第20話 川屋勉、感動的な愛の話を聞く
夜道を走るタクシーの後部座席で、俺は年配の運転手と会話をしていた。非常事態であることを伝えて。
「そりゃ、大変でしたねえ」
「ですから、もし途中で公衆トイレが見つかりましたら、降ろしてください」
「でも、なかなかないですよ。夜の東京ってのは。特にこのご時世は」
たしかにそうだ。深夜営業がめっきり減った。とりあえず、今はまだ小康状態だから大丈夫だ。
「安心しちゃいけません。徐々に間隔が狭まり、苦しむ度合いも増してくるはずですから」
そんな不安をあおるような発言をしないでくれ。波動が……波動がっ! 俺はお腹を押さえて、突発的に悶え始めた。
「もう来たんですか! でも、こんなところにありませんよ。野グソでもしますか?」
「だったら、シートに漏らしますよ!」
「何、言ってるんですか! とにかく、まずは屁でごまかして! 屁で!」
「けど、それではあまりにもはしたない……」
「窓を開けて、換気すれば済むことです。漏らされるほうが、こっちは大変ですよ。さあ、恥ずかしがらずに」
しかし、俺にもプライド、いや、人間としての尊厳がまだ残っている。
「そんなにためらうのなら、ひとつ、いい話を聞かせてあげましょう。ついさっき乗せたお客さんなんですがね……」
ああ、先ほど降りた男性客のことか。
例の男が運転手に語って聞かせた話。
男はこれから彼女にプロポーズするのだと、プロポーズリングを得意げに見せてきたという。
この女性と結婚しようと決めた理由が、屁だったらしい。彼が彼女の前で思わず、おならをしてしまったことがあった。ところが、彼女はそれを非難するどころか、むしろ構わないからどんどんしてと言ったそうな。
「変態ですか、その彼女は?」
運転手は否定した。
人前でおならができるというのは、心の底から相手を信頼し合える間柄だという。一緒に暮らしても、平気でおならができる相手。これこそ、トゥルーラブだと。
「感動的でしょう? さあ、あなたも彼に負けないくらい、どんどん屁をこいてください」
「心配いりません。先ほどから連発でスカしっ屁していますから」
運転手はあわてて窓を開けた。吹き込む夜風が心地よい。
「じゃあ、こっちも真剣にトイレを探しますか。私も尿意をもよおしてきましたからね。今日は何だか妙に近いんですよ。歳のせいですかね。三十分ごとに行きたくなるんですよ」
嫌な予感しかない。
(続く)
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