第18話 策略 〜蝶の乱舞〜


「御令嬢、伯爵令嬢、私を覚えておられますか?」


「ラウール様?」


 学院に登校してきたトリシアが馬車から降りると、待ち兼ねていたようにラウールが声をかける。彼は以前にアルフォンソ王子の護衛として側にいたのでトリシアも覚えていた。

 初めての学院、初めての学食。さらにはリュシエンヌ様から言いがかりをつけられ、テーブルクロスごと食事をひっくり返されるという、あわや大惨事を見事におさめてくれた護衛騎士。

 忘れようたって忘れられない衝撃の出会い。トリシアは懐かしい顔を脳裡に浮かべて苦笑する。


 だがラウールは違うようで、周囲を気にしながら声を潜めた。


「折り入ってお話がございます。御時間、よろしいでしょうか」


 一抹の不安がトリシアの胸を過る。ラウールという人物の総評は『冷徹な騎士』まだ正式に騎士号を得たわけではないが、学生でありながら未だに見習いのままなのは、騎士団が期待しているからなのだという噂はトリシアも聞いていた。

 そんな冷静沈着が売りのラウールが、微かな焦燥を滲ませて話しかけてきたのが、彼女の不安を煽る。


「よろしくてよ。早めに登校してきましたから少しなら時間はございますわ」


 予定を聞いてからあらためて時間をとろうと思っていたラウールだが、ここは渡りに船。見通しのよい庭園のガゼボへ彼女を案内した。


 そして彼は少し逡巡しつつも、窺うように話をする。


「その..... ファビア様のことなのですが」


「ファビア?」


 やや口ごもり、それでも意を決したかのように語られた内容に、トリシアは仰天した。


 なんと、ファビアが事もあろうに殿方との逢瀬を重ねているというのだ。それも一人や二人ではなく、かなりの複数人と。


「何かの間違いではなくて? あの子は一途で聡明な子よ?」


「私もそう考えました。.....アルフォンソ様の愛したお方です。.....なので、無礼と思いつつも..... 後をつけさせていただいたのです」


 なぜにそこまで?


 トリシアは別の意味でラウールをマジマジと見つめた。その眼差しの含むモノに気がついたのだろう。ラウールは取り繕うように慌てて言い訳を口にする。


「アルフォンソ様が亡くなられたとはいえ、私は彼の護衛でした。王子はきっとファビア様の事が心残りだったに違いないと..... 勝手な憶測で、ファビア様を個人的に護衛していたのです」


 あの学食での騒ぎまで己の存在を皆に気づかせなかったラウールだ。人知れずファビアを見守るなど朝飯前だったのだろう。

 やり過ぎ感は否めないが、それだけファビアを大切にしてくれていたことがトリシアは素直に嬉しかった。

 個人の感傷です、と少し眉根を寄せるラウール。


「ファビア様が危険かもしれません」


 危険?


 ぎょっとするトリシアに頷き、ラウールは己の見た光景を脳裡に浮かべた。




「まさかと思っておりましたが..... この眼で見たのですから.....」


「お心を強く御持ちください。きっと一時の気の迷いですわ」


 泣き崩れる男性に寄り添い、ファビアは優しく慰めていた。他人にあるまじき距離感で。

 二人の声を拾えるラウールは大丈夫だが、誰かが遠目に見れば、あらぬ誤解を受けかねない親密な距離だ。


 これが噂の真相か。お優しいファビア様のこと。きっと何かしらの相談にのったりしておられるのだろう。


 人目につかない裏道で、しかもあの密着具合では誤解を受けるのも仕方のないことだとラウールは思った。


 だが妙だ。あの聡明な御令嬢が、己の不名誉ともなる行為に気づいておられぬとは。


 半信半疑なままファビアらの動向を探り続けるラウールの視界で、泣き崩れていた男性が立ち上がり、拳で涙を拭う。


「ありがとう存じます、ファビア様。まさかと思っておりましたが、アゼルが男と宿に入るのを、この眼でしかと確認いたしました。.....もう、別れるしかないでしょう」


 アゼルと呼ばれた少女は男性の婚約者である。彼女の不埒な噂をファビアからもたらされ、彼は確認するためにファビアを伴いアゼルの後をつけだ。

 そして婚約者が見知らぬ男を連れ添って場末の宿屋に入る姿を目撃してしまった。

 話の内容を抜粋すると、そのような感じだ。よくある話だろうと、ラウールは呆れ気味な嘆息を漏らす。

 だがそれとは別な何かに、ラウールは眼を奪われた。男性から涌き出る青黒い靄。それが形を作り、次々と蝶になって羽ばたいているのだ。


 .....なんだ、あれは?


 眼をこらしてガン見するラウールの視界の中で、多くの蝶が飛び回り、燐粉を撒き散らしながら踊り狂っている。

 青い筋の走る蝶の羽は大きく、煌めく青黒い燐粉とあいまり、この世のモノとも思えぬ美しい光景だった。

 だがその美しさは、そこはかとない禍々しさをも同衾させ、えもいわれぬ悪寒をラウールは背中に走らせる。

 そんなラウールを知らず、婚約者の裏切りを目撃して力なく微笑んだ男性を見上げつつ、ファビアは悔しげな顔で唇を噛み締めた。


「貴方という素晴らしい婚約者がおられながら..... わたくしなら、貴方を泣かせたりしないのに」


 思わずという風な可愛らしい声音を耳にして、男性は涙が引っ込んだ。

 それを見てはっと顔を逸らし、恥じらうように俯くファビア。

 予想せぬ展開に男性は戸惑ったようだが、次には優しく眼を細めて、彼女の手の甲に口付ける。


「眼福をいただきました。.....無責任を口にしたくはございません。まずはアゼルとのことに片をつけてまいります」


 彼はファビアを家まで送ると申し出たが、時刻はまだ夕刻に差し掛かった辺り。周りは明るく、彼女は男性の送りを固持した。

 少し心配そうに立ち去る男性の背中を見送り、ファビアは先程とは違う蠱惑的な笑みを浮かべる。


「ふふ。これでまた嘆きが増えたわね」


 怪しく眼を光らせて髪をかきあげるファビア。そんな彼女の背後に、ぶわりと青黒い靄が形を作った。


《やるねぇ、君。久しぶりに満腹だ。アレで何人目だっけ?》


「八..... 九? 覚えてないわ」


《相手の婚約者もだから、その倍だな。自然に涌き出るのとは違う純粋な負の感情が貰い放題とは。想像以上だよ》


 意図的に傷つけられた者の嘆きは深い。通常の数十倍な嘆きが得られ、さらにその質も極上。

 哀しみから生まれる嫉妬、憎悪、厭悪。これらの負の感情は、青黒い何かの力になる。


「明日はアゼル様ね。愉しみだわ」


 くすくす笑うファビアと、カサカサ乾いた音をたてる不気味な何か。

 ラウールには青黒い何かの声は聞こえない。だがファビアの言葉の端々から善からぬ雰囲気を察知し、彼は翌日もファビアに張り付いた。




「.....それで昨日です。前日にファビア様と御一緒だった男性が、貴族学院の女生徒と揉めておりました」


 淡々と話すラウールの言葉に固唾を呑んで、トリシアは耳を傾けた。




「酷いですわっ、わたくしが二心あるというのですか?」


「.....でなくば遊びかい? あちらが? それともこちらが?」


 醒めた眼差しで冷淡に女生徒をあしらう男性。

 信じられない顔のまま、アゼルと呼ばれた少女は瞳を凍りつかせる。


「もはや修復の仕様もない。.....正式な断りは後日改めて書類を送るよ。じゃあ」


 冷たい一瞥をくれ、男性はアゼルを置き去りにして去ってしまった。

 力なくその場にへたりこみ、嗚咽をあげる少女。

 そんな彼女に近づき、ファビアは親切を装い声をかけた。


「どうなさいまして? 大丈夫? .....あら、貴女は。ハンセン男爵令嬢ではありませんか」


 軽く驚いた風なファビアに、アゼルも驚きを隠せない。


「ファビア様.....? あ、みっともない姿を」


 慌てて眼をこすり、アゼルは心許ない動きで立ち上がる。


「よろしいのよ? 泣きたいくらい哀しいことがあったのでしょう?」


 制服のポケットからハンカチを出し、ファビアはアゼルの涙を拭ってくれた。縁に刺された蝶の刺繍が柔らかな肌を少し刺激する。

 思わぬ労りの言葉が胸に突き刺さり、アゼルの眼から再び涙が零れ落ちた。


「ふぐ.....ぅ、ぅぅうううっ」


 噛み殺しきれない慟哭。


 それとともに周囲に涌き出た多くの青黒い蝶。その乱舞に紛れて、ニタリと嗤う青黒い何か。


 少女が友人を慰める微笑ましいワンシーンのはずなのに、それに似つかわしくないファビアの含み笑いをラウールは見逃さなかった。




「.....ファビア様は何かに取り憑かれているか、操られております」


 絞り出すようなラウールの言葉を耳に、トリシアはぐっとスカートの裾を握りしめる。

 その後もファビアをつけたラウールは、アゼルが宿屋に入った一幕が、実は庶子である弟との逢瀬だと知った。


 とつとつと家の内情を話す男爵令嬢。


「お母様に知れたら..... 弟がどうなるか。.....誰にも言わないでくださいませ」


 必死に懇願するアゼルに頷き、ファビアは婚約者が誤解していることを説明した。


「.....というわけなの。完全な誤解よね? 誤解されたのも仕方のないことだけれど。どうするの? 弟さんのことは相談できないわよね?」


 心配げに囁くファビア。それに唇を噛み締め、アゼルは諦めると小さく呟いた。


「運がなかったのです。.....彼が大好きでしたけど。.....諦めます。弟には代えられません」


 男爵の遊びで生まれた弟。それを知ったアゼルにより、弟は底辺の暮らしから抜け出せた。男爵夫人に知れようものなら大惨事だろう。アゼルの力が及ばなくなれば、彼女の弟は再び底辺を這いずるしかなくなってしまう。


「そう..... お優しいのね。苦しいでしょうに。わたくしでよろしければ話相手になりますわ。.....誰にも言えない秘密ですもの。いつでも相談してね?」


「ありがとう存じます、ファビア様」


 無理をおしていると一目で分かる笑顔の男爵令嬢。

 新たな不和の種を手に入れて、心の中でだけどす黒く嗤うファビア。

 最初は謀だった。詐欺にも近い遣り口で不和を引き起こし、あとは芋づる式に次々と嘆きの種が手に入る。


 男爵の浮気。隠し子や、悋気深い男爵夫人。


 どこから崩そうかしら。なるべく誰もが、底知れぬ嘆きを生み出す方法でやらなくては。

 とめどなく溢れ出るファビアの青黒い靄。それは、彼女に生まれた魔力である。

 件の青黒い何かが説明したように、彼女は闇の魔力を発現していた。

 優秀な魔術師であるラウールは、それを看破する。光の魔力を持つ者と複合魔力を有する者だけに見える闇の魔力。


 それとは知らずに気づいてしまったラウールは、これを王家に報告するかどうか迷っていた。


 見習いとはいえ、ラウールは騎士である。騎士とは神に仕える者。王家への忠誠と違うベクトルで、彼は聖女トリシアにも忠誠心を持っている。

 その彼女の妹であるファビアに関することだ。まずはトリシアの判断を仰ごうと、彼は人目を忍んでやってきたのだった。


 話を聞いて、トリシアは頭がグラグラする。


 神殿で習ったではないか。闇が台頭する時、聖女が生まれるのだと。


 その闇がファビアなの? どうして?


 重苦しい無言がガゼボを支配する。


 どちらも紡ぐ言葉を見つけられず、鳥の渡る空に始業の鐘だけが虚しく響き渡っていた。


 

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