第3話 何もかも初めて
西日はすでに隠れてしまって、静かな夜の時間がやってきていた。おかげでこの状況も悪目立ちしないで済むだろう。
不良を相手にしたメンタルの方はすでに落ち着いていた。よく聞き取れなかったものの、先輩の意味深な表情がそうさせたのかもしれない。
そっと横目に盗んだ先輩の姿はピンと姿勢が整っていて、歩いているだけでも美しかった。
「そういえば自己紹介してなかったわね」
ふいに無言を切り裂いて、先輩から声を掛けてくれる。
「言われてみればそうですね」
俺の方は一方的に先輩のことを知っているので、完全に失念していた。
逆に先輩は俺のことを知ろうとしてくれているのだと気づいて嬉しくなる。
「では役不足ながら俺からご挨拶させていただきましょう」
仰々しく礼をして見せると、先輩は何か言いたそうにジト目を向けたが気にせず続けた。
「俺は2年の
不名誉な方向で。
「ああ、ゲロの人。あなただったのね」
「先輩にまで知られちゃってるの!?」
先輩は合点がいったふうに頷いて、小耳に挟んだの、と付け足した。
これはとんだお耳汚し。
先輩の周りでゲロ野郎の話なんかしてんじゃねぇよおバカさんたちめ本当にありがとうございます俺もうこのあだ名大好き愛してる。
「でへへ……」
自然と顔がゆるゆるになった。
「色々とツッコミたい気持ちはあるけれど、わかったわ」
先輩がなぜかバカを見る目で俺を見ている気がした。超クールに決まったはずだったのに。
「飛鳥くんって呼んでいい?」
「ウッ————」
俺は口元を押さえて後ずさる。
「ど、どうしたの?」
「いや、名前を呼んでもらえた感動で吐き気が……」
「なんでよ!?」
今度はツッコんでもらえた。それから背中もさすってくれる。優しい人だ。
吐き気が一瞬で幸せに変わり、俺のヒットポイントは回復した。
「じゃあ今度は私ね。
右手を差し出して握手を求めてくれる。
ただの自己紹介だというのに、それだけで込み上げてくるものがあった。
「よ、よろしくおねがい゛じま゛ず……!」
「どうしてちょっと涙目なのよ…」
「う゛れ゛し゛く゛て゛……!」
つい数時間前まで、はるか高嶺の花だと思っていた人と握手しているんだ。泣いたって仕方がない。男が泣いてもいい場面ベスト3に追加しておいてくれ。
「ほんとうにおかしな子」
「褒めポイント2いただきました」
「褒めてない」
ツンとした調子でそう言いながらも、先輩はやはり笑ってくれていた。
もう数分歩くと、先輩は足を止める。どうやらアパートに着いたようだ。
しかし目の前にあるのは、俺の住む部屋とは似て非なる大きな建物だった。
端的に言って、お値段が違う。
「あの、先輩ここに住んでるんですか?」
「そうだけど?」
そう言って慣れた手つきでオートロックを解除している。それからエレベーターに乗った。
3歩ほど遅れて先輩を追いかける。
「先輩ってお金持ち?」
「べつに。ふつうの家だと思うわ」
うん、なかなかに裕福な家庭のようだ。
いや、こんなに可愛い娘がいたらお父様がかなり無理をしてセキュリティ完璧な部屋を借りたという可能性もあるだろうか?
大学からも近いし、素晴らしい立地だ。
まぁ、何にしても八城家よりは懐に余裕があるお家なのは間違いない。
非日常の連続で、ひとときばかり落ち着いていた緊張が再び高まってきているのを感じる。
先輩の部屋にたどり着く頃には、ガチガチになっていた。
「ここよ。どうぞ入って」
玄関の扉を開いて、招き入れてくれる。
「飛鳥くん?」
俺は放心したように動けなかった。
「えっと俺、女性の部屋って初めてでして……」
「そうなの?」
「お恥ずかしいかぎりですが」
「でも私だって、この部屋にお客さんを呼ぶのは初めてよ」
「あ、あははー……初めて同士ですね」
やば、ちょっとセクハラっぽい。
しかし杞憂だったようで、先輩はそうねと言って流してくれた。
「では失礼して……お、おじゃまします」
「はい、いらっしゃい」
ゆっくりと未知の世界へ足を踏み入れた。
「おお……」
そこはひとりで暮らすにはあまりにも広い部屋だった。
リビングダイニングキッチンになっていて、非常に開放的。一般大学生の部屋ではあり得ないようなソファーや大型テレビも並んでいる。
鼻腔を華やかな甘い香りが誘う。
それがルームフレグランスによるものなのか、それとも先輩自身の匂いなのかは分からなかった。
「私はシャワーを浴びようかと思うんだけど、あなたはどうする? 汗、かいたわよね?」
「へ!? しゃ、シャワーですか!? 先輩と一緒に!?」
うそ!?
そんなのまだあたしたちには早いわ!?
「一緒にとは一言も言ってないけれど……、一緒に入りたいの?」
「もちろんです!」
口は正直である。
先輩は呆気に取られた様子で黙ってしまうが……顎に手を当てて数秒考える様子を見せると少し赤面しながら上目遣いを寄せた。
「じゃあ……入る?」
「マジで!?」
瞬間、俺の思考はバスルームへと跳んだ。脳のリソースをフル活用して桃色の妄想を繰り広げていく。
ああ、ダメよ先輩!そこは自分で洗えるからぁ!?
「あ……(タラー)」
鼻血が垂れていく。
一俺のちっぽけな脳は一瞬にしてキャパオーバーで動作不良を起こし、オーバーヒートしていた。
「ちょ、ちょっと飛鳥くんっ?」
「なんでもらいれす……大丈夫大丈夫(タラー)」
「大丈夫じゃないわよ!?」
夜噺先輩が慌ててこちらに近寄ってくる。
「もうっ、仕方のない子……」
懐からハンカチを取り出すと、鼻に当ててくれた。お互いの顔の近さにドキッとする。
「せ、先輩!? ハンカチが汚れますよ!?」
「構わないわ」
「でも……!」
「いいからジッとして」
「はい……」
ハンカチ越しに鼻を摘まれる。
こんなに至近距離にいられると余計に鼻血が止まらなくなるとは、さすがにいえなかった。
数分後。
「じゃあ、待っててね」
小さく手を振って先輩はバスルームの方へと消える。
結局俺は鼻血が落ち着いてからひとりでシャワーを浴びるということになり、今はソファーに座っていた。
「おのれ鼻血……」
鼻には未だ、先輩から貰い受けたハンカチを押し付けている。血で染まっているのが見えると、申し訳なくなった。
しかしさっきのお誘いは一体何だったのだろう。冗談?それとも俺が鼻血を出さなければ、本当に……?
今日出会ったばかりの先輩の考えることなんて推し量れるはずもなく、疑問は迷宮入りだ。
「ああー、先輩とお風呂……」
妄想が膨らむとまた血が昇ってくる感じがして、慌てて上を向き知らない天井を見つめる。
俺にはまだ女性の裸を見ることさえ叶わないということか。現時点でできるのはせいぜい数秒手を繋ぐ程度。大学生にして未だレベル1だった。
これ以上の醜態を晒さないよう、肝に銘じておく。
「はぁぁぁ……」
部屋の広さのおかげで先輩がシャワーを浴びている音がまったく聞こえないことだけが唯一の救いでもあり、残念な点でもあった。
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