行雲流水

 一九三九年九月二日。フランス、パリ。

 七時間後、紗良さらは十四歳になる。

 紗良さらは、転居てんきょを繰り返す現状げんじょうだっすることを、あきらめてはいない。

 パパの帰宅頻度ひんどは、数日すうじつに一回程度。顔を合わせられる機会は、更に少ない。機会を逃せば、次は数十日先――だから、わずかな機会きかいも、無駄むだには出来ない。

 紗良さらは、パパと顔を合わせるたび説得せっとくこころつづけた。

 結果けっか、パパからあからさまに接触を避けられる状態に至った。


 卓上たくじょうで、存在感を放っている書き置き。

 しるされている内容は、誕生日の祝辞ではなく『明朝みょうちょう転居てんきょ』の四字。書き置きは、〝荷揚にあげの段取だんどりをつけておけ〟という指示書。


Ohオゥ, youユー gotガット meミー

 またやられた――悶々もんもんとする、なんとも表現しがたい感情。何度味わわされても、れない。

 書き置きは、昼食時には無かった。だから、三時間以内にパパが置いたとわかる。もしも、リビングに来ていれば――紗良さらは、自室にこもり、読書していたことを悔やむ。

 朝から家に居たのだから、直接言ってくれれば良いのに――意図的に避けられているのだから、叶わぬ願い。


 書き置きに、クリップめされている身分証を手に取る。写真は、まごうことなく、紗良さらの顔。撮った覚えが無いのに、どこから入手しているのか謎。新たな国籍こくせきは、オーストリア。名前は、クロエ・ドートリッシュ――紗良さら転居てんきょの度、身分証に記されている架空の人物として過ごす。


 紗良さらが自称する〝紗良さらクルス〟は、パパと知り合うまで呼ばれていた|名。

 この名を名乗ったのも、呼ばれたのも、九年前が最後。嘘で塗り固めた人生の中で、唯一の嘘ではないものが、紗良さらクルスの名。

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