第2話

 村に帰ったナケアはハクサに見つからないように村長の家を抜け出した。どこに向かうかは決めていなかった。ただ一人になりたかった。どうせ泣くなら、誰もいないところで泣きたかった。ぽっちゃりした体型のナケアは、全力で走っても驚くほど遅い。

ナケアが村と森の中間にある、ゆるやかな丘についたとき、誰かの声がした。

『おーい、そこの少年』

 ナケアはあたりを見回した。誰もいない。気のせいだろうか。

『こっちに来ないか。こっちだ。ほら、きみの目の前。丘にある、おおきな木が私だ』

 ナケアは耳を疑った。知らない人にはついていかないこと。村長の言葉が頭をよぎった。でもナケアは、いま誰かと一緒にいたかった。それに木は人ではないもんね、とナケアは自分に言い聞かせた。

 ナケアは息を切らして丘のてっぺんにたどりつき、天に届くほどの大木のそばに腰を下ろした。その木は、大陸ができたときからここにそびえ、世界を見守ってきた神聖な木だ、と村長がいっていた。

『突然だが、きみに頼みたいことがある』

 木は老人のようなしわがれ声をしていた。声はずっと遠くから聞こえてくるような気もしたし、頭の中で直接ひびいてくるような気もした。つかみどころがない声だった。ただ、あたりに満ちた深緑の匂いもあいまって、ナケアはとても落ち着く感じがした。

「……なに?」

 ナケアはこわごわ聞いた。ナケアは誰かの頼み事をきくのが好きだった。それはいつもドジばっかりしている自分でも、必要としてもらえているとわかって嬉しいからだ。そうはいってもナケアが何か頼みごとをされたのは数えるほどしかなく、たいてい着替えを持ってきてだの代わりに弓の手入れをしてだのの雑用ばかりだったが……。

『私を北の雷峰、パマシャ山に連れて行ってくれないか』

 ナケアは困惑した。パマシャ山のことは聞いたことがある。その山には分厚い雲がかかり、嘘か真かどしゃぶりの雷をふらせるという。

「なぜ、そこに行きたいの?」

 木はどこから話そうか迷うように少しの間をおいて尋ねた。

『この大陸に六体の精霊がいることは知っているか?』

 ナケアは首をふった。そんな話、今まで聞いたこともない。

『そのうちの一体が私だ。昔、われわれ精霊は協力し、人の住む土地を守っていた。はじめ精霊は五体だったが、ほどなくして六体目の精霊が現れた。やつは混乱と不浄を司り、人々をまどわして土地を汚した。いつしか大陸はあれ、六体目に現れた精霊は黒の精霊と呼ばれるようになった。黒の精霊は他の精霊たちから怒りを買い、パマシャ山の頂上の洞穴に封印された。しかし黒の精霊の力は強大で、ほかの精霊も戦いで力を使い果たし、永い眠りについた。やつは必ず封印を解く。それまでにわれわれは力をとりもどし、やつを今度こそ滅さなければならないのだ』

 ナケアは頭がくらくらした。精霊? 戦い? 封印? なじみのない単語ばかりだった。ナケアには関係ない、別世界の話のように思われた。はあ、と気の抜けた息が口からもれた。

「あなたは木なんでしょ? 連れて行くもなにも、そもそも動けないでしょ」

『手段はある』

 ナケアの頭になにかがコツンとあたった。と同時に、いままで影になっていたその場所が淡い夕日でそめられた。驚いてあたりを見回すと、信じられないことに、あれほど大きかった木が跡形もなく消え、かわりにすぐそばに緑の小さな玉がころがっていた。あまりに突然、あまりに自然に木が消えてしまったので、まるで最初から丘にはなにもなかったのではないかと思えるほどだった。玉はよく見ると、細かい葉がなんまいも重なってできているようだった。ナケアが玉を手に取ると、あのしわがれた声がした。どう考えても、その声は玉から発生していた。

「運びやすい姿になればいいのだ。あとはきみが私を運んでくれるだけでいい。さあ、旅に出ようではないか」

 ナケアは玉を見つめたまま、しばらくだまっていた。まず思ったのは、自分には到底できっこない、ということだった。ドジでのろまな自分では、遠い北の雷峰にたどりつくまえに、玉をどこかに落としてしまうか獣におそわれて死んでしまうことになるだろう。そうなったら、黒の精霊はふたたび復活し、世界は滅んでしまうかもしれない。すべては自分にかかっていると考えると怖かった。こういう勇者のような役目は、もっと勇敢で強い人がやるべきなのだ。そう、まさしくハクサのような。

「考えさせてください」

 ずいぶん迷ったすえ、ナケアはどうにか声をしぼりだした。ここできっぱりと断れない自分が憎かった。

「ではいったんきみの家に帰るといい」

木はとくに気落ちした様子もなくいった。

「できれば私も家に泊めてもらえまいか。ここにいて、ヤギにぱくりとされたくはないのだ」

ナケアはうなずいて、玉をポケットにしまい、丘をおりた。

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