第9話 ディアス公爵家の事情

 私は呆然としながら、ディアス公爵邸に用意された私室に向かった。

 勿論、ルシの部屋を出る時は、姿を消す魔法を使ったのはいうまでもない。途中で、十五歳のアニーから二十歳のアニタに戻ることも忘れずに。


 けれど脳裏には、ルシの言葉が渦巻いている。


『私はね、アニー。この部屋から出たくても出られないの』

『部屋の外に出ても、すぐに息が上がってしまうから。そうなると、皆に迷惑がかかるでしょう?』

『困った顔をされても、心配そうな顔で見つめられても、私にはどうすることもできなくて、余計に辛い想いをするだけ。それなら、ここで大人しくしている方が賢明でしょう?』

『周りも安心するし、私も迷惑をかけずに済む。だから私はここにいるの』


 最後にルシは『私の、私だけの世界に、ね』と寂しそうに呟いた。


 それほどまでに体が弱いルシ。ディアス公爵邸で、それに該当する人物は一人しかいない。


 私は椅子に座って、天を仰いだ。


 やはり知るべきではなかったのかもしれない。深く関われば、後戻りはできない。だけど……とルシの寂しそうな顔が、脳裏に浮かんだ。


 あの表情には見覚えがある。まだお祖母様が健在な頃のこと、私も外の世界に出たくて仕方がなかった、あの頃の私と重なる。

 しかし魔女が身一つで飛び出るにはまだ若く、何かあっても対処できる自信もなくて、結局、養父に引き取られるまで、私は山奥に籠ったままだった。


 もしもディアス公爵家の問題に関与した結果、養父であるコルテス男爵に迷惑をかけるとしたら? 当然、アカデミー在学の援助どころか、縁を切られる可能性だってあるだろうな。

 だけど――……。


「一食の恩くらい、返してもいいですよね、お祖母様」


 あの表情が忘れられなかった。


 とりあえず私は机に向かい、手紙を書いた。宛先はアカデミーにいる友人。


『ディアス公爵家の情報を求む』


 基本的な情報すら知らない私には、この一文で十分だった。いや、家庭教師としてディアス公爵邸に行くことを知っている友人に対しても、である。

 これだけで、何かあったのか察してくれるだろう。なにせ彼女は噂好き。不必要な情報をいつも私にくれる友人だった。


 窓を開けて、私は手を合わせる。その中には、先ほど書いたメモといってもおかしくはない小さな手紙が入っている。

 私は祈るように魔力を込めてから、そのまま空に向かって手を伸ばした。紙は白い鳥の姿となり、アカデミーにいる友人の元へと飛んでいく。


 大丈夫。彼女もまた、私と同じ魔女だから、きちんと受け取ってくれるだろう。友人、いや悪友の元へと。



 ***



「昨日は私の配慮が足りず、すまなかった。夕食に来られないほど疲れていたとは知らなかったのだ」


 翌朝、ダイニングに着いた途端、ディアス公爵様から謝罪を受けた。わざわざ読んでいた新聞を閉じて、こちらに向き直るほどの対応だった。


 いやいや、公爵様ともあろう者が、一介の学生……家庭教師だけど、身分の低い男爵令嬢に、そんなことを!?

 ともかく、どの肩書きを取っても、謝罪する相手ではない。それも二十歳の小娘に対して……逆に私の方が恐縮してしまった。


「こちらこそ申し訳ありませんでした! 私には勿体ない部屋だったので、つい」


 眠りこけてしまった、とは言えず、言葉をにごした。


「そうか。気に入ってもらえたのなら良かった」

「きょ、恐縮です」

「いいや。世辞ではないのだ。そなたにはしばらくここにいてもらうことになりそうだからな」

「え?」


 私は耳を疑った。

 昨日のディアス公爵様とのやり取りの中に、そんな話はなかったからだ。勉強はいいから、とりあえずやる気になるような話をしてくれ、という、期待していない雰囲気だった。それが、たった一日で手のひらを返すような態度と言い方。


 まさか……昨夜の件がバレた?

 いやいや、そしたら今頃、着の身着の儘追い出されていることだろう。なにせ私はディアス公爵家の秘密に触れてしまったのだから。


 けれどディアス公爵様は、私の心境などお構いなしに話を進めた。


「今までの家庭教師は、もって三日。初日に帰るのがざらだったのだ。しかしルシアがそなたに、家庭教師に気を遣った、というではないか。それがどういう意味か分かるだろう」

「……少なくとも、ここにいることを許された、ということでしょうか」

「そうだ。だから今日も、ルシアの気を引いてやってくれ」


 ということは、昨夜の件はバレていない? あの少女が秘密にしてくれたのだろうか。それとも……ディアス公爵様と接点がない、とか?


 いや、それよりも今はルシア様のことだ。昨日の話ではやる気を出させろ、ということだったのに、今度は気を引け、だなんて……どういう心境なのだろうか。

 あの少女のことも思うと、色々と腑に落ちなかった。しかし、ボロを出すわけにもいかず、私はここに来てからの違和感を口にした。


「分かりました。それで、そのルシア様は……」

「あの子は来ない。食事は自室でっている」

「……そう、なのですか」


 私はテーブルの上にある食事に視線を向ける振りをして、全体を見渡した。置かれている食事は私とディアス公爵様のものしかない。つまりルシア様だけでなく、夫人も自室で摂っているのだろう。


 そうなるとディアス公爵様が、ほんの僅かな出来事でも一喜一憂してしまう気持ちが理解できた。お祖母様が亡くなってから、しばらくの間は、私も一人で食事をしていたから。

 私はスカートの端を持って一礼をし、豪華な朝食が置かれている自席に座った。味は勿論、言うまでもない。ただただ有り難くいただいた。

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