第44話 川屋少年に降りそそぐ聖水
俺はマンホール下の暗闇の中を、水しぶきを上げながら進んでいた。先ほどまでは地上で行き交う銃の発射音が後方から響いていたが、今や完全に静まり返っていた。
やがて、下水だけが流れる落ちる排水口に行き当たり、それ以上は人間が立ち入れなくなってしまった。横の壁にビルの非常口の鉄扉があった。錠はかかっていない。狭い階段をのぼり、地下駐車場へ出た。だが、外には出られない。
俺は疲れ果てて、壁を背に座り込んだ。息が荒い。目は焦点が合わない。
立てこもり犯やタクシーの運転手はどうなったのだろう? あの二人も災難続きだった。特に立てこもり犯は……。いや、俺だって、俺だって。
さっき思い出しかけた過去が再びよみがえってきた。
一切、消し去ったはずの暗く、苦く、決して癒されることのないあの日。同時に甘美な体験であったことも付け加えておく。
あれは小学校三年生の遠足の時だった……。
森のキャンプ場で遠足姿の児童たちが、いたる所でワイワイとお昼の弁当を広げている。
外れの木立の中に、小用便器や個室の並ぶ木造の便所があった。男女兼用。古いだけでなく、相当に汚れていた。
そこにお腹を抱えて小走りにやってきたのは、川屋勉少年……俺だ。現在のおっさんの面影などみじんもない、九歳の紅顔の美少年である。昨晩のカレーライスが食当たりしたのだ。三日寝かせたカレーライス。
川屋少年は周囲を警戒して個室へと入ると、うろたえた。
ぼっとん……汲み取り式だったのである。
元来、体の硬い川屋少年はしゃがむのが苦手だった。自宅は舶来の洋式便器なのである。
けれども躊躇している余裕はない。恐る恐るしゃがんだ。
「ああっ!」
誤ってバランスを崩し、何もない空間に落ちた。
気がつくと、どろどろの液体の中にいた。薄暗い中、頭上から光が差し込んでいた。見上げると、先ほどの便器。あそこから、川屋少年はこの便壺に転落したのだった。
同じように天井には、光の差し込み口が並んでいた。隣、そのまた隣の便器だと思われた。猛烈な臭気。不気味な静寂。中は意外にも広い。どこから出ればいいのか分からず、川屋少年は途方に暮れた。
そこへ人のやってくる気配がした。
「男子が来ないよう、見張ってて」
女子の声がした。学年で一番人気のある綾小路麗子さんだった。同行した友人に話しかけたらしい。
助けを求めるべきか、否か。
迷いつつも見上げていた刹那、さんさんと液体が降ってきた。川屋少年は顔面に浴びながらも、じっと眺め続けた。
(続く)
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