4・きっかけ

#31「エビデンス」「フィックス」「ジャーゴン」


 日曜の昼下がり。混み合うほどでもない電車内。

 俺は、せっかくの休日に布団の中でソーシャルゲームばかりしている自分に嫌気が差して、たまには感性を磨こうと、都内の美術館へ向かっているところだった。


 車内は静かでもなく、うるさくもなく、振動音と空気との摩擦音の他に、ちらほらと知人同士の会話が聞こえる程度。

 その空気が一変したのは、次の駅で親子連れが乗ってきた時だ。


「あのねー、ジャーゴンが、悪くてねー」


 恐竜のぬいぐるみを胸に抱えた小さな男の子が、母親に手を引かれて電車に乗り込みながら、甲高い声でそんなことを言っている。

 俺の神経はたちまち鋭敏化した。

 ジャーゴン……!


『それって、ジャーゴンって奴じゃないんですか? 俺、新入社員だし、初心者なので、もっとわかりやすい言葉で教えてもらえませんか?』


 金曜日、新入社員の男に業務の流れを教えていた時の悪夢が、脳裏に蘇る。

 ジャーゴンとは、特定の業界でしか扱われない、部外者にとってはチンプンカンプンな言葉のこと。いわゆる業界用語だ。

 そんなに難しい言葉を使っている自覚はなく、むしろ察しも呑み込みも悪い新人にかなり譲歩して、持てる限りの優しさでもって懇切丁寧に教えているつもりだった俺は、内心で逆上した。 


 え、DXがわからない? ITとの違い? BPRもRPAもわからない? 一体何の業界に入ったと思ってやがる。てめえの勉強不足だろうがああああ!!


「はいはい。それ、怪獣ジャルゴーンのことね」


 優しいお母さんの声が耳に滑り込んできて、俺は我に返った。

 いかんいかん、今日は久々に邪魔の入らないことが確定している休日。俺は鈍り切った感性の豊かさを取り戻すべく、芸術に触れようとしているのだ。会社のことを考えている場合じゃない。人間の心を取り戻せ……!


「で、エビデンスがねー、仲間のところにねー」


 しかし、追い打ちをかけるような甲高い男の子の声が、再び俺の脳味噌を揺さぶった。フラッシュバックのように、会社でのとある光景が蘇る。


『こないだの案件だけど、あれ、エビデンス取った?』


 全身からぶわっと汗が噴き出した。

 エビデンスとは、いわゆる「証拠」だ。組み上げたプログラムをきちんと稼働させテストして、不具合がないことを確認した記録。いわゆるログ。これがないと後々問題が起こった場合、大変なことになる。

 もちろん、取ったはずだ。俺は確かに記録を取って、このファイルにこうして保存……あれ? なぜだ? なんで、どこにもない? 嘘だ、そんなはずは……!


「それって、海老男子のことでしょ? 作中のアイドルグループよね」


 穏やかなお母さんの声が春の木漏れ日のように俺を救ってくれる。

 は! いかんいかん。呼吸を忘れるところだった。ここは電車内、今日は日曜日。俺は会社にいるのではなく、人類の尊さを信じさせてくれる芸術を……


「最後にねー、フィックスするんだって!」


 なんとか己を取り戻そうとしていた俺の心臓を、その無邪気な一言が完膚なきまでにえぐった。


『次の打ち合わせまでに、フィックスしといてね』


 打ちひしがれる俺に向けられた、上司の冷たい目。

 この場合のフィックスとはつまり、死ぬ気で修正の最終版を出せということだ。

 うおおおおおおお!!


 心臓を捧げよ! のポーズで痛みを堪え涙を呑む俺の隣から、小さな呻き声が聞こえてきた。「ぐぬぬう……!」と言っている。誰かが何かに苦しんでいる。

 視線をやると、同じように心臓の辺りに拳を当てた女性がいた。ずっと隣に座っていた人だ。俺と同い年くらい。ショートカットで、ナチュラルな雰囲気。

 引きつった顔で彼女も目だけ俺の方を見た。心臓に当てた拳に気付く。


「もしかして、あなたの仕事は……」

「ということは、君も……」


 それ必殺技のフィット&ミックスでしょ~というお母さんの和やかな声が、見つめ合う俺たちの間を通り抜けた。


 そんなことがあって数年後、俺たちは今、SNSで当時の親子を探している。

 結婚の報告をし、出会いのきっかけをくれたお礼を言うためだ。



<了>

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る