第4話 ふたりだけの乾杯
「あ、おかえりなさい」
シャワーを浴びてリビングに戻ってくると、エプロン姿の夜噺先輩が迎えてくれた。
夕御飯をご馳走してくれるらしい。
「タ、タダイマモドリマシタ……」
まるで新婚みたいな会話に面食らって、言葉がカクカクしてしまった。
「もう少しで準備できるから、ソファーに座っていてくれる?」
「は、はい。りょーかいです」
言われた通りにソファーへ腰を下ろす。
リビングとキッチンが繋がっているので、そこからでも調理中の先輩の様子がよく見えた。
普段はロングに流している黒髪をアップにしていてうなじが見えており、なかなかに刺激的だ。
日常的に料理しているのだろう。慣れた手つきで、心なしか楽しそうに見える。
やがてテーブルには数々の手料理が並んだ。
「めっちゃ美味そう……!」
「そう? 簡単なものばかりで申し訳ないけれど」
「そんなことないですよ! 盛り付けも綺麗だし、どれも絶対美味い!」
俺が自分で作る料理はまさに男飯といった具合なので、目の前の料理はすこぶる煌びやかに見えた。異性の作った料理であることを余計に意識してしまう。
「飛鳥くん、お酒飲む?」
「え、あー、えっと……」
先日の合コンが頭をよぎる。俺の人生でもトップクラスの苦い記憶だ。
「私、けっこうお酒好きなの。だから付き合ってくれると嬉しいわ」
「…………じゃあ、お言葉に甘えて。粗相しないように気をつけます。てか絶対しません」
「そんなに気を張らなくていいわよ。私は気にしてないし、お酒は愉しむものだもの」
そう言って先輩はキッチンの冷蔵庫へ向かう。
お酒は愉しむもの、か。
「ビールでいい?」
「もちろんです。俺はとりあえずビールの申し子として宴会を大いに盛り上げることだけを自己PRに就活しようと思っている男です」
とりあえずハイボール教徒は駆逐しろ!
「それはなかなか苦労しそうね」
「たしかにノリが悪い上司だったら困るかもしれませんね」
「そういうことじゃないのだけど……」
先輩は缶ビールとグラスをお盆に乗せて持ってくる。
お盆をテーブルに置くと、俺の隣に座る。
(うっ、近い……)
3人がけのソファーのため、十分な広さがあるのに関わらず先輩が座ったのは肩と肩が触れ合いそうなギリギリの位置だった。
お風呂上がりの先輩の香りが舞うようにあたりを包み込んでいる。合コンで会う女のキツい香水の香りじゃない、微かな爽やかさとミルクのような甘さを感じるものだ。
「どうかした?」
「い、いえ。なんでも」
純粋な瞳で見つめられると、童貞らしく視線を逸らしてしまう。
だがそれ以上の抵抗は控えた。これが先輩の自然な距離感だと言うのなら、応えようではないか。
「グラスをどうぞ」
「どうも」
グラスを手渡すと先輩はビールを構えた。どうやら注いでくれるつもりらしい。俺はそれに甘えるように、グラスを両手でもって差し出す。
トクトクと気持ちのいい音が鳴って、グラスが琥珀色に染まっていく。いつ見ても心地の良い瞬間だ。
と思いきや数秒後、グラスの7割ほどは白い泡になってしまっていた。
「ご、ごめんなさいっ、私、誰かのグラスにお酒を注ぐのなんて初めてで……」
慌てた先輩の顔がじわじわと赤くなっていく。
「はは」
恥ずかしそうに言い訳する姿が無性に可愛らしく見えて、俺は笑みを漏らしてしまう。
「もう、バカにして」
「いやいや、そんなことないです。ただ、可愛かったので」
「わ、私がかわいい……!?」
途端に動揺している。意外と可愛いとかは言われ慣れていないのだろうか?
「それでは、ビールを注ぐことだけは先輩な俺が、お手本を見せてさしあげましょう」
先輩にグラスを渡して、今度は俺が缶ビールを開ける。
「グラスは傾けなくて大丈夫ですよ。温めないように片手で軽く側面を、もう片方で底を支えてください」
得意げに説明していく。先輩は興味深そうに聞いてくれた。
「缶ビールの場合、最初はこうやって勢いよく注ぎます」
「瓶と違うの?」
「缶は瓶より炭酸が強くなってるんですよ。たしか形状を保つため、だったかな?」
知らなければ気づけないと思うが、意識して飲み比べてみれば明らかに違うと気づけるだろう。
「だから缶は最初にこうやって炭酸を少し抜いて……それからゆっくり注いで、泡の量を調節していきます。7:3が黄金比と言われていますね」
こうすることで炭酸の量もちょうど良く、泡がきめ細かくて美味しいビールができあがる。
これが新歓コンパから積極的にタダ飲み会に参加し続けた一般大学生の処世術である……!
まぁ、目上の人間との飲み会に馴染みがあれば、誰だって習得する技だ。
しかし先輩にとっては新鮮だったらしい。俺が注いだビールをまじまじと見つめていた。
「すごい、泡が雪みたいにふかふかしてる」
綺麗な表現いただきました。
「消えないうちに飲みましょう」
「そうね。ちょっと勿体無いけれど」
くすっと笑ってグラスを掲げた先輩に、俺はわずかに下からグラスを合わせる。
「かんぱい」
「かんぱいです」
チン、と小さな音が鳴る。
それは今までした中で最も静かな乾杯の音頭だった。しかし不思議としっくりくる。
喉を滑り落ちてゆくビールも、今までで1番美味しい。なんだか、苦味の中に不思議な甘さを感じる味わいだった。
それから楽しみにしていた料理へ目を向ける。
「えーっと」
目移りしながらも、最初のメニューを選ぶ。
まずはオードブルらしきものから。アボカドとチーズ、トマトのカプレーゼだ。
「ん、うまっ〜! やっぱりめちゃくちゃ美味い!」
お洒落な風貌から果たして自分に味がわかるか不安だったが、塩胡椒の加減がちょうどよく、仄かに香るニンニクがパンチを演出している。お酒とバッチリ合う出来栄えだ。
「よかった」
安心した様子で呟いて、先輩も料理を口に運ぶ。
一口食べて食欲に火がついた俺はポテトサラダやアヒージョ、鶏のクリーム煮など、どれも絶品な料理を堪能した。
「先輩、料理上手いんですね」
「人に食べてもらうのなんて初めてだし、わからないわ」
「お店ができるレベルです。先輩がこんな料理出してくれる居酒屋があったら俺、毎日ひとりで通うのに」
「不特定多数のために料理なんてしない。興味ない」
「ですかぁ」
「ただ、あなたが美味しいって言ってくれるのは…………少し嬉しいかもね」
先輩のわずかなデレを頂いた俺は、すかさず料理を食べまくり、美味いと叫び続けた。先輩はさすがに少し恥ずかしそうだったが、どれもこれも本当に美味いのだから仕方がない。
ご飯が美味しいとお酒も進んで、何度かお互いのビールを注ぎ直した。
そうすると徐々に酔いが回ってきて、会話が弾み、口も次第に軽くなっていく。
それは先輩も同じなようで、仄かに色づく顔が綻んでいくのがわかった。
「本当に、今日は初めてのことばっかり」
1日の出来事を思い返すように宙を仰ぐ。
「まさかお姫様にされちゃうなんて」
「姫がお望みなら、またいつでもしますよ。お姫様抱っこ」
「遠慮するわ。王子様ったら、随分と乱暴なんですもの」
「いや、あれは状況が状況でしたからね?」
平常時ならもっと王子らしくお姫様を丁重に扱うことが可能なはずだ。
しかし想像したらお姫様抱っこに浮かれて飛び跳ねている自分がいたのでそれ以上の会話を打ち切った。こんな時ばかりは有り余る筋肉が恨めしい。
「あっ」
気づけば、お互いのグラスが空いていた。缶ビールのストックも底をついている。
先輩のお酒を切らしてしまうなんて、なんたる不覚……!飲み会の鬼たる俺としたことが、いささか楽しみすぎているらしい。
「ふふ」
悔しさに打ち震えていると、先輩は笑みを深める。
「ワインがあるんだけど、飲む?」
「ありがとうございます。いただきます」
先輩の作ってくれたメニューにワインは外せないだろう。
「取ってくるわ」
そう言って先輩は立ち上がるが……
「っ、先輩?」
ふらりと、足元を見失うかのようにバランスを崩した。
「————危ないっ!」
慌てて立ち上がって先輩の身体を抱き支える。しかし咄嗟だったことや酒が回っていることもあり、俺はそのまま巻き戻るかのようにソファーへ倒れた。
まるで夜噺先輩に押し倒されるみたいに。
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