第15話 偶然の綻び

 会議室のドアを開けると、すでに数人の部下が資料を広げて待っていた。僕は深呼吸をして、いつもの威厳ある態度を装う。


「おはようございます、本部長」


「ああ、おはよう」


 僕は席に着き、部下から手渡された資料に目を通し始めた。しかし、文字が意味として入ってこない。ただの黒い線のように見えてしまい、目が滑っていく。


 原因はわかってる。昨夜の華凛とのデートが頭から離れないからだ。


「準備はいいかな。では、定例会を始めよう。まずは、各プロジェクトの進捗状況の確認からだね」


 会議室に並ぶ部下の顔を見渡し、欠席者がいないことを確認したあと、開始を宣言する。僕自身の声が、やや掠れているのに気づいた。喉を軽く鳴らし、続ける。


「井上くん、予算見積もりは?」


「はい、先ほどお渡しした資料の3ページ目に……」


 部下の井上が説明を始めるが、僕の意識は目の前の資料から、瞼の裏に浮かぶ華凛の笑顔に移っていく。映画を語るときのキラキラした笑顔。ホテルに入る前のはにかんだ笑顔。服を脱ぎながら浮かべる恥ずかしそうな笑顔。さまざまな華凛の笑顔が浮かんでは消えていく。


「本部長?本部長!?」


「え?ああ、すまない。それで?」


 井上の声に、僕は現実に引き戻された。いっせいにこちらを見る部下たちの困惑した表情が、視界に飛び込んでくる。


「あの、今の見積もり案についてですが、本部長のご意見は?」


「ああ、そうだな……」


 僕は資料を慌てて確認するが、文字も数字も頭に入ってこない。


「もう少し詳細な分析をもとに金額を見直した方がいいんじゃないか?」


 会議室に沈黙が流れる。部下たちの視線が、僕に集中しているのを感じる。


「失礼ですが、本部長」


 井上の上司の中村が恐る恐る口を開く。


「こちらの予算見積もりについては、先週の会議で本部長の承認をいただきました。そのため、本日は予算見積もりをもとにした実行計画の最終確認だったのですが……」


 冷や汗が背中を伝う。完全に頭が真っ白になった。


「ああ、そうだったな。すまない、少し混乱していた」


 僕は必死に取り繕う。急いで実行計画と粗利を確認する。


「すまない、井上くん。もう一度説明を頼む」


 不審そうな顔をするものの、井上はもう一度説明をしてくれた。内容を確認し、会社のルールを遵守していることや、緊急時のリカバリプランの妥当性についても問題ないことを確認した。


 その後は、滞りなく会議を進めることができた。なんとか会議を終わらせることができた。


 会議室を出てほっと息をついたとき、古株の山田が声をかけてきた。


「本部長、お体の調子はいかがですか?」


 その眼差しには、明らかな心配の色が浮かんでいる。


「ああ、大丈夫だ。少し疲れているだけさ」


「無理なさらないでください。最近、本部長らしくないミスが増えていると感じます」


 山田の言葉が、まるで鋭い刃物のように胸に突き刺さる。


「心配をかけてすまんな。気をつけるよ。ありがとう」


 オフィスの自席に戻る途中、プライベート用のスマートフォンが震える。きっと華凛からのメッセージだろう。罪悪感と期待が入り混じる中、僕は息を大きく吐いた。これ以上、仕事でミスを重ねるわけにはいかない。しかし、華凛のことを考えると、全てが霞んでしまう。まるで初めて彼女ができた男子学生ではないか。我ながら自分自身に呆れてしまう。だが、この問題をどう対処したらいいのだろうか。

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