第15話 策略 ~聖女の覚醒~


「.....ああ、出来たっ」


 トリシアの薄い唇から零れたのは万感の呟き。


「さすがです、聖女様。こんなに早く解毒の術を習得なさるとは..... 研鑽を続ければ浄化の術にもなる魔法でございます」


 鷹揚に頷くのは、神官長のオーフェン。彼は神殿でトリシアの教育係をしている。とはいえ、彼自身も四大聖霊の祝福で授かる光魔法が使える訳ではない。

 神殿にいる神官や巫女の殆どは水の聖霊から祝福された治癒魔術を使うものばかり。

 だから代々の聖女降臨で記されてきた書物をたよりに、新たな聖女と手探りで光魔法の修練をする。

 解毒、浄化、結界、再生、蘇生。これらは光属性を持つ聖女のみが使える魔法だった。

 その初歩である解毒を、ようやく習得したトリシア。

 彼女は毒で濁り淀んでいたグラスを握りしめ、切なげに眉を寄せる。

 その手の中のグラスには、仄かに煌めく澄んだ水が満たされていた。


 これをあと数ヶ月早く会得出来ていたら.....っ!


 あの日、弟王子を救えたかもしれない。


 聖女としての意識が稀薄なトリシアは、賜った祝福のせいで己の人生が歪み、むしろ禍のようにも感じていた。そのせいで聖女としての修練に消極的だったのである。

 常に学びに貪欲な彼女が、これに関してだけは煩わしさすら感じていた。


 .....それがさらなる禍を喚んだのだ。


 身につけておいて無駄なモノなどないと、幼い頃から思っていたのに。なぜ、こんな時だけ?


 自分が唯一厭うた聖女の力。そのために失われた命。


 蝋のように真っ白なアルフォンソの顔が、まるで松脂のように脳裡へこびりついてトリシアの頭から離れない。


 取り返しのつかない痛恨の記憶。もし何時ものように新たな学びに邁進していれば..... あるいは、もっと早く習得出来ていれば.....


 たら、れば、が虚しい後悔の残滓なのは分かっている。それでも考えずにはおられないトリシアだった。


 そう。トリシアはアルフォンソを見殺しにしたのではない。あの時、まだ聖女としての力を発現出来ていなかったに過ぎなかった。

 過去に記された聖女についての多くの文献。それらは聖女の力について詳しく書き残したモノであり、その過程の修練の記録ではない。

 そういった聖女達らの個人的な日記に近いモノは、全て神殿の管理下にある。

 新たな聖女の育成に必要な教本みたいなモノで、部外者が必要とするモノではないからだ。

 だから、侯爵令嬢もファビアも分からなかったのだ。聖女が最初から全ての力を持つ訳ではない事を。

 そしてトリシアにも分からなかったのだ。


 ファビアがトリシアに、アルフォンソを見殺しにされたと誤解している事を。


 御互いに聖女という者の見識が浅く、その見解が見事にすれ違っている事に、二人は最後まで気づかない。




「.....社交界デビュー?」


 ファビアは母親から話を振られ、突然のように思い出した。


「そうよ。半年後の社交界デビュー。.....御父様がティアラを作ってくださるそうなの。どんな物にしましょうか」


 やや痛ましげに娘を見つめる伯爵夫人。


 本来、社交界デビューのティアラは、タイの返礼として婚約者から贈られるモノである。

 ファビアもアルフォンソと何度か話をしていた。


『わたくしのタイに見事な刺繍を、ありがとうぞんじます。貴女のティアラも、それに負けない物を用意しましょうね』


 温かな笑み。柔らかな声。


 二度と訪れない優しい時間。


 母親の言葉におされ、ファビアはほたほたと涙を溢す。

 堰を切ったかのように泣き出した娘を抱き締め、伯爵夫人はその頭を撫でた。


「無理はしなくて良いのよ? 来年にしても。十五の成人までにデビューすれば良いのだからね?」


 心配げな母親親に頷き、ファビアは自室へ戻っていく。

 それを見送り、応接室へ向かった伯爵夫人は、待っていた夫に小さく首を振った。

 軽く腰を浮かせかけた伯爵は、深く座り直して複雑な顔をする。


「そうだろうな。ファビアの目の前でアルフォンソ様は亡くなったのだ。その心の傷は深かろう」


「.....神様も惨いことをなさいます」


 そして伯爵夫妻は、チラリと同じ方向を見た。

 そこには、やや眉をひそめた王太子。


「.....本当に申し訳ない。御令嬢にかける言葉も持ち合わせておりません。でも」


 彼はテーブルに置かれた豪奢な箱から蓋を取る。中には、サファイアを基調にした見事なティアラが納められていた。


「アルフォンソが用意していた物です。これを、そのように説明して渡すべきか悩んでおります」


 アルフォンソはもうこの世にいない。これを贈ることでファビアが思い出に囚われ、前を向けなくなるのではないか。また哀しみに暮れ、未来へ足を踏み出せなくなるのではないか。

 そういったアレコレを考えてしまい、王太子は伯爵家へ相談にきたのだ。


 王太子の不安も理解出来る。


 ようやく学院にも通えるようになったファビアだが、その心は分からない。

 最初はギクシャクした婚約関係だった第四王子と娘。それがいつの間にか仲睦まじくなり、甘やかな笑みで会話する二人に安堵していたのも束の間、件の事件だ。

 心配する伯爵夫妻の眼にだって、ファビアの受けた凄まじい衝撃は見てとれた。


 日がな一日食事もとれず、放心したまま声もなく泣き続ける娘。


 それを見守るしかない自分達の胸まで、ひきつれるように痛んだ。

 何とも仕様のない日々を長く過ごし、ようよう立ち上がってくれたファビアに、これ以上の無理はさせたくはない。


「まだ半年ございます。様子を窺い、折を見て良さそうなら、このティアラの話をしましょう」


 穏やかに微笑む伯爵夫妻に同意し、王太子は深々と頭を下げた。


「かたじけない。力ない我が身を許してくれ。代わりに必ずアルフォンソの仇は討つ」


「そんな、もったいないっ!」


「頭をお上げくださいませっ、王太子殿下っ!」


 あわあわと狼狽える伯爵夫妻を他所に、王太子は己の父親を脳裡に過らせた。


 あの人でなしに後悔をさせてやる。必ずや一矢むくいてみせようぞ。


 パチパチと燃え上がる怨嗟の焔。それがしだいに燃え広がり、舐めるように社交界をねぶり尽くしていく未来を、今の王太子は知らない。




「闇ですか?」


 神殿で聖女の歴史を学びながら、きょとんと首を傾げるトリシア。


「左様です。聖女が顕現した時代には、必ず何かしらの悪意が世の中を席巻いたします。それを神殿では総じて《闇》と呼ぶのです」


 神官長は微かに眉を寄せ、今まで起きてきた《闇》の説明をする。


 それは明らかに異常な自然災害であったり、国を滅ぼすような戦であったり、形は其々だ。

 だが、間違いなく多くの人命を失う事態に陥るのだという。

 なので逆説的に、聖女の降臨が禍を喚ぶと解釈する国もあるとかで、聖女を崇めるばかりではないから注意するよう神官長は言った。


「聖女様の御力は素晴らしいものです。それを否定は出来ません。だから、禍が起きる時、聖霊王の情けにより聖女様が遣わされる。神殿ではそのように解釈しております」


 これも神殿のみに伝わる口伝らしい。他には口外はされず、代々神官長以上の上位者の間だけで秘匿されてきたのだとか。


 なるほど。


《闇》の発生を察知した聖霊王による贈り物。たしかに、それが納得しやすい。

 だとしたら、今回は一体どのような禍が振りかかるのだろう?


 神官長の話を聞きながら、トリシアはぞわぞわと粟立つ身体を、そっとさすった。




「御姉様、少しよろしいかしら?」


「ファビアっ、勿論よ」


 登校してきたトリシアを見つけ、ファビアは大きな箱を取り出す。

 彼女が両腕でかかえている箱の中は沢山のハンカチが入っていて、それら全てにワンポイントの刺繍が施されていた。


「神殿では寄進のお礼に小物をお渡しする習慣があると聞きました。なので、お友達とハンカチに刺繍をしてみましたの。よろしければ返礼の足しにしてくださいませ」


 ファビアの言うとおりである。


 神殿の巫女らは、暇があれば返礼用の小物に刺繍を刺していた。剣飾りであったり、栞であったり、子供用のワッペンであったり。

 巫女の祈りの込められた小物目当てで寄進をする人々も少なくはない。


「まあっ、ありがとうぞんじます。お友達の皆様にもお礼を言っておいてね」


 ほにゃりと笑うトリシアに肩を竦め、ファビアはチラっと視線だけを動かした。


「聞こえてると思いますわ」


 ファビアの視線につられ、トリシアは教室の入り口あたりから中を窺う女生徒らと眼が合う。

 途端に小さな悲鳴を上げて引っ込む可愛らしい頭。

 それに優美な笑みを返し、トリシアはクスクスと鈴のような笑い声をもらした。


「良いお友達が沢山のおられるのね、ファビア」


「.....まあ、そうかもしれませんわね」


 単純に喜ぶトリシアは、一瞬浮いた、蛇蝎を見るがごときファビアの顔に気づかない。


 何が良いお友達なものですか。今まで、わたくしや御姉様が殿方から好意的にされていた事を、散々罵ってこられた方々ですわ。


 ファビアが王子の婚約者となり、トリシアが聖女になった途端、すり寄ってきた典型的な俗物貴族達である。

 男女問わず掌を返してきた貴族達に虫酸が走るファビア。

 むしろ初志貫徹なリュシエンヌ公爵令嬢の方が、貴族としての矜持が感じられファビアには好ましく思えた。

 今回のハンカチだって、ある御令嬢が提案した点数稼ぎだ。他の御令嬢も尻馬に乗り、御姉様の手助けになるのならと、ファビアもそれを利用する。


 .....所詮、貴族なのよね。わたくしも。


 そんな汚濁にありながら、未だに純粋な輝きを失わないトリシアがファビアには眩しい。

 幼い頃は、何でも理解し知っていた姉が羨ましかった。何でも出来て真っ直ぐ顔を上げる美しい姉が誇らしかった。

 貴族として学び、研鑽を積み、ファビアを厳しく導いてきてくれたトリシア。


 そんな姉が、実はけっこう世間知らずであるとファビアが気づいたのは最近である。


 淑女として完璧なトリシアは、人の悪意に疎い。引きこもりで世の中を知識でしか知らない姉は、寄せられる害意や情欲に気づかない。

 そりゃあもう見事なまでのスルーである。ファビアが感心するほどの無頓着。


 カシウス様は気が気でないでしょうね。


 多くの男性から送られる好意の数々を、鉄壁な無知の鎧で跳ね返すトリシアの傍若無人ぶりにファビアは苦笑した。

 そしてふと、ファビアは彼女が神の花嫁となった経緯を思い出して眉をひそめる。


 わたくしのため.....


 アルフォンソの死により、その理由はなくなった。しかし、ファビアに新たな輿入れ先が見つかるまでトリシアは神殿に住むのだろう。

 神の花嫁という肩書きがないと、ファビアについていけないからだ。この姉は本気で妹の住む場所へ移動する気である。

 だから王家も下手を打てない。凶事の厄介払いにファビアを遠方へと放逐すれば、その後をついて聖女が王都から出ていってしまう。


 今頃、大慌てでしょうねぇ。王宮は。


 意趣返しめいた黒い感情に身を任せ、思わず顔を綻ばせるファビア。


 御互いに全く違う理由でクスクスと笑う姉妹を、周囲のクラスメイト達が微笑ましく見守っていた。


 何事もなく続く日々。


 これが一時の憩いなのだと知る者は、誰もいない。

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