第6話

 陽音を抱きしめながら、雅はうっとりと微笑んだ。彼女を守れるのは自分しかいないと、小さな優越感のようなものが心の中で嗤っていた。

「陽音、話せることだけでいいから、教えてほしい」

努めて優しい声で、陽音に囁いた。

「・・・うん」

ぽつり、ぽつりと話し出した。

 陽音の話は自身も戸惑っているせいかうまくまとまっておらず、時間軸が前後したり、嗚咽で聞き取れなかったりと大変わかりづらかった。それでも雅はうん、うんと相槌を打ちながら陽音を抱きしめ、涙をぬぐい、微笑みかけた。

 高頭次とは二年生の夏から関係があったこと。

 高頭次と別れてすぐ、竹井から話があり雅と出会ったこと。

 妊娠したのはいつかいまいちわからないが、多分雅に出会う少し前だということ。

 妊娠が親を含め周りに知られるのが怖いということ。

 普段は通院していないが、ここ最近腹が大きくなってきて不安になり受診したのだということ。

 中絶するのはなんだか無理そうだということ。

 これからが不安で仕方がないということ。

 誰よりも雅を愛しているということ。

矢継ぎ早にこれだけのことを伝えた陽音は雅にしきりに謝った。

 雅は彼女の背をなでながら、「謝らないでいいよ。怖いだろ」となぐさめた。

「むしろよくここまでこれだけのことを一人で耐えたね。俺、すぐそばにいたのに助けてやれなかった・・・」

小さくうつむいた雅は、やるせない気持ちで唇を噛み締めた。

「・・・ごめんね、陽音」

陽音の瞳が揺れた。長い色のまつげが透明なしずくをはじいていた。

 陽音の小さな嗚咽だけが寂しい公園で響いていた。

 透明なベールが二人を周りから引き離して包んでいた。


 夏休みの間、ほとんどずっと二人は一緒にいた。陽音は家に居にくかったし、雅はそんな彼女を放っておくことはできなかった。

 その間にも陽音の腹は徐々に大きくなり、心なしか肉付きもよくなっていっていた。しかし顔色は一層悪くなり、彼女はよく泣くようになった。

 今まで暖かく優しく守られて育ってきた少女にもうひとりの命はあまりにも重かった。それを一人で耐えさせてきたことに雅は強い後悔を抱きながら、彼女の背をなでた。

 夏休み最後の日、花火大会があった。

 学生はその日けして暇ではないので、あまり人は多くない。

 蝉がゆっくりと鳴くその夜、二人は手をつないで高台の神社で花火を眺めていた。足元ももうほとんど見えない真っ暗闇の中、互いの呼吸だけがうっすらと聞こえていた。

 別におしゃれはしていなかった。いつも通りふたりでいたとき、花火の音が聞こえて長い長い階段を上がったばかりだ。

 特徴的な形の花火はあがらなかった。単色の花火が次々に空で咲いては散っていた。

 雅が横目で陽音をみる。彼女はじっと空を仰いでいた。彼女の蒼い顔に花火が映って、そのまま夜の空に溶けてしまうような気がした。

 今、彼女をとどめておかなければならないと、強く思った。

 気づけば、衝動的に彼女の腕を掴んでいた。全体的に丸くなったはずなのに、腕は細く弱々しかった。

「・・・どうしたの?」

彼女は美しかった。髪の毛は手入れしなくともつややかだった。肌はいつまでもなめらかで白かった。瞳は大きく、まつげは長かった。

「陽音」

彼は美しかった。背は高く、しゅっとしていた。切れ長で魅力的な目をしていた。暖かい大きな手をしていた。

 陽音は穏やかで、我慢強かった。

 雅は優しく、思慮深かった。

 すれ違わなかったかもしれない二人は、互いが美しく愛おしく切なかった。


「結婚しよう」


陽音の目にはいっぱいの涙がたまった。雅の目にもいっぱいの涙がたまった。

「俺、学校辞めるよ。それで働く。もともと進学はしないつもりだったんだ。そのためにいろいろ資格も取ってたし、内緒でバイトもしてる」

花火が咲いた。陽音の顔が一瞬赤く染まり、そのまま暗くなった。しかし、顔の赤みはもう引かなかった。

「・・・たくさん、苦しい思いをさせると思う。貧乏だろうし、つらいと思う。俺は社会の厳しさも知らないし、陽音を今よりずっとボロボロにするかもしれない」

ぼたぼたと、涙が頬を伝い落ちた。

「それでも俺に、ついてきてくれませんか」

陽音の顔がくしゃりと歪み、鼻先から耳まで真っ赤で、顔は汗と涙でぐしゃぐしゃだった。

「・・・っ」

顔を覆う。細い指が必死に涙を払った。

「私は、たくさん、たくさん迷惑かけると思う。雅をたくさん傷つけるだろうし、苦しめると思う」

しゃくりあげながら、必死に声を出した。

「雅を捨てて逃げるかもしれない。でも私は捨てないでほしい」

また花火が咲く。青い花火だった。涙の色だと思った。

「こんな私がそばにいたら、あなたを苦しめるってわかっててそばにいた」

言いたい言葉も、言いたくない言葉も、次々に口から逃げ出した。


「もう、私のために人生無駄にしちゃだめだよ」


「無駄じゃない」

声は冷静だったが、顔は怒りと悲しみで真っ赤だった。

「陽音がいない人生のがよっぽど無駄だよ」

彼は腕を広げた。

「指輪もない。金もない。夢もない。未来もない。でもそばにいてください」

陽音は躊躇った。今彼の胸に飛び込んでしまえば、もう抜け出せない地獄に堕ちることは自明の理だった。

「・・・私と一緒に、地獄に堕ちてくれる?」

雅は微笑み、うなずいた。

 細い腕をいっぱいにのばし、彼を抱きしめた。


 初めてのキスは花火とともに夜空に溶けた。

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