第35話 妻との話し合い(後)
離すまいと足にしがみつく真央を見ても、何も感情が動かない。不倫を知る前だったら、こんな風に感情が動かないなんてことはなかったのに。
「しんごがいいの!しんごじゃなきゃやだ!」
人の足にしがみついてわめく真央を見ていると、どんどん気持ちが冷めていくのがわかる。人ってこうやって愛情を失っていくんだな。
「不倫したくせに?」
「ひっ……だ、だって……しんご、が……」
ズボンが冷たい。真央の涙が染み込んで来たんだろう。
「僕?」
「うん……しんごが、いないから」
「いないって、なに?」
真央が何を言いたいのか、まったくわからない。
「……部署異動してから、帰り遅いし……たくさん出張もあるし」
1年ほど前、いろんな事情が重なって部署異動することになった。それまでの部署とは違い、1人1人の業務量が多い。人員不足も相まって恒常的に残業している部署。遠方のお客さんとのやり取りもあり、出張に行く頻度も高い。
基本的に定時退勤している部署から異動した人の多くは、雲泥の差ともいえる激務に心身のバランスを崩してしまっている。そのため、僕の異動も打診というか、できればお願いしたいに近いレベルだった。真央と相談した。それこそ何度も相談をして、最終的には真央が後押ししてくれた。だから部署異動の話を受けたという経緯がある。
「残業が増えることも出張に行くようになることも、きちんと真央に相談したよね?断っても構わないっていうことも言ったよ。話し合って真央が後押ししてくれたから、部署異動することを決めたんだよ。不倫に夢中になりすぎて忘れちゃった?」
「え、あ……その、さびしくて……」
「真央が寂しがり屋なのは知ってる。だから真央と何度も相談したんだよ。わかってなかったの?」
足にしがみつく力が強まるのを感じる。冷たくなったズボンが足に触れて不快だ。
「わ、わかって……でも、嫉妬、させたら……早く帰って、くるかもって」
「自分で考えたの?」
「ううん、マコトさ……常務が。慎吾が部署異動してから思ったより寂しくて。飲み会で、信吾がいなくて寂しいって嘆いてたら、嫉妬させたら早く帰ってくるかもって」
頭痛が痛いとはこういう感情か。そんな言葉に乗ってしまうような人だったとは思わなかった。信じてたんだけどな。
「僕は、部署異動することを真央が後押ししてくれて嬉しかった。寂しいなんて言わなかったじゃないか。納得してるんだとばっかり思ってたよ」
深いため息が出る。肺の中の空気をすべて出すほど深いため息。
「離して」
「え……」
「離して」
「い、いや……」
「離せよ」
「やだ……」
「離せって言ってんだよ!」
「ひっ!」
冷静に話そうと思っていたのに、つい怒鳴ってしまった。まったくもって理解できない理由で不倫されたことにイライラしているのかもしれない。だが、怒鳴ったことで真央の力が抜けたので、しがみつく手から足を抜いた。
「し、しんご」
「来るな。一緒に生活することはできない。僕はここを出る」
一度寝室に行き、家を出るために着替える。実はこっそり用意していた数日分の着替えと身の回りを整える品を入れたカバン。仕事にいくためのスーツと、仕事で使っているカバンを持ち、寝室を出る。
真央は呆然とした顔でこちらを見ていた。声をかけることなく、足早に玄関へと向かう。
外に出て、玄関のドアを閉めた途端、室内から泣き声が聞こえてきた。
しかし、その泣き声に後ろ髪をひかれることはない。予定していた通り、会社近くのビジネスホテルへと向かった。
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