第5話 不倫相談所

 思いの外、お客さんからの問い合わせが少なかったこともあり、定時で仕事を終えてしまった。今までなら、真央に会いたくてさっさと帰っていたのだが、ハートマークだらけのチャットのような画面を見て以来、なんとなく早い時間に家に帰りづらい。


「はぁ……」


 会社を出たはいいが、足は駅とは違う方向に向いている。まさかそんなわけないと思って聞かなかった自分が悪いのだが、こんなにも悩むとは思わなかった。真央の顔を見ていると、聞きたい気持ちの反面、聞いたら2人の関係性が変わってしまう不安があり、挙動不審にしまう。たまたま僕の仕事の繁忙期だから、残業を口実に逃げているとも言える。


「はあぁぁ……」


 とはいえ、友達や会社の同僚、先輩に相談できる、けもなく。相談できそうな友達や会社の同僚、先輩は、全員結婚式に参列いただいた方々。真央とは結婚式で初めて顔を合わせた人ばかり。それに僕の勘違い、思い込みじゃないという保証がない。もし、僕の間違いだったときは目も当てられない。


「あいたっ……ん、不倫相談所?」


 思い悩みながら舌を向いて歩いていたせいで、歩道に立てられていた看板を蹴って動かしてしまう。あわてて看板を元に戻すと、書かれた文字が目に入る。今まさに自分が必要としている場所なのかもしれない。

 看板に書かれた矢印に従って、雑居ビルの階段を上がる。2階に上がると、正面のドアに不倫相談所と書かれていた。OPENという札がかけられているので、やっているのだろう。おそるおそるドアを開けた。


「おや、いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」


 中には30代から40代くらいに見える男性が1人。座っていた事務支えから立ち上がり、手前の応接セットのソファを示してくれる。示されるままにソファに近づくと、再び男性から声をかけられる。


「お飲み物は何がよろしいですか?ホットコーヒー、アイスコーヒー、紅茶、緑茶、牛乳でしたらお出しできますよ」


「あ、じゃあ、ホットコーヒーでお願いします」


「かしこまりました。お座りになってお待ちください」


 男性はにこやかな笑みを浮かべると、部屋の隅へと向かう。蛇口が見えるので給湯スペースだろうか。流しの横にある機械を操作すると、何かが削られる音が聞こえてくる。僕は、勧められたソファに座ると、室内を見回す。先ほどまで男性が座っていた事務机と、今僕が座っている応接セット。あとはドアの近くにハンガーラックが置かれているだけ。個人でやってる事務所で最低限必要なものだけを集めた、という感じだ。


「お待たせしました。ミルクと砂糖はお好みでお使いください」


「……ありがとう、ございます」


 男性が僕の前にコーヒーカップと、ミルクポーション、スティックシュガー、プラスチックのマドラーを置いてくれる。男性は事務机の上からマグカップを取り、向かいのソファに座る。男性が座り、マグカップに口をつけたのを見て、僕も用意してもらったコーヒーカップに口をつける。


「ふぅ……」


「お気に召していただいたようでよかったです。では早速ですが、当相談所のご説明をさせていただいてよろしいでしょうか?」


 ニコリと笑う男性の表情にぎこちなく頷く。今まで飲んだ中でも一、二と思うほど美味しいコーヒーを出され、高額を取られるのではないかと心配になった。


「当相談所は不倫に悩む方々の悩みを吐き出していただく場所となります。また、ご必要であれば、私からアドバイスを遅らせていただくこともできます。ただし、興信所や探偵とは違いますので、パートナーの方の素行調査などの実務は行っておりません。おっと」


 男性は言葉を切ると、ヒョイと立ち上がり、事務机の上から何かをとってくる。何かから小さい紙を取り出し、僕の前の机に置いた。


「申し遅れました。不倫相談所の若水と申します」


 置かれた紙は男性、若水と名乗る人物の名刺で、不倫相談所という屋号と住所、電話番号に若水 限也という名前が書かれていた。


「当相談所の相談料は基本無料です。ただし、ここ以外での相談を希望される場合は、往復の交通費と必要であれば飲食代をご負担いただいております。また、相談の結果、何らかの解決に至った場合は、お気持ちを寄付していただくようお願いさせていただいております」


「え……無料、なんですか?」


「はい、左様でございます。相談所を名乗らせていただいておりますが、悩まれている方のお話を伺わせていただいているだけでございます。それで相談料をいただきたいとは口が裂けても言えません。お金をいただかないとはいえ、お話を伺わせていただいている身として、守秘義務は厳守いたします。ご覧の通り、第三者機関の認証などはございませんので、そこは私自身を信じていただくしかないのが心苦しいところではございます」


 若水さんは、申し訳なさそうな表情で頭を下げる。話したくても話さず、1人で悩み続けていた僕にとっては渡りに船。


「簡単ではありますが、当相談所のご説明は以上となります。このままお話を伺わせていただくことも可能でございます。不安や心配があれば、このままお帰りいただいても問題ございません」


 出していただいたコーヒーの美味しさと若水さんの落ち着いた笑顔に、僕の中の何かがほぐれたのだろう。僕は、今悩んでいることを若水さんに話すことを決めた。


「……実は、不倫されているんじゃないかと、ずっと悩んでいるんです」

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