第5話 ほろ酔いの誘惑
「……大丈夫ですか?」
腕の中に納まる先輩は、キュッと目を瞑っていた。
わずかでも顔を持ち上げれば唇が触れ合ってしまいそうだ。小さな息遣いが頬をくすぐる。言わずもがな身体は密着していて、女性の柔らかさと熱を感じた。
心臓は嫌でも鼓動を速めていく。
「飛鳥、くん……?」
やがて先輩は瞳をまるまると開いて、驚いた表情をみせる。
直近の大きな瞳は水晶のように美しく揺らめいて、今回ばかりは目を逸らせずに魅入られてしまった。
「ごめんなさい。ちょっと、酔ってるみたい。そんなに飲んでないのに、不思議ね」
それは先輩もリラックスしてくれていたということの証明だろうか。
愉しさは人を酔わせる。
俺も最初はあんなに緊張していたはずがいつのまにか、この場の心地よさに呑まれていた。
先輩は覆い被さったまま動かない。
「ねぇ、飛鳥くん。私、まだ言えてなかったことがあるの」
「……なんでしょう?」
「ありがとう」
囁くようなその言葉は、俺の胸の奥深くへ浸透するかのように流れていく。
「あのとき、私を助けてくれて、私を攫ってくれて、ありがとう。すごく嬉しかった」
しっとりと浮かんだその微笑みに、俺は夢中になっていた。
つい数時間前までの俺が知っている彼女は決してこんな表情をしない。いつも無表情、あるいは鋭い目つきで誰をも拒絶していて、誰も彼女の世界への侵入を許されない。
それは彼女が創り出した堅牢な心の壁だ。
誰もその奥地へと足を踏み入れることは叶わなかった。あの翔でさえも無理だと悟っていた。
それなのに俺だけが今、その心に触れているような気がした。
鼓動がさらに加速して、太鼓のように高鳴り、リズムを奏でる。おそらく、先輩にもこの旋律は届いてしまっていることだろう。
「お礼がしたいの。なにか、私にできることはある? してほしいことはある? 何でも言って?」
「家に招いてもらったことがお礼なんじゃ……?」
こんなに美味しい手料理もいただけて、もうすでに満足なんて言葉じゃ言い表せないほどに幸福だ。
不良に絡まれたことなどもはや些末なことだった。この時間のためなら、俺は何度だってあの綱渡りを演じるだろう。
「それは私がしたいからしただけ。お礼にはカウントしないわ。こうしてまた、助けられてしまってもいることだし」
「それならまた、先輩と一緒にご飯がしたいです。それでどうですか?」
「むぅ…………」
しかし俺の答えは先輩の求めるものとはズレているらしい。
先輩は頬を膨らませて不満を訴える。酔っているためか、それはとても子供っぽくて、可愛らしい表情だ。
「何でもできるんだよ? それはたとえ私が嫌がることでも、恥ずかしいことでも…………エッチなことでも、何だってしていいの」
「いや、それはさすがに……」
「私は、あなたならいいと思ってる」
「先輩……」
「あなただけだよ」
「………………っ」
そういうことを想像しなかったと言ったら嘘になる。むしろ部屋に誘われたら瞬間からそういう期待しかしていない。
そのはずだったのに、俺の身体はまるで自由を奪われてしまったかのように動かない。
(ここまで言ってくれてるんだぞ……? そういうことでいいんだよな……!?)
しかし程よくアルコールを摂取した頭は思いのほかクリアで、冷静で、理性を手放さない。
普段のようにバカになれたらどんなに良かっただろう。
ふいに、夕日の中で見た先輩の儚い横顔が脳裏に甦る。
すると高嶺の花に触れる勇気が、あと一歩踏み出せないのだ。
(だってきっともう、俺は先輩のことが……)
想うほどに、選択には迷いが生じた。
何か一つでも間違えて、ボタンをかけ違えてしまったら、歯車が狂ってしまったら、きっとこの人は俺の目の前からいなくなってしまう。
そんな確信が、恐怖となって俺を支配していた。
大学1の美少女である先輩と非モテで「合コンゲロ太郎」などと呼ばれている俺が今こうしていることこそが、奇跡でしかないのだから。
「迷っているの?」
「すみません、俺……」
「嫌だった? こんなの、迷惑……?」
くしゃりと顔を歪ませる先輩。
「……!? そ、そんなことありません! ぜったいに! そんなことは!」
慌てて叫ぶ。必死だった。
たとえ何があったとしても、彼女を悲しませるようなことはしたくない。
「ふふ、本当におかしな子……こんな時だけ、意気地がないのね。かわいい」
すると先輩は言葉と裏腹にむしろ嬉しそうに笑って、
「それなら私が、お手本を見せてあげる」
耳元へそっと口寄せした。
「————今夜は、帰らないで。ずっと一緒にいて」
ギュゥと身体を抱きしめられる。
先輩の表情は、見えない。
しかしこれはもう、何の疑いようもなかった。
お礼という他人行儀な言葉では説明がつかない。先輩がどれだけ優しくても、気遣いでこんなことするはずかない。
あまりにも大胆で、艶やかな誘い文句。
ここまで言わせてしまった自分が恥ずかしい。俺はようやくもって、この日1番の覚悟を決めた。
「先輩……俺……」
もう迷わない。
「俺は先輩のことが好きです。だから……」
一世一代の告白。
自分でも惚れ惚れするほど完璧に決まった————そのはずだった。
「あれ? 先輩?」
ふと、身体にかかる重力が先ほどまでより強くなっていることに気づく。それは明らかに、先輩に体重によるものだ。
覆い被さる先輩の全体重が俺にのしかかっている。
「すぅ……すぅ……」
それは酔いどれの美少女が微睡の中へ意識を手放したことを知らせる合図だった。
「え……?ウソ、だろ……?」
俺の告白はどうなった?もしかしてすでに寝ていらっしゃった?勇気も覚悟も振り絞ったのに無効ですか?
「そりゃないですよ……」
やり場のない想いに対する返答は当然なくて、俺は宙を仰いだ。
とりあえず、先輩の変化に気づくのが遅れた筋肉たちを恨んでおくことにする。
その後、俺はどうにか先輩のホールドから抜け出すと例によってお姫様抱っこして寝室へ運んだ。
勝手に入るのはどうかと思ったが緊急事態なので許していただきたい。ソファーで寝ていたら身体を痛めてしまう。
「さて、帰りますかね」
こうなった以上、致し方ないだろう。
ベッドに眠る先輩に視線を合わせて告げる。
「先輩、今日は本当にありがとうございました。よい夢を」
睡眠とは、記憶を整理する時間でもあるという。
酔っ払っていた彼女の中で、今日のことはどのように処理されるだろう。
もし、ぜんぶ忘れてしまっていたら悲しいな。
いや、そうしたらまたゼロから始めればいいだけか。
ナンパ成功率ゼロパーセント。絶対にデレない大学1の美少女を、何度だって笑わせて見せよう。
そう心に誓って俺は立ち上がる————
「待って……行かないで……」
いつのまにか、服の袖を掴まれていた。
「先輩?」
「すぅ、すぅ」
目を覚ましたのかとも思ったが、ただの寝言だったらしい。先輩は規則正しい寝息を立て始める。
俺は再び、ベッドの脇に腰を下ろした。
「ずっと一緒にいてって、言われたしなぁ」
美しい寝顔を眺めながら過ごす夜も、乙なものである。
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