第16話 産後2年半、1人の夜

「た、ただいま……」


 挫いてしまった足をひきづるようにして、なんとか家にたどり着いた。崩れ落ちるよう玄関に倒れ込む。


 いつもなら一緒に挨拶をしてくれる紗智は、ここにはいない。それが改めて突きつけられたような気がして、再びわたしの頬を涙が流れていく。


「紗智……どこに連れてかれちゃったの?」


 幾度となく博人に連絡をしているけど、音沙汰がない。警察に相談してみたが、父親が連れ去ったというと民事不介入と言われて追い返されてしまった。


「紗智、うううぅぅぅ……さ、ちぃ……」


 次から次へと涙があふれてくる。


 紗智が生まれてから今までの紗智の姿が次々に浮かんでは消えていく。ミルクを飲み、ゲップをしたあとの満足そうな寝顔。気がついたら初めての寝返りを打っていたのにはびっくりした。しかも、2回目の寝返り成功まで1週間もあいたのだ。あっという間にハイハイで動き回るようになり。保育園でつかまり立ちをしたと聞いたときは、仕事を辞めてずっと紗智と一緒にいたいと思ったことは、1年以上たった今でも鮮明に覚えている。


「どうして、こうなっちゃったんだろ……」


 ずっと一緒にいたいと思った紗智が、ここにいない。あるのは、遊ぶ主がいないおもちゃや着る人のいない服だけ。


 いくら紗智のことを伝えても生返事。紗智に熱が出たときも、仕事を理由に帰ってこなかった。そんな博人が、紗智とどう過ごしているのか。保育園に行っていないから、1日以上一緒にいるはずだ。今まで育児という育児をしてこなかった博人ができるのだろうか。


「ご飯、食べてるよね?清潔にして、眠れてるよね?」


 育児を放り出した博人と、まだまだ大人の手が必要な2歳半の紗智が一緒にいる。そう考えると、背筋が凍り、心配が口をついて出る。スマホをちらりと見るが、博人からの連絡はない。


 紗智が生まれてから2年ちょっと。辛いことや苦しいことがたくさんあった。母乳とミルクを順番に与えていたが、日によって飲む量が全然違うことに悩んだり。夜中のおむつ替えでおむつがズレてしまっていたようで、大雨の日に布団を濡らしたり。こちらが止めてと伝えてもイタズラをし続けたり。数え上げたらキリがない。


 でも、それ以上に紗智といることが楽しい。幸せなのだ。一緒に遊んでいるときの笑顔。幼児用のテレビ番組をボケッとみている姿。いっちょ前に怒る顔。紗智のすべてが愛おしい。親バカって言われても、うちの紗智はかわいいのだ。そのかわいい紗智の成長を、わたしは一番の特等席で見たいのだ。


「わたしは紗智と一緒にいたい。紗智が幸せだと思うようにしたい。紗智が成長していく姿を一番近くで見守りたい」


 わたしの当面の目標を口にする。自らの声が耳朶を打つ。そう、博人との離婚なんて二の次三の次。一番大事なのは紗智の幸せだ。思わぬタイミングで博人の不倫の証拠をもらってしまい、離婚する準備をしていたが、大事なことは離婚じゃない。紗智の幸せに、博人はいないほうがいいんじゃないか。そう勝手に判断して1人で行動し始めてしまったのがよくなかった。


「巻き込めるものは全部巻き込んで、博人から紗智を取り返す。最優先の目標はこれね」


 改めて目標を定めると、体が空腹を訴えてきた。昨日の夜からほとんど食べていない。これでは、紗智をかかえて逃げることなんてできない。紗智を取り返し、幸せにするための大前提は体。元気でなければ、紗智を困らせてしまう。


 体の中で活力が湧いてくるのが実感できる。紗智を取り返すためにも、ちゃんと食べて、しっかりと寝よう。話はそれからだ。

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