東海道

 東海道とうかいどうを四時間程、およそ十キロ歩き、琵琶湖畔びわこはんにある大津宿おおつしゅく初夜しょやを迎える。


 初夜は床入りして奉公するもの。うてもろたからには、奉公する義務がある。そやけど、果たさしてもらえへん。

「おたのもうします。隣で寝させとぉくれやす」

 いらえようとすると、するりとかわされる。何があかんのか――聞いたら悲しなる気ぃするさかい、お願いすることしか出来ひん。


 枕は離されとるけど、隣に置いてもらうことは出来た。そやけど、背を向けられとる。恥ずかしいのやろうか――おつむでは、耐えなあかんとわかっとっても、耐えられへん。


「ケジメつけるさかい、気ぃ向いたら見とぉくれやす」

 舞妓最期の舞は、〝黒髪〟。芸妓へ襟替えをする、わずかな期間にのみ舞うことが許される舞。独り寝の女の、悲しゅう、切ない想いを表現する。

 舞妓になれへんかった胡桃くるみには、舞うことは許されへん。ハサミを手に取り、<旦那はん>の背中を見つめながら、長い黒髪を無言で淡々と切り落とす。

 ザク、ザク――三度目の音の後、<旦那はん>が振り向いてくれはった。そやけど、振り向かせることは目的ちゃう。どないな表情したらええか、わからへん。無心で、じっと目ぇ見つめたまま、手ぇ止めんと黒髪を切り落とし続ける。


 肩より下にあった黒髪は、もう残ってへん。そやけど、<旦那はん>は見とるだけで、止めてはくれへん。そら、うなっても構わへんちゅうことやえ――前髪を掴み、根本ねもとにハサミの刃を当てる。これ切ってもうたら、坊主にするしかあらへん。

 そんなん嫌に決まってる。そやけど、覚悟も決めてる。手の震え止めるため、一呼吸ひとこきゅう置いて、一思ひとおもいに――。

 音はせんと、数本の髪だけがハラリと舞う。何かが顔をツーっと伝う感触。視線を上に移すと、ハサミの刃が<旦那はん>の指に食い込んどるのが見える。


 <旦那はん>の指を口へ運び、舌を絡めてから吸う。

 <旦那はん>の身体からだの性別は女性。胡桃くるみはわかってるけど、なんも言われてへんさかい、男性やおもて接してる。

 ありえへんタイミングで、多額の代金を支払しはろうて身請みうけしたんやさかい、相応の事情があるのんは必然。同性愛者どうせいあいしゃでも、小児性愛者しょうにせいあいしゃでも、かましまへん。どないな性癖せいへきあろうと、応えてみせるえ。胡桃くるみ唯一ゆいいつ存在意義そんざいいぎは、<旦那はん>の欲求満たすこと。


 胡桃くるみは、みさおを<旦那はん>にささげるため、性行為せいこういの経験はしてへん。身体からだは、借金返済のために流通りゅうつうさせる商品やさかい、中古品になってもうたら、ただでさえマイナスの価値を、さらに下げてまう。

 そやけど、関心あらへんやら、苦手意識持ってるわけちゃう。商品価値を少しでも高めるため、いつか奉公ほうこうするときのため思うて、姐さんらの情事じょうじ一部始終いちぶしじゅう、目に焼き付けたあるさかい、知見ちけんは、ぎょうさんある。


 <旦那はん>の首に手ぇ回し、引き寄せる。

「うちの全て捧げる。好きに使つこうとぉくれやす」

 接吻寸前ちゅうとこで、両肩を掴まれ、身体からだを後方へ押し戻される。

「そういったことは旦那様に……私は一介いっかい女中じょちゅうにすぎませんので……」

「<旦那はん>ちゃうの? ……そないな大事なこと、はよう言うとぉくれやす。あやうう、初めての接吻ファーストキスを女中さんに捧げてまうとこやったえ」

「長く女社会で過ごすと、そのような嗜好しこうを持つようになるのかと、興味深く観察しておりました」

「ならしまへん。うちの覚悟、返してほしおすえ」

 あごに手ぇ当て、何か考える女中さん。

「私も覚悟を決めました。それでは、仕切り直して続きをいたしましょう」

「そらあきまへん。<旦那はん>の所有物に手ぇ出したら、ただで済まされへん」

「所有物同士ですので、問題は無いと存じます」

「初めてを捧げる相手は、<旦那はん>と決めとります」


 何か思い出した様子の女中さん。

「旦那様が渡航する際、数年間は帰ってこないとおっしゃられてましたので、当分お預けですね」

「せやったら、なんで今うちをうたん? そばに置かへんなら、帰国してからでもええんちゃう?」

「旦那様からは、進学させるよう指示を承っております」

 胡桃くるみにとって、ねごうてもない好機が訪れた。

 義務教育は、尋常じんじょう小学校修業年限の四年間だけ。十歳で卒業やさかい、舞妓になっとったら、来年からは女紅場にょこうばへ通うはずやった。女紅場にょこうばとは、舞や三味線しゃみせんやらの芸事や、お茶お花やらを習う舞妓ちゃんの養成学校で、学制に規定されへん学校。

 進学ちゅう表現を用いるのんは、高等小学校。義務教育ちゃうさかい、進学するのんは、狭き門。


 指示は、進学させることだけやろか――それだけやったら、賢い子うたらええ。高いかねはろうて、遠方から取り寄せる理由と目的があるはずやえ。

 この女中さんの特性は、すべきことをしいひんこと。名乗ること、指示を伝えることを忘れとった。もしくは後回しにしたんか――敢えてしいひんかった可能性も否定は出来ひん。

 もっと重要な特性は、嘘ついたり、隠そうとはしいひんこと。ほんで偏見を持たへんこと。確証あらへんけど、会話しとる中でそう感じた。女中さんが見聞きした全ての情報は、脚色されんと筒抜けになる。監視役に、うってつけの特性やえ。


 先程伝えられた指示は、女中さんに対するもの。おそらく胡桃くるみに対する要求が、別にあるはず。要求満たせへんかった場合のリスクを考慮すると、はよう確認しとくことが賢明やえ。とはいえ、要求を尋ねると、女中さんが要求と認識してへんものが、除外されてまう。勝手に除外させへん言い回しをせなあかん――。


「<旦那はん>から預かっとる言付ことづけは?」

 あらへんなら、あらへんて答える。そやさかい、〝言付ことづけ預かっとるか〟やなしに、〝預かっとる言付ことづけ〟尋ねる方が、正確な答えが返ってくる確率が上がる。


 女中さんが答えたのは、三つの要求。

 一、他のお兄さんと交友しいひんこと。

 二、指定された学校に進学すること。

 三、ぬい姓を名乗ること。


 二つ目の要求と、女中さんへの指示が重複しとることから、難易度は高いやろうと想像つく。

 あとは、胡桃くるみの自由にしてええ言うた。

 順番にも、意味あるんやろうか――。

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