第17話 策略 〜嘆きの庭〜


「お疲れですか?」


 色のない顔の王太子に、側仕えが声をかけた。


「.....少しな。怠い気もするな」


 ここしばらくの恋患いに、王太子自身も疲れを自覚していた。寝ても覚めても想い描くはトリシアのこと。無為なことと知りつつも頭を離れない。


 先ほどの朝食の席で、母親からも揶揄られた。




「情けない顔して。食事が不味くなるじゃないの」


 我が母親ながら容赦のない人だと、王太子は知らず小さな嘆息が出る。


「少し疲れているだけです。すぐに戻します」


「ふうん..... まあ、よろしいわ。ところで.....トリシア嬢のことなんだけど」


 思わぬ名前に手元が狂い、王太子は、がちゃんっと大きくカトラリーを滑らせた。

 それをジト目で見据え、王妃はあからさまに大仰な溜め息をつく。


「分かりやす..... んんっ、あ~、国王陛下が、彼女を王宮に招く算段をしておられるわ。.....勅命で強権を使われるおつもりのようよ?」


 かっと見開いた王太子の眼。そこに浮かぶ憤りと微かな歓喜。王妃はソレを見逃さない。


 .....葛藤してるのね。相手がカシウス様でなければ迷いもしなかったでしょうに。


 息子の恋心を目敏く察し、王妃は狡猾に言葉を紡ぐ。


「神殿でも勅命には逆らえないわ。その国に住む以上はね。婚姻の強制が出来なくても、住む場所の選定は出来るのよ。同じ屋根の下で友好を育むのも良いのではなくて?」


 そう。この国に居るのならば、その人間の滞在する場所くらいは王に指図可能だ。すでに聖女として御披露目されてしまったトリシアを国王の一存でどうこうは出来ない。なので神殿側も安心していることだろう。

 高貴な神職が王宮に招かれることは珍しくもない。


「.....自由恋愛はありだとも仰っていたわ」


 さらに毒を含ませた王妃の言葉に、王太子はどくんっと大きく胸を高鳴らせる。

 重く疼く下半身。男の劣情は正直だ。父王の策略を見透かしつつも、思わずソレに乗りそうになる。


「.....私に無体を働けと?」


「.....合意であれば、それに越したことはないわね」


 暗に唆す不埒な御誘い。あまりに魅力的な策略に王太子は目が眩みそうだ。


「努力は..... あっても良いですよね?」


 今のトリシアとカシウスの婚約は解消されている。形だけで、未だ本人らが仲睦まじい様子は報告されていた。


 それでも..... 一縷の望みを持っても良いのだろうか。


 居を王宮に移すのであれば、王太子にアドバンテージが出来る。長く共にあれば、情を覚えてくれるかもしれない。

 ほんの少しの欲望。もしかしたら、あるいは、ひょっとして。そんな言葉で虚飾し、彼は邪な己の本能の正当化を試みる。 


「.....古今東西、戦と恋愛は手段を選ばぬモノと相場は決まっているわ。そんな綺麗事で獲物を得ようなんて、ただの茶番よ」


 欲しいなら奪え。


 言外に含まれるあらゆる毒。伊達に王妃を張ってはいないということか。彼女とて、多くの修羅場や困難を乗り越えてきた烈女だ。その言は重い。

 この華奢な身体で、どれだけの敵を蹴落としてきたのだろう。王宮なんて気位の高い魑魅魍魎の巣窟である。


「相手の幸せか、自分の幸せかなんて陳腐なことを秤に乗せるのも馬鹿馬鹿しいわ。人の心は移ろうものよ? 意地でも幸せにしてやりなさい。そして自分も幸せになるの。そのぐらいの気概は持って? でなくば最初から負け戦よっ!」


「.....御自身の経験ですか?」


 切なげに苦笑する息子を一瞥し、王妃は吐き捨てるように呟いた。


「.....わたくしには、もう貴方しかいないの。息子の幸せのためなら何でもするわ。.....あの外道と一緒にしないで」


 知って.....?


 はっと顔を上げた王太子の視界の中で、王妃は乱暴に立ち上がるとそのままテーブルをあとにする。

 その後ろ姿が物語る母親の無念に王太子の心が締め付けられた。


 .....ありがとうございます。


 不器用な王妃の愛情。


 母親の忠告どおり、国王の勅命によってトリシアが王宮へとやってくる。

 それを今か今かと待ちわび、王太子は落ち着かない面持ちで正門と執務室を往復していた。

 まるで冬眠前の熊のようにウロウロする王太子。


 そして彼は昨日の王妃を思い出していた。


『あの外道と一緒にしないで』


 咄嗟にまろびたであろう一言。


 やはり、父王がアルフォンソを殺害したのか。母上は最初から知っておられたのだろうか。.....いや、あの方は弟をことのほか可愛がっておられた。万一、知っていたなら全力で阻止したはずだ。


 王太子の浮わついた気持ちが一気に沈む。


 .....なのに、私の想いを察して後押ししてくれるとは。


 物憂げにうつむき、王太子は正門に続く通路に無言で立ち尽くしていた。




《.....足りないな》


『そんな.....』


 いつもの夢、いつもの空間。


 青黒い何かに蝶を渡しながら、ファビアは落胆に顔を翳らせる。

 この何かに教わり、彼女は青黒い靄の操り方を覚えた。この靄は人の感情。憎しみ、嫉妬、殺意など、純粋な悪意が形となったモノ。


 ファビアがコレを操れる力を得たのは偶然である。青黒い何かは、そう言った。


《素養というか片鱗はあったと思うがね。この力は長く苦しんだ者だけに宿る。.....覚えは?》


『……あるわね』


 生まれてからずっと姉と比べられ、妬み嫉みで身体を一杯にして生きてきた。初恋の人を奪われ、ようやく得た最愛の人を見殺しにされ、それでも嫌えない愛しい姉。

 爆発するような憎しみを抱き続けているのに、どうしても嫌えない。憎むと嫌うが同意でないことを、ファビアは然して長くもない人生で学ぶ。

 憎愛などという言葉があるくらいだ。心の底から憎んでいるのと、心の底から愛しむのは表裏一体。同義である。


 なんて滑稽な.....


 矛盾するアレコレがファビアの脳内を駆け巡り、なんとも表現しがたい切ない微笑が青黒い何かを見つめた。


《.....色々あるんだろうね。俺はここを出られないし、俺が造れるのは負の犠牲者らを慰められるモノだけ。万能なわけじゃないんだよ》


 こうしてファビアと繋がれたのが奇跡だと彼は言う。彼女がうちひしがれ、心がバキバキに折れた瞬間、彼はファビアを見つけたのだ。

 リュシエンヌから聖女の話を聞いた時。あの絶望がファビアの力を覚醒させたらしい。


《自然に人から生まれる負の感情は微々たるモノ。それでもまあ、ここの維持は出来る。君の大切な婚約者を守るくらいにはね》


 何もない薄灰色の空間。ありとあらゆる嘆きが集まる終着点。青黒い何かは、ここを守る番人的な者だという。


 嘆きの犠牲者が朽ちるまで、ただ見守るだけの存在。


 そうしてここに来たアルフォンソの嘆きを静観していた彼は、その嘆きと同調する嘆きを現に見つけた。それは強靭な力を宿し、最奥のここまでその存在を知らせてきたのだ。


《ホント。奇跡だと思ったね》


 嘆きの門番たる彼は、嘆きを与えて貰えれば力を持てる。負の感情をエネルギーに変換し、あらゆる物を構築出来る。

 青黒い何かの話に相槌を打ち、ファビアはチラリとアルフォンソに視線を振った。はにかむような笑顔で笑うアルフォンソ。


《たま~にいるんだよ。嘆きに満ちた人生を送り、現世の嘆きを集められる人が。過去にも何人かいてね。そういう人が現れた時だけ、俺はここに世界を構築出来るんだ。嬉しいねぇ》


 くふくふと幸せそうに笑う何か。それに薄く笑い、ファビアは長い睫を伏せる。


『ここを現世に顕現させたいの。どうしたら良いのかしら』


 ファビアが必死に集めても集めても、それでは足りないらしい。


《.....あまり、お勧めはしないんだけど。嘆きを増やすしかないね》


『増やす?』


 疑問符で問い返すファビアに、青黒い何かは、最初に見せた不気味な笑みを浮かべた。




「...............」


 あっという間に一年が終わる。人の記憶も風化し、アルフォンソの死の記憶も上書きされていた。


「聖女様が王宮に移られたとか。やはり王太子様と御結婚なさるのでしょうか?」


「喜ばしいことですわ。次代の王家の御代も磐石ですわね」


 うふふ、おほほと喧しい噂雀ども。


「そうですわね。御姉様には幸せになって頂きたいですわ」


 幸せは嘆きの中にこそある。


 友人らと笑うファビアの瞳はガラスのように透き通り、無機質な瞳孔の奥に揺れるのは仄かな狂気。

 沸々と沸き上がる青黒い靄が彼女の周囲で踊っていた。常人の目に映らないそれは、細い紐のようになって一緒に笑う友人らに絡み付く。


 誰も気づかない。


 アルフォンソ様のために..........


 心底、愉しそうに嗤うファビアの笑みは凄みを増し、方々で多くの人々を魅了した。


 .....滅びが幕を上げる。

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