第32話 見たんですか

「妹の体を見たんですか」

「……敬語は……使わない約束……だろ?」

 消え入りそうな声を繫ぎ,尖った鼻と割れた顎とを震わせる。

 よくも妹を,僕と同じ目に!――殺意が絶頂に達した。

 ベッドのマットレスの下からシャープペンシルを抜きとる。

「まずいよ,行けなくなるじゃないか……地元で選挙があってね。応援演説を頼まれたのさ。おまえの妹から,旦那のために頼むって」

 瞬きをして眩しげに人を見る目が涙で濡れた。

 動揺していた。激しい感情が寄せては返し増幅しながら,得体の知れぬ衝動が襲来する。

 かつて映画に見た,花魁の自害する場面を思い描いていた。自分の喉もとに剃刀をあて,男に体重をかけ,どうと倒れこむ。布団は真紅の血に染まり,満ち足りた笑みを湛えて花魁は事切れる――

 しかし,現実世界の僕はだらしなかった。仰むけに反され,手首を捻りあげられ,シャープペンシルを落としてしまう。

「……俺は何もしてない……何もできないんだよ」

 千代田は,僕の額や頰に張りつく髪を,大事そうに拭いのけた。

「顔はそっくりでも全然違う。おまえじゃなきゃ無理だ。おまえが来てからは,どんな相手も駄目になった。薬もまるで効かない。だのに,おまえって奴は,見てるだけでヤバくなる。最初は女の子だと思ったのに……女の子ならよかった。そしたら2人とも苦しまずに済んだのに……華観……華観……俺の華観……」

 僕がさめざめと泣き続けるものだから千代田は困り果て,ついには低い位置におりた。雨蛙みたいに腹を膨らませたり萎ませたりしてピイピイ声をあげた。ひどくみじめで情けない。でも我を忘れるほどに興奮し,うっとりもしていた。千代田が疲労困憊し,静かな寝息を立てるのを耳にしたとき,物足りなささえ覚えてしまう。

 死にたい。どうしてこんなにも最悪最低なのだろう……。

 かつて自殺未遂を経験したが,家族との団欒や,映画や,テレビの仮想世界から喜びや感動を得て,生きる意味を問い直したこともある。だが,やはり無意味だった。無意味どころか罪悪だ。僕という存在は忌まわしさを撒き散らす。御歌の言うとおり疫病神だ,それ以下だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る