏龍茶を眺めている。その物々しい様子に店員は面倒な客を入れたな、と口の中でつぶやいた。

 からん、と鈴が鳴って入ってきたのは、背の高い青年だった。明るい髪色をしていて、耳にはピアスがじゃらじゃらとついていた。

「いらっしゃいませ」

しかし彼は一切店員に目を向けず、黙って先ほどの二人の元へ向かった。

 ちらりと長い前髪からのぞいた顔は、なかなかに整っていた。

(ふぅん、イケメンが、あの気まずいカップルに何の用かな。修羅場?)

「――さん!これ、二番テーブルに運んで!」

「あ、はい」


 雅の目の前の席に座った青年は、不満そうに眉をひそめていた。

「で、何?何の用?」

ぶっきらぼうなその声は明らかに敵意がむき出しだった。

「・・・高頭次先輩」

雅の声は冷えていた。先ほどの高頭次よりずっと強い、敵意がにじんでいた。

 雅と陽音は、婚姻届の証人探しになかなか手こずっていた。なにせ学生結婚のうえに妊娠しているし、二人とも結婚したら両家と縁を切ろうとしているから親戚やクラスメートにお願いするのも難しい話だ。無論、竹井に書いてもらうつもりもなかったし、あれは言わばラッキーみたいなものだった。

 しかし、彼らには一人に対してのみ

を持っていた。

 高頭次すばる。赤坂陽音の元恋人であり、お腹の子の実の親。

一度全ブロックされていた連絡先だが、ダメ元で送ったところ、反応があった。

「・・・陽音は今、お腹に子供がいます。高頭次先輩、あなたの子です」

彼には、赤坂陽音に対してはっきりとしたがある。

「・・・ホントにオレの子なのかよ」

たとえこの男が負い目と感じていなくとも、彼の陽音に対する行動は、出るとこに出ればなかなかの凶器になる。・・・デジタルタトゥーを負わせることもできる。

つまり、この男に対してのみ、脅し道具がある。

「あなたの子です。私は今まであなた以外と性交渉をしていないの」

重ねて彼のほうもブロック解除したということは、陽音に対して何かしらの未練があるとふんだ。

 高頭次の頬は紅潮していた。恥ずかしさからか怒りからか、言葉を何度も飲み込んでいるように見えた。

「・・・カラオケにでも行きますか」

高頭次の様子を見た雅が小さく提案する。しかし彼はそれを断った。

「いい。もともと断る気もない話だ」

彼はギッとふたりを睨んだ。ふたりは努めて飄々とした態度で座っていた。

「・・・名前書いたら終わりだぞ。今度こそ二度とオレに関わるな」

雅は頷きつつ、婚姻届を机の上に出した。ボールペンを手渡す。

「ええ、そうしたらあなたと私のあいだにあったことは全部なかったことにするわ。この子も雅の子供として育てるし、もちろん養育費なんて請求しないわ」

「っ・・・助かるよ」

意外にも、彼の字は丁寧で綺麗だった。

 高頭次はふと、陽音を見上げた。じっと自分を見下ろす彼女は、一緒にいたときよりずっと綺麗だった。やつれているし、自分を軽蔑していることがはっきりとわかったけれど、それでも綺麗になったなぁ、と思わざるをえなかった。

 ころん、とペンを投げ出す。

「ありがとうございます」

なんの心もこもらない礼を言いながら雅はそれを鞄にしまった。

 それを確認した高頭次はすぐに立ち上がった。ぎぃっと音をたてて、椅子が後ろに下がる。

――― オレは、赤坂陽音こいつに何しただろーね ―――

(傷つけるだけ傷つけて、逃げる、なんて、我ながらクズだなぁ)

「赤坂」

顔をあげる。彼はその綺麗な顔でじぃっと陽音を見つめていた。

「ガチで、ごめんな」

目を瞠った。

「・・・・・・は・・・?」

「それだけ。せいぜい頑張って生きなよ」

ひらひらと手を振って、店を出た。

 陽音は怒りと憎しみで震えていた。

――― ごめん?なにそれ、なんだよそれ! ―――

「っふ・・・」

彼女の目から涙が滑り落ちた。雅は黙って彼女を抱きしめる。

「ぅう・・・っ」

ぼたぼたと紺色の服にしみをつくる雫が、次から次へと流れ出た。

 これほど憎くてなお、一番綺麗でもろい思い出に立っているあの男は、いつまでも残酷で美しい。

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