第5話

 陽音と両想いになった雅には日々が輝いて見えた。毎朝学校に行くのが一層楽しかった。授業がどれほどくだらなくとも、彼女がいると思うだけで幸せだった。

 手をつなぐだけで幸せだった。

 笑っているだけで幸せだった。

 そばにいるだけで幸せだった。


 もちろん彼は、陽音の秘密を知っても愛していた。



 夏の暑さも本格的になってきたころ、陽音にデートを断られしょんぼりしていた彼は久しぶりに部活に顔を出していた。

 雅は「文学研究部」と言うのに入っていて、基本参加自由というゆるゆる部活だ。ちなみに活動はひたすらに本を読み、それについての感想文を書く。それだけ。研究というわりに研究は全くしない。

 その帰り、彼は母親に晩飯の食材を買うように頼まれ、スーパー経由で最寄りの次の駅に向かっていた。

「重い・・・」

両腕を締めるビニール袋に顔をしかめる彼はおもわず小言をこぼしていた。

 少し遠いくらいの感覚だった次の駅がやけに遠く感じる。国道に沿いつつ、ギリギリ見えている駅に向かって歩いていた。

 ふと、ふわり香りが漂った。花にもフルーツにも似た、ここ最近いっそう好きになった香りだった。

 誘われるように顔をあげる。目の前に飛び込んできた姿に、一瞬戸惑った。その後その出所に気づいて、瞬時に湧きあがっていた喜びがしぼんでいくのがわかった。

 彼女は彼の存在に気づくのに少し遅れた。学校にそれなりに近いと言えど、違う駅に通い、もうすこし遠いところに住んでいる雅に知られることは絶対にないと過信していた。

 彼女は雅に気づき、一瞬逃げようとした。しかしすぐに、もうどうしようもないのだと気づいた。

「はる・・・ね?」

戸惑っている彼の声が、どうにも切なかった。

 彼女は膝から崩れ落ちた。


 雅は泣き崩れた彼女に戸惑いつつも、近くの公園に身を寄せた。

 彼女の背中をなでながら、数分前の情景を思い出す。

 陽音が出てきたのは、産婦人科の病院だった。たぶん、生理とか、そういうのなんだろう。陽音の年頃の女の子が、男に性事情を知られるのに抵抗があることくらいはニブニブの雅にもわかった。

 すこし陽音が落ち着いてきたことを確認すると、雅はおずおずと尋ねた。

「・・・あの、俺、ちょっと離れたほうがいい・・・?」

陽音はしばらく悩んでいたが、黙って首を横に振った。

「・・・もう、隠せないね」

覚悟を決めたような寂しい声が、どうにも雅の心を不安にさせて仕方がなかった。

 陽音は顔を上げた。涙でぼろぼろだった。雅は崩れた彼女を見てもなお美しいと思った。

 唇を噛み締める。心臓がうるさいくらいに鳴いて、涙で視界が滲んだ。息がつまる。それでも、言わなくちゃならない。

「・・・雅、私ね・・・」

雰囲気から深刻な話であることを悟った雅は、黙って口を閉じた。

「私、妊娠してるの―――」

彼の弱っちい覚悟など、一瞬で叩き割る衝撃だった。


――― ニンシン ―――

言葉の意味は知ってるし、彼女が言っている意味もわかった。けれど理解ができなかった。だって陽音は雅の好きな人であり恋人だし、なによりたった一つ上の少女だったから。

 いくつもの言葉が脳に浮かんだが、実際口にはできなかった。ただ目を瞠り、息を呑んだ。

「なん・・・いや・・・それ、は・・・誰の・・・・・・」

聞いていいことかわからず、慌てて首を横に振った。しかし陽音は真っ青な顔で笑った。

「知ってるかな。高頭次たかとうじくんって言うんだけど」

知らないはずがなかった。有名な先輩だ、主に悪い方面で。

「・・・陽音、さん。高頭次先輩とお付き合いしてたんですか・・・?」

彼女は眉をひそめて笑った。細い指で脂汗の滲む頬を掻いた。

「そぉだね・・・てゆぅか、私だけ?みたいな・・・彼はそういうつもりじゃなかったみたい」

ふつふつと、胸の底のほうで怒りが湧きあがるのを感じた。

 高頭次すばる。彼の所属するサッカー部の中でも有名なサボり魔だったが、その優れた容姿から恋人が絶えることはなく、また恋人だけでなく浮ついた噂もけして絶えない男だった。基本同性からも異性からも嫌われていたが、彼に惹かれたものは彼を徹底的に愛してしまうほど、不思議な魅力をもつ男だった。

 口ぶりから察するに、赤坂陽音もまた「噂」の一人だったのだろう。

 雅はうつむいて考えていた。自分の知らない赤坂陽音にふと思いを馳せた。しかし、そこには闇しか残らなかった。

 雅の世界には陽音しかいなかった。彼にはそれしか見えなかった。高頭次の影も、彼女の思いも、お腹の子も。彼には見えなかった。

 雅は黙って抱きしめた。

 陽音は目を瞠り、その目の端からぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。

「みやびっ・・・!」

ぎり、と背中に食い込む爪が、たまらなく愛しかった。


 赤坂陽音が高頭次すばるの子を妊娠したのは、彼女が雅に出会うほんの少し前。久しぶりに雪が降った日だった。そしてその日が、彼女と高頭次が別れた日でもあった。

 高頭次にとって陽音は都合のいいお人形さんだった。見た目は好みだったが、病弱なところや世話焼き気質は彼には面倒だったし、彼女の勉強熱心な姿は彼のコンプレックスを刺激していた。

 真っ白な部屋で、ほんのりと頬を染める陽音を見おろし、彼はするつもりもない受験を理由に残酷にも彼女を切り捨てた。

 現実を受け止めきれない陽音を残し、高頭次は部屋を出た。

 彼女はその晩たったひとりで家に帰り、浴室で体を流しながらぼろぼろと泣き崩れていた。

 陽音にとって高頭次は、初めての恋い惹かれた相手だった。その美しい容姿に、優しい言葉に、甘い視線に、溺れて夢中になってしがみついて。手を離されたら何がのこるかなんて考えてもいなかった。

 残ったのは、愛の結晶なんて言葉じゃ片づけられない重い責任だった。

 気づいたのは春先のことだった。薬や病気の関係で生理が止まることを時折経験していた彼女は今回もその類だと思っていた。

 しかし、お腹が重たく、あまりにも長期間であったこともあり産婦人科を受診した彼女はそれが妊娠であったと知った。

 ショックだった。目の前が真っ暗になるような感覚があった。

 はじめ、両親に知られることが恐ろしかった。今まで大事に大事に育てられてきた分、はしたない子だと頬をぶたれる勇気がなかった。


 陽音は妊娠が発覚した直後、「堕ろしてください」と叫んでいた。あの時の医者が向けた失望と軽蔑が入り混じった瞳はずっと強く脳裏に灼きついている。

 疲れ顔した医者はため息を飲み込んで言った。

「未成年の方は保護者とお相手の署名がいります。そもそもお母さんは知ってるの?このこと。母体のこともあるし、勝手に堕ろしちゃだめよ」

諭すような、嗜めるような声色が陽音の中で強い抵抗感を生んだ。

 陽音の瞳の奥が揺れ、唇がわなわなと震えたとき、医者はしまったと思った。ただでさえ不安定な心を、これ以上揺さぶっちゃいけなかった。

 彼女はぎゅっと膝上の拳を握りしめ、うつむいた。絞り出すような声がかすかに医者の耳に届く。

「・・・あ、そぅです・・か・・・じゃ、あ・あの・・・ありがと、ございます・・・」

ごぅごぅとゆれる波のような声に明らかな動揺と怯えが見られた。医者が彼女をなだめようとしたとき、彼女はスッと席を立ち、診察室を出ていこうとした。

「ま、待ちなさい!次の予定を・・・!」

陽音はそのまま出ていった。

 受付でもしつこく次の来院日を聞かれたが、陽音はたった一度「だいじょうぶです」と言うだけで他は何も答えなかった。

 そしてもう二度と行かなかった。彼女が通院を拒否したため、いつもと同じ月経不順だと思った両親はさほど気にしなかった。


 通院をしなかった陽音は、両親と周りと、雅に妊娠がバレないように必死だった。高頭次と別れてからボロボロに荒んでいた彼女の心身は、雅のおかげで潤ったといっても過言でなかった。高頭次のこともあり陽音は雅に捨てられてしまうことが恐ろしかった。

 口が裂けても言えないと思った。思っていた。

 その矢先のマラソン大会だった。胎児を抱えて走ることの危険性もよく知っていたが、マラソンを休むことにより病院に連れていかれるほうがおそろしかった。もしいつも通り入院になったら、なにかの検査で妊娠だとバレたら、もう人生の終わりだと思った。

 しかし案の定、走り出してすぐに鋭い腹の痛みと諸々の体調不良が彼女を襲った。

――― このまま死んでしまえたらいいのに ―――

涙を流しながら、彼女は笑っていた。

 けれどそれでも、笹良雅は赤坂陽音を探した。彼女のために走り続けた。

 背中に当てられた彼の手を、離したくないと、思ってしまった。

 今彼を離さなければ、彼を巻き込むとわかっていた。彼のまっすぐな想いを利用することになるとわかっていた。

 それでも、陽音は、

――― 彼をどれほど傷つけることになっても、もう私はこの手を離せない ―――

夕暮れの公園で、彼女はゆっくり、ゆっくりと彼の首に鎖を巻いた。

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