第4話
雅は彼女を林を越えた先の住宅街の少し外れにある公園へ連れて行った。公園と言ってもベンチがあるだけで、ほとんど植物が生い茂っているため、足場は悪い。ただ、教師の監視の目から彼女を隠すには丁度良かった。
椅子に座らせると、陽音はばたりと倒れ込み、真っ青な顔で腹を撫でた。
その尋常でない顔色に雅は自身の顔を青くさせながら不安がっていた。「ホントに大丈夫なの?病院行こうよ」言いたい言葉は何度も頭に浮かんだが、口に出すと陽音が泣いてしまいそうで出来なかった。
陽音は自分の脈がふらふら揺れていることがわかった。頭もぐらぐらして気持ち悪い。
頭痛と腹の不快感が一層の吐き気を誘い、目の前に雅がいなければ嘔吐していただろうと容易に想像できる。
口によだれがたくさん出てきた。その自身の唾液がまた吐き気を催す。
ぼろぼろと目の端から涙がこぼれた。ベンチの直ぐ側でしゃがんでいた雅はぎょっとして、涙を拭おうと伸ばした手の行き先を迷っていた。
陽音は固く瞼を閉じ、顔は目元以外真っ青だった。
雅は伸ばした手を彼女の額にあてた。熱いような気がするが、よくわからない。
だから彼は黙って彼女の頭を撫でた。そっと優しく撫でる。
それによって痛みや吐き気が収まるわけではなかったが、それでも気の高ぶりはだんだん落ち着いてきた。
さっきまで暑さでぼぅっとして気持ち悪かったのに、雅の手の熱は心地よかった。
「みやび、・・・」
「ん?」
青いどころか白くなりつつある陽音を見ながら雅は返事をする。
「はやく、いかないと・・・失格になっちゃうよ・・・?」
彼女は雅の手を握り、自身の額から離した。
「休んだら、なおる、から」
唇を噛んだ。やるせない気持ちがぶわっと胸中に広がる。
「・・・迷惑?」
陽音は困った顔で笑った。
「ちがうよ」
「俺が心配なの?」
「うん」
「なんで?」
「だって・・・」
彼女は口をもごつかせ「成績、あるもん」と返した。
「前から、長距離だけは得意って言ってたし、今日もすごく速かったから、無駄にしてほしくない・・・」
雅は唇を引き締め、うつむいた。さらさらな髪が重力に負けて流れる。
「・・・今日、頑張ったのは、陽音が心配だったからだよ」
「え?」
「陽音が青い顔してたから、本気で走った。陽音が苦しそうだったから、ここに運んだ。俺は陽音がしんどいならそばにいたい」
顔をあげる。泣きそうな顔に見えた。
「でも陽音が嫌なら・・・やめとく」
そう言って手を離す。傷ついた顔で彼は笑った。
陽音はその顔を見て大きく戸惑った。どうするべきか、なんとなくわかる気がした。
気づけば彼女の手は彼に伸びていた。
「・・・いやじゃ、ない」
雅は目を瞠り、それからくしゃりと笑った。
「よかった」
日が暮れていくのを見ながら、雅は眠る陽音のそばにいた。徐々に彼女の顔色がよくなっていった。
このときが永遠に続けばいいのに。流れていく雲が彼に影を落とした。
ふと陽音に視線を落とした彼は、その白い頬をつたう涙を見た。
指先で拭う。それに伴い彼女が目を開けた。
「あ、起こしちゃった。ごめんね」
「ふぁ・・・いいの。私、どれくらい寝てた?」
「少しだよ」
彼女はぐいっと上体をあげ、地面に座り込んでいる雅に隣に座るよう促した。
雅が隣に座ると、陽音はその肩に頭を預ける。
「じゃあ、行こっか」
「もうすこし休まなくて大丈夫?」
「うん、もう大丈夫。巻き込んじゃってごめんね」
かくっと首を傾げて雅を見た。雅は半ば反射的に、彼女の小さな拳を掴んだ。
「えっ、どうしたの?」
雅の顔は真っ赤だった。それにつられるように、陽音も頬を赤らめた。
「・・・好き。俺と付き合ってください」
ぶっきらぼうな一言だった。けれど陽音の心をつかむには十分だった。
陽音の寝顔を見ながら、雅は思っていた。たぶん自分の心に在るのは恋なのだろう。気づいたらもう、伝えずにはいられなかった。
それに対して、陽音は悩んでいた。
陽音もとっくに雅に恋していた。たぶん雅よりも先に自分の恋心に気づいていた。
しかし、彼女にはどうしても言えないことがあった。「素敵な何か」で済ませられない大きな秘密を隠していた。けれど
「・・・陽音?」
・・・けれど、どうしてこの気持ちを抑えられようか。
彼女は顔を上げた。
「・・・私も、大好き」
陽音の目に映ったのは目をきらきらと輝かせた、赤面の雅だった。
彼は口をしばらくパクパクさせて、断念したかのように陽音を抱きしめた。心臓がいまだかつてない速さで動いていた。
陽音は雅の背中をぎゅっと抱きしめながら、そっと涙を流した。
自分の罪の泉へ、雅を引き込んだことへの後悔と、小さな安堵がさらさら流れていった。
二人は手をつないで学校へ戻った。とっくに日は暮れ、学校の門の扉は閉まっていたため、教師が校門で二人を待っていた。
鬼の形相で彼は問うた。
「・・・何をしていたんだ」
「迷っていたんです」
雅が答えた。
陽音は雅に体調を崩したことを他人に知られたくないと言った。彼女の頑なな姿勢を知っていた彼はそれを受け入れ、長らく迷子になっていたことにした(計5時間強)。
「・・・は?」
「迷っていたんです」
彼の凛とした姿勢に、教師は戸惑いを隠せなかった。
「・・・赤坂はまともに参加できていなかったからわかるが、笹良はなんだ。もう2回同じコース走ったろ」
「迷ったんです」
「二人仲良くか」
「いえ、互いに迷っている中、偶然会ったんです」
教師は呆れてものも言えなかった。なのになぜか勝気な姿勢だからもはや不気味だった。
「・・・まぁ迷ったはいいとして、なぜ連絡しなかった」
「携帯は持って行っちゃダメなんですよね?」
規則的にはそうだった。しかし持っていかない者などほとんどおらず、緊急の連絡などの場合も鑑みて暗黙の了解となっていった。
ただこの二人の場合は違った。雅はどうせ早く走り終わるだろうから携帯なんて邪魔でしかなかったし、陽音は下手に携帯があると母や学校、病院に知らせを入れられる可能性を恐れ持ってこなかった。
教師はおもわず怯んだ。
「・・・そっそうだが・・・公衆電話だって・・・」
「財布もダメですよね?」
こちらも暗黙の了解だった。
「うっ・・・」
そして陽音の出番だった。
「・・・連絡方法もなくて、どうしようもなくて、笹良くんと会ったときはほんとに泣きそうだったんです。さっきなんとか海まで戻れて、やっとここまで・・・」
言葉を詰まらせながら言うと、教師はますます怯んだ。
「・・・わかった。システムに穴があったこちらの責任だ。今回の評価はまたあとでつける。荷物は持ってきてあるから、各自気をつけて帰るように」
雅と陽音は互いを見た。弾けるような笑顔が咲いた。
ふたりを見送った教師は、とぼとぼ職員室に戻ってきた。残っているのは残業中の何人かだけだ。そんな彼らももう帰り支度をしている。
先生らはヨボヨボの顔をした彼を見てぎょっとした。
「先生、どうしたんです?彼らは来ましたか」
彼はぽりぽり後頭部を搔いて笑った。
「いや、あてられましてね。・・・青春って、いいなぁ」
その時の彼は灰色にくすんでいたという。
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