第33話 「大丈夫」

「竜次‼」


 叫びながら、彼の家のある神社の鳥居をくぐる。しかし、先ほどまで走っていたために息が切れており、周囲のことに意識が回らない。拙い視野で近くにあった自販機を見つけ、呼吸を整えるべく、それに体重を乗せるように右腕をつく。


「山上氏!」


 左手で胸を押さえながら、アスファルトの地面に垂れていく大粒の汗を見ていると、駆け寄ってきた竜次が呼びかけてくる。俺は目に入ろうとする汗を拭いつつ、何とかそちらへ視線を向ける。


「……お前……さっきのメッセージはどういう……」


 途切れ途切れになりながら、目の前のアフロ頭に説明を求める。すると、息を切らしながら必死になって説明を求める俺とは逆に、竜次はどこか気の抜けたようないつもの調子で返答してくる。


「それが、この神社の賽銭箱の所に、この間の夏に毛利氏が使っていたアーティフィカル・クロノスが置いてあるんよ」


 言いながら、竜次が賽銭箱を指し示す。見ると、そこには例のクロノメーターがあった。


 神社という木造建築の中に置かれた金属製の立方体の機械。そこから赤色の光で、闇夜にくっきりと浮かび上がったアラビア数字は、明らかに異彩を放っている。数字は「19:32」となっている。恐らく現在時刻を表しているのだろう。


「なんで……なんであれが……」


 やっと整ってきた動機が、再び早くなっていっているのが分かる。俺は恐怖しているのだ。日常という空間に無理やり入り込んで来ようとする非日常に。


 ついこの間まで、俺はずっと非日常に憧れていた。それが、今となっては恐怖の対象になってしまっている。現実を忌み嫌っていた人間が、それとは異なる世界に足を踏み入れたことで、逆に現実を求めるようになるとは、愚かな話である。


 自暴自棄になったところで、恐怖心が消えることはない。むしろ、そのような負の感情というのは、抱え込めば抱え込むほど肥大していくものなのだ。


 俺は、それらの感情を自らの外に出してしまおうと、渦巻く恐怖を言葉にしていく。


「なんでアーティフィカル・クロノスが……ここに……っ」


 情けない声であるが、何もしないよりはマシだ。言いながら、俺は竜次の方を向く。彼が答えを知っているはずがないと、分かっているのに。


「あんたに分からんのなら、こっちには分かるはずないやろ」


 案の定、彼から答えは返ってこない。


 そんな意味のない会話をしていたときだった。深呼吸をしていた俺を、激しい頭痛が襲う。それはあの夏、俺を凍り付く時間へと誘った、最悪な痛み。


「タイム……リープ……‼」

 その正体を口にする。同時に、俺の視界は暗転した。




「まもなく、電車が参ります」


 無機質なアナウンスが、耳に入る。うるさい。ぼやけている視界で何とか周囲の様子を確認する。どうやらここは、竜次の家から歩いて数分ほどの距離がある高校の最寄り駅らしい。ホームから見える光景は、俺が登下校時に見ているそれと同じである。


 しかし、さっきまでいた場所とは何かが違う。その違和感を覚えたことで、嫌でも理解する。俺は、再びタイムリープしたのだということを。神社に置かれた装置によって、世界線が変動した。


 何か情報はないだろうか。俺は、着ているピーコートからスマートフォンを取り出そうとする。幸い、服装は竜次の家にいたときと変わっていないらしく、ポケットから、すんなりと見慣れたデバイスが出てくる。


 スマートフォンで日付を確認しようと、電源ボタンに触れた、その瞬間だった。背中にふんわりとした衝撃がくる。同時に、俺の身体は宙を舞う。ホームへと身が投げ出されたのだ。


 まさに一瞬の出来事。線路内に落下するまでの数秒間が、ゆっくりと流れているように感じる。


 耳につくほどの音を出しながら、走行する電車の姿が目に映る。死を覚悟する。残された力を振り絞り、ホームの方へ視線をやる。すると、一瞬ではあるものの白色のパーカーを着た人物の姿を捉えることに成功する。


 衝撃とともに、俺は激しい頭痛に襲われた。


 次に意識を取り戻したときには、俺は一人、学校の前に位置する交差点に立ち尽くしていた。


 頭が追い付かない。さっき俺は、電車に激突したのではないのか。最悪な記憶が脳内を支配している。しかし、不思議なことに、身体に痛みはない。強いて言えば、竜次と一緒いたときから続いているタイムリープの副作用による頭痛があるくらいだ。


 今は昼だろうか。正確な時間は分からないが、空を見る限り夜ではない。


 周囲を確認すると、数メートルほど先で信号を待っている立花の姿が目に入る。


「たちば」


 話しかけようと手を伸ばす。しかし、それは叶わない。次の瞬間、視界に飛び込んできたのは、彼女ではなった。銀色の自動車。それが激しい音をたてて、彼女を、立花瑞希を轢いたのだ。


 目を見開く。どんなに視線を逸らそうとしても、怖気づき固まってしまった顔を動かすことができない。事故を起こした自動車は、かなりの速度を出していたのだろう。少女の身体は、自動車から数メートル前方のアスファルトに倒れ込んでおり、飛び出した血液が彼女の着ている制服を赤黒く染めていく。


「なんでだよおおおぉぉぉっ‼」


 言葉にもなっていない断末魔のような叫び声をあげる。


 なんで、なんで彼女がこんな目に合わなければならない。世界の理不尽に対する怒りと、彼女を失った悲しみが一気に溢れ出す。同時に涙が流れ、視界がぼやける。


 地面に両腕をつき、精神の痛みを和らげようと声を出していると、視界が反転。俺は再び暗闇に包まれた。




「――山上氏」


 真っ暗な空間。何もない場所。


「山上氏!」


 そこで、聞き覚えのある男の声が反響している。


「山上氏‼」


 はっ。


 気が付けば、俺は竜次の家のある神社の駐車場に倒れ込んでいた。急なことで、焦点が定まらない。しかし、心配そうな表情で、アフロ頭の人物が俺の顔を覗き込んでいるのが見えてくる。


 一分も経たずして、視界は徐々に通常の状態へと戻っていく。俺は自分の目で、しっかりと竜次の姿を捉える。彼は、俺の身体にぐっと力を入れながら、両手で俺の肩を掴み、激しい剣幕で話しかけてくる。


「大丈夫なんか、山上氏」

「……俺は……どうなった?」


 ここで激しい頭痛に襲われた俺がどうなったのかは、自分ではよく分からない。思い出したくもない映像が俺の頭に流れ込んでくるような感覚で、世界線漂流を繰り返している間、この世界線の俺の身体はどうなっていたのか。それは、この男に聞くしかない。


「さっきアーティフィカル・クロノスを見ていたと思ったら、急に頭を押さえながら倒れだしたんよ。私が抑えたから頭は打ってないと思うけど。病院とか行かなくてええんか?」


 あのあと、倒れた。どうも腑に落ちない。俺たちがつくっていた映画内のものと同様の現象が起こっているのだとすると、相違点がある。本来、世界線が変動しても、移動する前の世界線にいた人間が意識を失い倒れるなどという設定は、映画には存在しない。


 しかし、今の俺にとって、何が起こったかなどということはどうでもよかった。それ以上に、彼に訊きたいことが、訊かなければならないことがある。


「……なぁ俺は……俺は……」


 情けない表情を見られないよう、下を向きながら、少しずつ心中の不安を言葉に変えていく。


「何があったんや?」


 その言葉を聞き、俺はようやく、彼に話すことを決意する。右手を握りしめ、重い口を開く。


「アカシックレコードを世界から分離すれば、立花が消える」

「ちゃんと話せ。ゆっくりでええ。……それは、どういうことや?」


 竜次はいつもの口調で、俺を落ち着かせながら、先ほどの言葉の意味を尋ねてくる。そんな彼からの問いに対し、クリスマスの夜にあったこと、家庭学習期間超然の日にあったこと、そしてそのときの九十九が話していた内容を、しどろもどろになりながらも順々に説明する。




「――なるほど」


 一通り説明を終えると、竜次は一言だけ呟いた。まだしっかりと状況を飲み込めていないのかではないだろうか。俺の説明に不十分な点があったのではないだろうか。そんな疑念がかすかに浮かぶも、それよりも俺は、彼の意見を優先してしまう。


「なぁ、竜次。俺はどうすればいい」


 考えるだけで心が締め付けられる問いを、投げかける。


 数秒の時間が経過しつつも、ちゃんと答えが返ってくる。


「クリスマスの夜。立花氏が言っていたやろ。アカシックレコードを世界から分離しなければ、暴走によって、ここにまた怪物が出現したり、それ以上に大変なことが起きたりするって。やったら」


 そう話すときの剣幕と覇気に圧倒され、俺は反射的に立ち上がってしまう。長いこと座っていたせいか、うまく足に力が入らないが、何とか竜次に視線を合わせる。それに、そんなことを気にしている暇はない。今は、しっかりと彼と話さなければ。


「でも、アカシックレコードを分離させるということは」

「立花氏は!」


 俺の言葉をかき消しながら、竜次は声を張り上げる。


「立花氏は、自分が消えてしまうことを分かっていてもなお、アカシックレコードを切り離すという選択をしようとしているんやろ。つまり、その選択をしなければならないほど、世界は危ない状況にあるってことや」

「でも」


 竜次は叫ぶ。


「彼女は世界を守りたいんや‼ 皆が住んでいるこの世界を‼ 皆が大切に思っているこの世界を‼ あんたと二人でしてきたように」


 それでも‼


「俺は……」


 それでも‼ それでも‼


「俺は、壊したくないだよ。創作の世界を‼」


 それでも‼ それでも‼ それでも‼


「アカシックレコードを切り離せば、この世から非現実は消えてしまう。俺を救ってくれた非現実が皆」


 支離滅裂なことを言っていることが分かっている。そんなことは分かっている。それでも、俺はそれを口にしないわけにはいかない。いかないのだ。耐えられないから。彼女が消えてしまうという恐怖に。彼女と会えなくなってしまうかもしれないという不安に。彼女と対話することができなくなってしまう党絶望に。


「だから……‼」

「山上氏‼」

「目的を見失うな。今起きていることを正確に理解して、物事をしっかり考えろ。アカシックレコードを分離しても、創作物が消滅することはない。創作と、アカシックレコードが生む非現実は別や‼」


 話ながら、竜次は俺の方へと歩み寄る。


「ええか? 現実からも、非現実からも逃げてええ。でも、あんたのことを大切に思ってくれている彼女からは、立花氏からは逃げるな。まずは立花氏と話し合うんや。対話して、意見をぶつけて、分かり合って、それから結論を出せ」


「竜次……」


 そう話す少年の姿は、普段よりも、たくましく映る。いや本当は、この男はいつもたくましいのだろう。周りに無関心でいるように見えて、実際は誰よりも、まっすぐに真実を見ている。だからこそ、このように俺を支えてくれるのだ。


 そんなことを考えていると、彼は、再度俺の背中を押す。


「大丈夫や。あんたは今まで何人もの奴らと話し合うことで、そいつらを救ってきたんやから」

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