第2話 川屋勉の発端

 うんこビル。

 誰がそう言い始めたのか知らないが、俺はそのビール会社を毎朝眺めながら、かれこれ四半世紀、通勤している。正式には、フラムドール、金の炎というらしい。


 今、残業を終えた俺は、ターミナル駅の構内を急ぎ足で通り抜けていた。目指すはトイレ。便意を催し、帰宅までもちそうになかったからだ。

 しかし、トイレの個室は意外にも、先客たちが列を作っていた。仕方なく並ぶしかない。

 だが、なかなか前へと進まない。いくつも個室があるのだが、出てくる気配はない。中で何をやっているのだ? スマホで動画を見たり、ゲームでもやっているのか? 便所飯でもしているのか? それとも居眠り?

 並ぶ男たちは一様に焦り、苛立っていた。俺の後ろにも長い列ができていた。

 いよいよ、俺の順番が目前に迫ってきた。その時、後方から前屈みでやってきた男が切羽詰まった表情で懇願してきた。

「頼む! ゆずってくれ!」

 そうか、俺以上の緊急事態なんだな。ここは助け合いの精神で……。

「ちゃんと列に並べよ!」

「みんな、同じなんだよ!」

 後方から次々と非難の声が響いてきた。

「でも、本当に漏れそうで……」

 男は顔面蒼白、お腹を押さえて、くねくねしている。

「いいから並べ!」

 ついに男はみんなの手によって、後方へと引っ張られて見えなくなってしまった。大丈夫なのだろうか?

 そうこうしているうちに、俺の番が来た。空室の中を覗き込み、俺は躊躇した。

 和式トイレ。

 ひとまず遠慮しよう。真後ろの人に、譲った。

 そのまま先頭で待機しようとしたら、後方から罵声の集中砲火を受けた。

「辞退したなら、並び直せ!」

「えっ……ダメなんですか?」

「当たり前だろ!」

「下がれ、下がれ!」

 俺もさっきの男と同様、引っ張られるようにして次々と後ろへ移動させられ、気づけばトイレの外に押し出されていた。外には延々と続く列。トイレ横にはスタンドボードが置かれ、ただ今の待ち時間30分と書いてある。アトラクションかよ。


 あきらめて改札の外へ出た。他のトイレを探そう。

 俺の名前はカワヤツトム、43歳、妻子持ち。

 これが悪夢の一夜の始まりになるとは思いもしなかった。


                (続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る