第12話
バイト中だった雅が一時間も早く陽音の元へ帰ってこれたのは、ある人物からのタレコミがあったからだ。
彼の携帯にかかってきたのは、見知らぬ番号。周りを確認してこっそり出ると、聞き覚えのある声がした。
「笹良雅だな?娘は元気か」
特徴的なハスキーボイス。一度聞けばなかなか忘れないだろう。
「・・・陽音の、お父さん。なんで俺の携帯番号知ってるんです・・・?」
電話の向こうにいたのは、かつて退学届に名を書き、陽音に消えない釘を刺したあの父親だった。
「・・・これは私の独り言だ」
雅は黙って話を聞いた。
「最近の妻の行動はすこし目に余る。いくら娘が可愛いからと言って、保険証の利用から住んでいる地域を割り当てたり、自宅を見つけるために探偵を使うのは流石に犯罪ではないのか?確かに私たちの娘だが、彼女はなにより笹良雅の妻なのだろう?たった今また家を出ていったが、いったい何をするつもりだろう。ことによっては通報されても仕方ないな」
愕然とする。まさかそれが本当の出来事だなんて思いたくなかった。
「それ、本当ですか・・・?」
「・・・あくまで私の独り言だ。私からはそれだけ。迷惑をかけたな」
ブツッと通話が切られる。
気づけば体が動いていた。
バイト長にことの次第をざくっと説明し、走り出した。
走りながら、千々岩さんに電話をかけ、彼女が陽音の母に情報を渡したことが判明した。しかし雅は彼女を責める時間も惜しく、今家の前にその女がいないか確認をとったところ、まさしく誰かを待ち伏せしていると教えてくれた。
ここ最近走ってばっかりで足はすっかり疲れ切っていたが、彼は走り続けた。
彼女のためなら、足が壊れてしまったってなんの問題もなかった。
家に向かいながら警察に通報し、帰宅してあの光景を目の当たりにした。
雅の心に湧きあがったのは、冷えた怒りと憎しみ、そして侮蔑の思いだった。こいつのために言葉を渡すことさえもったいなく思えた。
パトカーのサイレンが近づくにつれ、母親の顔が青くなり、いずれ逃げようとした。しかし彼はそれを押さえ込み、何もいうことなく静かに見下ろした。
ただ、これが陽音を苦しめたと思うと、そのまま絞め殺してやりたかった。
その後、警察に受け渡し、彼は陽音の待つ家に戻った。
恐怖で怯え、泣いている彼女のために彼は警備のアルバイトに休むことを伝え、一緒に布団に入って一晩中背中をなでていた。
それからだった。
ある日、清掃バイトを終わらした雅が帰宅すると、家の電気がついていないことに気づいた。
ぞっと背筋が冷え、慌てて階段を駆け上がりドアを開けた。
「陽音!いる!?」
かさり、と物音がする。電気をつけて中に入った。
それはそれは酷い惨状だった。
カーテンが千切られ、食器棚が倒され、タンスからは服が引っ張り出され、ちゃぶ台がひっくり返っている。
「なんだ、これ・・・」
足元に気を付けながら、彼女がいるはずの奥の寝室に向かう。
「陽音!?いるの?」
がらりと襖を開けた。
安心していい。笹良陽音は確かにその部屋にいた。ベッドに寄りかかり、すすり泣いていた。
しかし、その様子を見れば一目瞭然だった。
この家をここまでぐちゃぐちゃにしたのは、間違いなく、陽音だ。
「はる・・・ね」
顔を向けない。隣に座って、背中をなでた。
「陽音・・・?どうしたの?」
びくっと体が震える。ひっくひっく、としゃくりあげる声が枯れていて、1日中大泣きしていたことが分かった。
「・・・みやび」
「うん?」
「わたしのこと・・・すき?」
「大好きだよ」
「ほんと?」
「うん。大好きだよ」
「うそだ」
「嘘じゃないよ」
「うそだよ」
「嘘じゃない。大好きだよ」
雅は彼女の肩を持ち、体を上げた。目がパンパンに腫れ、涙で髪がべたべたしていた。
「こっち向いて?陽音」
「やだよ。私ブサイクだから」
「かわいいよ」
「かわいくないよ。だから雅も私のこときらいでしょ?」
「嫌いじゃないよ。大好きだよ。いいからこっち向いて」
ゆっくり顔を向ける。目が腫れていても、髪の毛がぐしゃぐしゃでも、体中ケガだらけでも、陽音はかわらず美しかった。――少なくとも、雅には輝いて見えた。
「やっぱり、かわいいよ」
目元の涙をぬぐって、キスをする。しかし彼女は顔をそむけ、彼を突き放した。
「やだ!」
初めてキスを拒まれ、唖然としている雅なんてお構いなしに、陽音は彼の唇を自身の服の袖で拭った。
「・・・何するの?陽音」
「きたないよ」
「汚くないよ!」
「私ケガレてるんだよ?」
「ケガレてなんかない!!」
彼女を抱きしめる。陽音はまた「きたないよ」と言って逃げようとした。しかし彼はそのまま手を離さない。
「逃げないでよ・・・」
陽音の体がぴたりと止まった。雅の顔を見ると、長い前髪で隠れた目から、涙がこぼれていた。
「陽音は・・・俺が嫌いなの・・・?」
「えっ」
彼女は慌てて首を横に振った。
「違うよ、私は――」
「嫌いじゃないなら、逃げないで」
陽音は返事をしなかった。しかし、もう逃げようともしなかった。
雅はそっと彼女の髪を払う。
「・・・キス、していい?」
陽音は、しばらく躊躇って、雅の顔を見ると、ゆっくり頷いた。
真っ暗闇の中、二人で抱き合って眠った。
それから、陽音はちょこちょこ発作のように破壊衝動に駆られるようになり、毎日のように「私のことが好き?」と雅に尋ねるようになった。雅はそのたび、「大好きだよ。陽音」と返した。
雅は深夜の警備バイトを辞めた。昼は放課後も一回家に帰るようにしたので、ちょこちょこ様子を見れていたが、夜中はほとんど彼女を一人きりにしてしまい、その時に発作を起こすことが少なくなかった。
もともと彼女を一人にするのは抵抗があったし、すこし厳しくなるとは言え、彼女をこのまま放置するほうがずっと問題だと思った。
一緒に夕食を食べ、彼女をお風呂に入れて、着替えて、一人用の布団にぎゅうぎゅう押し合って入って眠る。彼女が寂しくならないように、優しく抱きしめて、髪をなでて、いろんなお話をしてから眠る。
「ねぇ、雅」
「うん?」
「私のこと好き?」
「うん。大好きだよ」
「ほんと?」
「大好きだよ。陽音。大好きだよ」
「よかった」
ほっと息をつき、笑った。
「どうしたの?機嫌がいいね」
「そうかな」
「うん」
彼女は嬉しそうに身をよじり、いっそう雅に顔を近づけて言った。
「私も大好きだよ、雅」
髪をなでる。はじめ好きになった彼女よりはずっと幼くなったような気がするけれど、十分可愛かった。
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