化のたまご

 薄い雲に霞む月の光が川面を優しく照らす。淡い黄色の砂糖菓子のような月を見上げ、お師匠さまは「美味しそう」と呟く。

 呑気だなあ。さっき散々お菓子を食べていたのに、まだ食べ物のことを考えてる。


 城の船着き場の端から、水辺に降りる階段を見下ろして、水に入ろうとしているセシルを見守った。ここから川を下り、海へと戻るのだ。

 彼は降りながら一枚ずつ服を落としていき、最終的には皮だけを持って最下部まで辿り着いた。


 背中側とはいえ月明かりに照らされた場所。貴婦人もいると言うのに裸体を惜しげもなく晒していいものだろうか。

 僕はいったい何を見せられてるんだろう。別に見なければいいだけの話なんだけど。彼がなんの動物なのかちょっと興味ある。


 セシルは最後に少しだけ振り向き、僕らに向かって頭を下げた。そして灰色の皮を羽織り、その中にゆっくり溶け込んでいく。

 そこに現れたのは紡錘形ぼうすいけいの長い胴を持ち手足に短いひれのついた生き物。海の生き物に詳しくない僕にはそれがなんなのか分からない。


「セルキーはアザラシだよ」


 ようやく追いついたのか、後ろから現れたヴォジャが教えてくれた。そうか。書物で読んだことはあったけど、姿形までは知らなかった。

 アザラシ=セシルは体を滑らせるように水中に潜り、一度だけ顔を出して空を仰いだ。丸くて髭の生えた顔はどこかユーモラスで、つぶらな黒水晶の瞳だけが唯一彼の面影を残している。

 彼は軽く鼻をうごめかせて一声甲高く鳴いた。すると遠くの方でその声に呼応するかのように、鳴き声が上がる。音は高く低く多彩に変化して、まるで歌声のように水面みなもに響き渡る。


 仲間が、あるいは恋人が迎えに来たのかもしれない。そうだ、あれは歌声だ。彼が人間の姿で歌っていた歌は、故郷の恋人を懐かしむ歌が多かったから。

 嬉しそうに応えた彼が力強く泳ぎ出す。互いに声を交わしながら可愛らしい二重奏デュエットはしばらく続き、次第に遠ざかる。

 後には大小さまざまな気泡が宝石のように連なり、すぐに消えて静かな川面に戻っていった。


「行っちゃったねえ」


 気の抜けた呟きが漏れた。ようやく終わったという安堵と。まだ終わりではないという気鬱で。

 大騒ぎの顛末てんまつが呆気なかった上に、これから戻って娘たちを家に帰して事情を説明して、と考えただけでドッと疲れが押し寄せる。

 お祭りどころじゃなくなっちゃったもんね。


 ヴォジャは恨みがましい目でローズを見ているが、さすがに人前で騒いだりはしない。

 ローズはローズで顔中に刺さる彼の視線をあからさまに避けて、娘たちの今後の処遇について従者たちに指示を与えている。

 まあでも2人の問題は当事者同士で話してもらうしかないから、首は突っ込まないよ。

 夫婦喧嘩はフラムススも喰わないってよく言うでしょ?

 

 僕は「帰ろうか」とお師匠さまに声をかけた。すると、王子たちの傍に控えていたジャンゴさんがしかめ面でこちらを見ているのに気付いた。


「どうかしましたか?」

「いや……あの呪文なんだが、どうにかならないのか?」

「ああ、あれはひら……」

「レピ!帰りましょう!」


 急に慌てた様子のお師匠さまにぐいぐい腕を引っ張られ、それ以上会話を続けられなくなる。

 僕はジャンゴさんに身振りで謝りながら、念話を送っておいた。


『あれは開くだけで作動しますよ』


 その瞬間のジャンゴさんの顔といったら、皿いっぱいの苦虫を大量に頬張ったみたいだった。

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