第3話

 冬の定番とも言えるマラソン大会。雅たちの学校は三年生も参加させるために春に行われる。

 無論、三年生を迎えた雅、また陽音も参加する。

 マラソン当日の朝、全校集会で集められた生徒たちは、これからやってくる地獄にげんなりしたり、友達と校長の陰口を叩いたり、欠けた爪を眺めたりしているが、雅はじっと右端に立つ少女を見ていた。

 全校集会の時は、朝礼台を正面に左から三年二年一年と並んでおり、1学年の内訳は右から1~7組である。

 赤坂陽音は3年1組1番、笹良雅は3年6組15番である。何かしらの力が働いて同じクラスにならないことかと思ったものだが、現実は残酷だった。

 雅の目には1組の一番前で立つ陽音の姿しか映らなかった。

(なんか…体調悪いのかな?)

いつもまっすぐ前を見つめている陽音が、うつむき、憂鬱な顔で腹に手を当てていた。走る前から顔色が悪い。

 もともと体が弱い陽音のことだ。ストレスでお腹を壊したのかもしれない。

 声をかけたかったが、朝一番から体操、そのあとすぐに走る今日のスケジュールではできなさそうだった。


 走るコースは学校の西門を出発し、住宅街をしばらく走り、それから海に出る。足場の悪い浜辺をぬけると、またしばらく住宅街を走って、そこから鬱蒼とした林の中に入る。先生の監視の網の目がぽっかり抜けるそこは夏でもひんやりとしていて薄暗く、一種のサボりスポットだった。しかし一本道であるから、先生にはバレなくとも他の生徒にはバレるため、陽キャでなければ茨の道と言えよう。茨を抜けて、長い坂道を上り、うねうねとした小路を通ると、あとは一気に下って学校の東門につく。合計で20㎞ほどだ。

 走る順番は3年1組から始まり1年7組で終わる。前のクラスの最後尾者が第一先生ポイントを抜けると、次のクラスが走り出す。

 このマラソンの意地悪いところは、きっちり成績に入るところである。タイム然り走る態度然り、ここを落とすとなかなかの痛手になるので、欠席もしづらい。

 陽音がそういう圧力を感じたのではないかと心配だったが、彼にできることはひとつだった。


 1組が出発する。フェンスの向こうで陽音を見ていた雅に、彼女は気づかないまま青い顔で消えていく。

 それから30分ほどして、やっと雅が出発する時間だった。

 息を吐き、腕をまくる。

 運動はけして得意ではなかった。特に球技などはドンくさいせいでまともに使えず、大体足手まといになって終わる。またリズム感もないため、縄跳び、ダンスも大の苦手だ。

 しかし雅は、唯一、長距離走が得意だった。陸上部でもないのに県の大会で優勝をかっさらうほどに。

 長距離は短距離のように瞬発力はいらない。球技のような判断力はいらない。ダンスのような協調力もいらない。

 ただ、前を見て走るだけ。

 もちろん辛くないわけではないから、1年,2年の内はただ早く終わらせるためだけに走った。

 今の雅には、はっきりとした目標が見えていた。

「よっしゃ、6組、スタート!」

酒焼けした体育教師の声が響く。雅の体は皆より少し遅れてスタートを切った。

 1歩目は遅れた。2歩目は追いついた。3歩目で一人抜かした。4歩目に3人抜かした。5歩目で10人抜かした。6歩目にはクラスの半分を抜かした。7歩目でトップに立った。

「え、笹良っ―――」

瞬時に先頭に立った雅を見て竹井はおもわず彼を呼んだ。

「そんな飛ばしたらっ!後でどうなるか――」

「俺は、バテねぇ」

竹井がその言葉を聞いたとき、雅はもう遠くへと走っていた。


 しばらく走っていると、大あくびかましている一年担当の数学教師がいた。

 風のように走り抜けた雅を見た彼は目を見開いた。彼が最後尾者通貨の合図を送ってから、幾何も経たないまま、次の生徒が来てしまった。しかしその後続はおらず、彼が頭一つ飛びぬけていることに気づいた。

 彼は手のひらでメガホンをつくって声をかけた。

「頑張るのはいいが、あまり飛ばしても後半大変だよ」

雅は答えなかった。彼の額にいくらか汗が浮かんだ。

 雅に彼の助言など届かなかった。底知れぬ持久力、精神力を持っていた雅は、本気で走ってみて自分の限界はまだ遠くにあったことを知った。


 雅はそのまま順調に1クラス抜き、2クラス抜き、そして海に出た。

 飄々と走り去っていった彼に男も女も嫉妬も羨望も抱けず、ただ唖然とした。彼は、明らかに異次元だった。

 砂に足を取られながら、彼は4人目の先生を横目に走った。

「おおっ、4組か?速いな」

目じりにしわを寄せて手を振る教師は自身が担当している生徒の顔など覚えていなかった。地理の小テスト、5回連続3/10点の笹良雅だなんて、思いもしなかった。

 雅は静かに走っていたが、初めての大幅ペースアップに心臓がついていけていなかった。

 なんだか、耳の奥で心臓が鳴っている気がした。

 目の前は明るかった。どこかに陽音がいることを思うと気も抜けなかった。

 だが不思議と、疲れは感じなかった。


 海を走っているうちに3組に混ざりこみ、林に入るあたりで抜かし切った。

 林に入るとやはりしんとしていて、冷えた風が吹いていた。どうやらもうクラスごとに集まってもいないらしい。個人個人でぽつぽつ走っている。

 静かな林の中、緩やかな坂道をのぼっていると、ここには自分しかいないような、寂しく不思議な高揚感があった。

 大きなカーブを抜け、またしばらく走ったところで、道でうずくまる人が見えた。

 雅はすぐに陽音だとわかった。


***


 走り出す前から、陽音は心配でたまらなかった。下手に体調を崩せば、病院に行かなくてはならない。けれど走らなければそれまたそれで病院行き。

 腹にそっと手を当てる。何とも言えぬ不快感が広がっていた。

 きもちわるい

 まだ何の整理もつかないまま、彼女は走り出した。

 1㎞も走らないうちに、彼女はぼろぼろだった。息ができないし、足は折れそうなほど痛んだ。それでも必死に、この林の中までやってきた。ここまでの道で倒れたら、絶対に教師に気づかれる。

 だから、林に入ってしばらくして、倒れこんだ。頭が鋭く痛み、それ以上の不快な痛みが腹を突いた。吐き気もするし、目の前が霞んで見えた。

 腹が波打っている気がした。耳鳴りがして、体中を黒く穢い靄が覆うような幻覚に苛まれた。

 呻いた。誰にも届かないことが幸いだったが、誰にも届かないことが悲しかった。

 息ができないまま、ぼろぼろと泣き出す。涙と鼻水とよだれで顔中ぐしゃぐしゃだった。

 肩を揺らして、背中を震わせ、しゃくりあげる彼女を見つけたのは、他でもない彼だった。

「陽音っ!」

すぐに振り向いた。颯爽と走る雅がいた。

 雅の声ははじめ嬉しそうだった。しかし彼女が泣いていることに気づくとみるみる顔を青くさせ、ひざまずいて様子を見た。

「陽音?大丈夫?」

彼はハンカチを出し、彼女のぐしゃぐしゃの顔を優しく拭った。

 雅にだけは見つかりたくなかった。けれど見つかるのは雅がよかった。

 耐えられない矛盾を抱えた陽音は、うわぁっと泣いて雅に抱きついた。雅は驚いて目を瞠ったが、すぐにその小さな頭をなでた。

「どうしたの?先生呼ぼうか」

首を振った。

「病院は?」

また首を振る。今度は、一層大きく。

「何があったの?」

ことさら優しく言うと、彼女もいくらか落ち着いてきたのか、しゃくりあげながら答えた。

「おなか、おなかきもちわるい……」

「大丈夫!?トイレ?」

首を振る。小さく「ちょっと休んだらなおる。から、先行って」と笑った。くたびれた笑顔で、頬には涙の痕が残っていた。雅の心がぐらんっと揺れた。

 雅はしばらく周りを見渡し、誰もいないことを再確認すると彼女を抱き上げた。

「ひゃっ!?みやび!?」

彼はぎゅっと陽音を抱きしめた。

 貧弱な彼の腕に、陽音の体はけして軽くはなかった。だが雅は彼女の重みなど感じなかった。ただ彼女を助けたいとだけ考えていた。

「急にだっこしてごめん!急ぐから」

走り出した。背中と首が引き攣るような痛みを感じた。けれど足をとめなかった。

 陽音のほうも、頭の中をぐあんぐあん揺らされるようで気分が悪かったが、人肌がすぐそばにあるだけで安心した。あふれていた涙はとまり、彼女は雅の胸に顔を寄せた。


 少なくとも、今ここにいるのは陽音と雅だけだった。

 若芽が芽吹くような風が揺れた。

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