夢の代替品
兄とボクはとてもよく似ていた。あんまりにも似ているもんだから、学生時代に同じクラスにされたことがないほどだ。ただし、似ていたのは外見だけの話。黙っていればわからないが、喋るとボロが出る。
あれは確か、まだ小学校の二年生だった頃。兄が「シゲさ、オレとオマエとで席をチェンジしようず」と提案してきた。ボクはその話に乗って、兄がボクのクラスで国語の授業を受け、ボクが兄のクラスで算数の授業を受ける。先生に立たされ「九九の八の段を、何も見ずに答えなさい」と言われたボクは、九九なんてこれっぽっちも覚える気がなくて覚えていないもんだから、自席でもじもじしてしまった。無論、クラス中から怪しまれる。一方の兄は、教科書を一度もつっかえることなくスラスラと音読し、出来すぎてしまったせいで「シゲくん、どうしたの?」などと隣の席の美世ちゃんから心配されたらしい。
羨ましかった。
あの可愛い美世ちゃんのほうから話しかけられるのは、滅多にないことだったから。とはいえ、実際問題として「この出来事を契機にして、女の子に褒められるために心を入れ替えて勉強に打ち込みました」というオチはつかない。人には向き不向きがある。
母は、学期末に持ち帰る通知表を見比べて「お兄ちゃんのお利口脳みそをシゲちゃんに分けてもらえんかの」と、その一言に弟がそれなりに傷付いているとまで考えが至っていなさそうな調子で言っていたものだ。
優秀な兄と、そうでない弟。――でも、弟たるボクはそれでいいと思った。劣等感は、時間をかけてゆっくりと諦念へと変化していく。ボクが得意なことと、苦手なことが、白黒ついた。それだけでも儲け物だと思う。いつの授業だったかで、ボクは『適材適所』という言葉を学んだ。ボクはその言葉を免罪符として解釈した。
高校受験で、兄は都内有数の進学校に合格する。ボクは中学を卒業してからは実家で修行することにした。兄と同じ高校へは逆立ちしても行けない。別の高校へ行ったところで、お利口脳みそがないボクは授業についていけないだろう。中学までは、兄に教えてもらって、赤点をギリギリで回避できていたようなボクである。
それに、青春に時間を割くよりも、一足お先に修行に打ち込んだほうが、ボクの人生を俯瞰したときに有意義な時間の使い道となるようにも思えた。
ボクらの実家はウナギ屋だ。ボクは、将来的にはウナギ職人になるものとして生きてきた。そう考えると、とてもじゃないが勉強する気が起こらなかったのだ。ウナギを焼くのに九九はいらない。
兄は我が国に住んでいる人間のほとんどが知っているような大学へ進学し、経営学で修士号まで取った。中卒のボクと比較すると、学業の面では雲泥の差が生まれてしまったが、兄はウナギが掴めない。ウナギ屋の
つまりは『適材適所』なのだ。兄は学んだことをいかすべく、父に意見するようになった。父はボクと同じで生まれながらの職人タイプだ。祖父からみっちり、基礎を仕込まれたらしい。ボクもそうしていただけるとありがたかったが、父は、自らが自由にできなかったぶん、
だから、凄腕の職人で目利きは玄人だけども経営に関してはからきしの素人だ。これまでやってきたように続けていけば未来も安泰だと思っている。
それではいけないと、兄は父と母を言いくるめようと企んだ。ボクも同席してほしいと頼まれたので、兄のプレゼンテーションは兄対父と母とボクの構図となる。
プレゼンテーションの会場となったのは団体客用の大広間。ボクは午後の営業の仕込みに手間取って、十五分ほど遅刻して会場入りする。
「うちの職人は、おじいちゃんばかりじゃないか」
身振り手振りを交えて熱弁する兄の横には正座している女の子がいた。一点を見据えて、微笑んでいる。ボクと目が合っても、表情は変わらない。不思議なことに、ここで働く職人のユニフォームであるところの作務衣を着用していた。
「このままじゃ、十年後にはみぃんな身体が動かなくなって廃業やん」
大学の在学中に知り合って、現在も付き合っている彼女さんがオーサカのほうの人で、兄はときどき関西弁が混ざる。トウキョー生まれトウキョー育ちなのに、影響を受けすぎてはいないか。
彼女さんのご実家もウナギ屋を営んでいて気が合ったのだと、馴れ初めを語られた。関東のウナギと関西のウナギでは捌き方(関東は『切腹を想起させるから』と背開きにする)も焼きまでの工程(関西では一度蒸さずに焼く)も違うのだが、兄も彼女さんも口を揃えて「細かいことはいいんよ」と言っている。ボクも何度かお会いしていて、そのたびに兄とボクがあまりにも似ていることが大ウケしていた。正直苦手だ。
「調理担当がシゲ一人になっちまうのはまずいやろが」
ボクが最年少で、その上となると父と同年代。寡黙で真面目、たまに酒を飲めば「腰が」「膝が」と愚痴をこぼすようなご老人ばかり。加齢には勝てない。
ウナギ職人には『串打ち3年、裂き8年、焼き一生』という格言がある。弾力のあるウナギの身を、思いのままに調理できるようになるまで、修行しなくてはならない。中学校の進路指導にて担任と母の前で「家を継ぎたい」と話した際に、反対されずに喜ばれたのは、ただ単にボクの成績が悪かったからというだけではないのだ。
「まあなあ……」
父は口ごもり、白髪の混じりの頭を掻く。母とボクの視線は、女の子に釘付けだ。よくよく見るとあの頃の美世ちゃんに似ていた。たまに夢に出てくる。ボクと同級生だから、成長して大人の女性になっているだろうに、夢の中の美世ちゃんは小学校二年生のままだ。というのも、美世ちゃんは三年生に上がるタイミングで引っ越してしまって、ボクがそれ以降の姿を知らないからだと思う。
思えばあれは初恋だったのだろう。
想いを伝える前に、距離が物理的に離れてしまった。
「そんで、シゲよ」
兄はボクに向き直って「この
「弟子?」
「せや」
女の子は「よろしくお願いします」と頭を下げた。透き通った声だ。女性の職人はゼロではないが、うちにはいない。
「まだ子どもじゃあないか」
ボクの言葉に、兄はちっちっと右手の人差し指を左右に振った。
「この娘はオルタネーター言うて、人間やないで。この姿で、普通の成人女性と同じ」
ピンとこない。母だけが「ああ! この間、テレビで見たわ!」と興奮気味だ。
「知り合いに作ってるとこで働いているのがおってな。うちの話をしたら『ウナギ職人に育ててやってほしい』って、紹介してくれたんよ」
「いいじゃないの。話題性もあるわね」
「せやろー」
すっかり乗り気になっている母と、得意げな兄。ともに働くことになる父とボクは、眉間に皺を寄せた。男ばかりの調理場に、孫でもおかしくない年齢に見える女の子が入る。しかも、オルタネーターなどという、……人造人間?
女の子は顔を上げずに、もう一度「よろしくお願いします」と言った。
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