第16話 策略 〜悪夢〜


「.....トリシア嬢」


 気づいてしまえば一瞬だった。恋とは天から射しそむり陥るモノ。自覚した途端、燃え盛る熱病。


「トリシア.....」


 脳内に飛び散る火花。胸を渦巻く心地好い調べ。明けても暮れても瞼に浮かぶのは、煌めく銀髪の少女。

 王宮の執務室で、王太子は酷く落ち着かない自分に狼狽えていた。


 なんてことだ。今になって.....


 ペンを持つ指にぐっと力がこもる。思わず入った力に驚いたペン先が壊れ、びしゃっとインクが書類に広がった。

 じわじわと滲む染みを惚けた眼差しで見つめ、彼は細い溜め息をつく。


 博識で謙虚。それでいて言うことは切り口良く、ここぞという処を見誤らない。清楚で淑やかなのに、その存在感は大きく、誰もが眼を吸い寄せられる美貌。

 国王を前にしても怯まず、見事な口上で黙らせる胆力。神々しいまでの艶姿。


 あんな女性がいたなんて.....っ!


 気づけなかった己が歯痒く、王太子は今になって臍を噛む。

 ここ数年まで社交界に姿を現さなかった朧姫の噂は彼も知っていた。伯爵家の秘蔵っ子という話や深窓の令嬢だとか、信憑性皆無な話を幾度も耳にしたものだが、大して興味はもたなかった。

 そういった噂話はよくあることだし、名のある貴族なら子供らを社交に出して広めるのが普通なのだから。人前に出さないのは、逆に出さないのではなく出せないのじゃないかとの話にもなる。

 つまり某か問題があるのだと。そういった穿った見方も出来るのだ。だから、真実以外に興味のない王太子は噂を右から左に素通りさせる。


 しかしその御令嬢がカシウスの婚約者になったと聞き、俄然、興味が湧いた。カシウスは哀しい恋を終わらせたばかりだ。下手な女性相手に再び傷ついて欲しくはない。

 そう考え、王太子は独自にトリシアを調べさせる。その結果はすぐに報告された。


 とても聡明な少女で、貴族達の評価も高い。ぽっといきなり出てきたにもかけかわらず、幼い御令嬢なのに夫人の名代を務めるほど優秀だとのことで、王太子は瞠目する。


 そんな優れた娘を本当に隠していたのか。いったいなぜ?


 子供が優秀なら自慢したくなるのが親という生き物である。なのに伯爵家は、完全に御令嬢を秘匿していた。

 訳が分からず困惑する彼だが、考えても答えは出まい。

 なぜなら伯爵家はトリシアを社交に出したかったのだから。それをファビアがことごとく邪魔してきていただけなのだ。しかも引きこもりたいトリシアが、それを迎合していたという始末。

 良い御令嬢にカシウスも幸せそうなのだとの報告を受け、安堵に胸を下ろした王太子。


 これで二人の話は終わったはずだった。


 だがそこから、弟であるアルフォンソが伯爵家の妹娘を見初め、婚約。こちらも目映い金髪の可愛らしい少女で、大切な弟と友人が同じ家の娘らと婚約したことに戸惑いつつも、王太子は幸せのお裾分けをもらった気分だった。

 アルフォンソの元を時折訪れるファビア。二人が御茶をする姿を遠目に、あの娘の姉ならば、さぞや見目麗しい御令嬢なのだろうなと、王太子は伯爵家の娘らが学院に入学するのを楽しみにしていたのだ。


 そこで起きた大事件。


 数百年ぶりの聖女降臨。


 これが国の禍なのだと知る王家は、慌てて駆け回った。


 神殿でトリシアの習った話は、歴史に基づいた事実なのである。

 国を揺るがす禍の兆しが見えると精霊王が顕現し、聖女を選ぶのだ。人々を守るため、誰よりも禍に近い者が聖女となる運命。

 ここまでは知らない王家。彼らが知るのは禍が起きるとき、聖女が生まれることのみ。

 だから王家はトリシアを手元に置いておきたくて仕方がない。どこで何が起きるか分からない状況なのだから。


 そんな騒動の中、王太子は気づいてしまった。


 自分が理想としていた王妃に相応しい女性に。想い描いていた理想像が目の前に降りたってしまったのだ。


「トリシア.....」


 固く眉を寄せて懊悩する王太子。恋心は誰にもどうしようもない。一度囚われたら逃れようはない。つらつらと理由を並べはしたが、ぶっちゃけ理屈ではないのだ。それが恋というものだった。

 自ら招くものでも、あえて陥るモノでもない。突然降りかかる熱病。一目で火花を散らし、やがて真っ赤に燃え上がる。

 目の奥や胸に広がる業火。これを誰に消し去れようか。

 相手は既に婚約者持ち。さらに、その婚約者は友人のカシウス。なんと滑稽なことだろう。これは完全な横恋慕だ。あさましい執着だ。


 だが止まらない。止められない。募る想いは、あっという間に王太子の全身を逆流していく。


 なぜ、彼女と出逢ったのがカシウスなのだ。私が先に出逢えていたら..... せめて同時に出逢えたなら、身分からいっても彼女は私のモノだったはずなのに。

 私が先に好意を伝えていられれば、カシウスとて引き下がってくれたはずだ。

 たら、れば、が虚しい妄想なのだと知りつつも、王太子は脳内で暴れる後悔を止められなかった。


  そんな彼の背後に靄がたつ。ぼうっと滲み出るように立ち上った青黒い靄は蝶を形どり、どこかへとヒラヒラ揺られていった。




「貴方はだあれ?」


 王太子から生まれた黒い蝶を指先にとまらせ、金髪の少女が薄く微笑む。彼女の周囲には多くの蝶。それぞれが意思を持つかのように揺れ動き羽ばたいていた。

 時には激しく。時には怯えたかのように弱々しく。何かを含むようひらひらとたゆとう不可思議な蝶々。


「.....そう。辛いのね」


 ファビアは飛び回る蝶らを慰めるように歌う。この国で使う言葉とは違う言葉で。祈るように静かな口調は声を形どり、彼女の周囲にまとわりついた。

 靄が帯のごとく広がり、弾け、まるでクラッカーを鳴らした時のように無数のリボンがファビアの周りに踊っている。

 それに群がりとまる数多の蝶達。大小様々な蝶々が靄のリボンを蝶で糾う縄に変貌させていた。ゆらゆらと不気味に蠢く複数の帯。それを愉しそうに見つめ、ファビアは蠱惑的に唇を歪める。


「素敵ね。みんな綺麗だわ」


 憎悪、殺意、嫉妬、他諸々。純粋な負の感情の靄を蝶に変化させて集めるファビア。


 彼女がこの力に気づいたのは偶然だった。


 リュシエンヌと話した、あの日。


 絶望に苛まれ泣き伏したファビアは、その夜、妙な夢を見たのだ。




『.....出して』


『え?』


 うっすらと青黒い靄の漂う不思議な空間。そこに何かがある。


 怪訝そうに覗き込んだファビアは、その何かが一メートルほどの大きな玉であることに気付き、さらにそれが透明で、中に見え隠れするモノを確認した途端、可愛らしい顔を凍りつかせた。


『アルフォンソ様っ?!』


 思わず駆け寄り、その大きな玉にすがりつくファビア。最愛の婚約者が大きな玉の中に閉じ込められていた。


『苦し..... 助け.....て、ファビア』


『アルフォンソ様っ? あああ、なぜっ? どうしたら??』


 中にいるアルフォンソは苦し気に膝を着き、ヒューヒューと息を荒らげている。今にも倒れそうな顔色の悪さ。愛おしい婚約者の悲惨な姿に、ファビアは喉が張り裂けんばかりの絶叫をあげた。


『誰か.....っ! 誰か助けてぇぇぇーーーっっ!!』


 虚しく谺する悲痛な叫び。それに呼応するように、周囲を漂っていた靄が形を取り出した。


《よかろう》


 降りかかる声に驚き、顔を上げたファビアは、そこに不気味なモノを見る。

 ぼろきれを全身にまとったかのような黒い物体。ガサガサな長い髪と枝のように細い手足。見た印象そのままに、その物体が動くと乾いた音がたち、カリカリな何かが、はらはらと床に零れた。

 茫然と落ちた何かを凝視しているファビアに、その物体はぐぐもった声で話しかける。


《助けてやるよ? どうしたい?》


 地の底を這うように低い声音。地味にささくれ立つ耳障りな声は、まるで風邪をひいたネズミのように妙な甲高さも持っていた。


 .....何者だろう。


 ファビアの警戒心が警鐘を鳴らす。こんな人ならざる者の寄越す甘言にのっても良いのだろうか。

 知らず緊張に強張る彼女の喉は、カラカラに渇き、上手く言葉を紡げない。

 そんな中、玉に閉じ籠られたアルフォンソが大きく傾いだ。どさりと倒れた婚約者を見て、ファビアは再び玉にすがりつく。


『アルフォンソ様っ?! アルフォンソ様ぁぁっっ!』


 限界まで眼を見開く彼女の視界の中で、アルフォンソはピクリとも動かない。


『ああぁぁっっ! アルフォンソ様.....っ? あ.....っ』


 必死に玉を叩いていたファビアは、ふっと顔を上げ、得体の知れない何かを見上げる。

 影のように真っ黒な何か。青い輪郭で、辛うじて人間の形をしているのだと判別出来るソレは、無言でファビアを見下ろしていた。

 凪いだ水面のごとく静かな面持ちのソレに、ファビアの視界が涙で歪む。


 ……他に手はない。


『.....助けて?』


《よかろう?》


 ファビアの溢れる涙で歪む視界に映る何か。それは、にぃ~っと口角を上げ、快く頷いた。


 この日から、ファビアと妙な何かの交流が始まる。




『アルフォンソ様。御気分はいかがですか?』


『大丈夫だよ。ここは心地好い。.....君がいないのが寂しいけどね』


 アルフォンソは玉から出され、青黒い靄のただよう空間にいた。この場を出すことは出来ないらしく、ファビアが人々から黒い靄の蝶を集めることを条件に、色々な優遇を受けられる。


 何もない空間にぽつんと立つアルフォンソ。


 ファビアは集めてきた蝶を呼び出して、青黒い何かに渡した。


『雨露を凌げる家を用意して?』


『椅子と机が欲しいわ』


『絨毯とベッドは出来る?』


 あれやこれやと望むファビア。それに頷き、青黒い何かは彼女の望むモノをアルフォンソに出してくれた。

 おかげでアルフォンソは、居心地よく設えた小さな家で暮らしている。

 何もない空間にこじんまりとした小さな家。その小さな家には、可愛らしい婚約者らの笑顔と幸せが溢れていた。

 二人の愛の巣に、なぜか居座る青黒い何か。二人を微笑ましそうに見つめつつ、小さな揺り椅子に無言で座っている。


『これは夢なのかしら..... あの蝶は何? どうしているの?』


 御茶を片手に不思議そうな眼で周りを見渡すファビア。寝ている時だけ訪れられる不可思議な空間。青黒い何かは、彼女の力を示唆し、それで自分に協力して欲しいと頼んできたのだ。




《おまえには靄を集める力がある。極稀に得る力だ。真の絶望を知る者だけが得られる力。それで集めた靄を、俺に譲渡して欲しい》


 集めた靄の蝶はファビアのモノ。それを彼女が譲渡して、初めて、この青黒い何かは力を得られるのだとか。


《長く封印されていた俺に大した力はない。おまえの助けがないと、この世界を構築出来ないんだ。この男も絶望の犠牲者。ここは負の感情の吹き溜まり。だから、ここで尽きようとしていたんだろうな》


 力なく俯くアルフォンソ。


 つまり非業の死など理不尽な終わりを迎えた魂がここを訪れ、無惨に朽ち果てる場所なのだ。


《ここは夢であり現。力がある限り維持出来るし、さらに力を注げば現実に顕現も可能。.....まあ、途方もない力が必要だがね》


 それを聞いてファビアは顔を輝かせる。


『顕現も可能って.....っ! アルフォンソ様を生き返らせられるってこと?』


《.....それとは違うな。彼はもう死んでいるし。死者が顕現するってことだ。うん》


 それでも良い。こんな夢の中でなく、現実にアルフォンソ様が甦るなら。再び共にあれるなら。


『どうすれば良いのっ?』


 零れんばかりに煌めくファビアの瞳。喜色満面な彼女は、ほくそ笑んだアルフォンソと青黒い何かに気づかなかった。


 こうして始まった新たな恋物語。過去に繰り返された滅びの序章が高らかに鳴り響く。


 何も知らない人々を巻き込み、悪意の汚濁が口を開いた。

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