第32話 「ありがとう」

 二月二八日。帰り道に九十九と遭遇し、立花たちと連絡が取れなくなってから、すでに一か月近くが経過している。今日は卒業式前日。二月上旬から休みを手にしていた高校生は学校に呼び出され、式のリハーサルに参加させられている。


 私立入試が一段落したこともあり、今日は家庭学習期間前と比べても人が多く、俺のクラスではほとんどの席が埋まっていた。俺も、久しぶりに夏島や松田といったクラスの連中と話すことができた。


 それもあってか、どこか気が緩んでいたのだろう。放課後になるまで、立花と会わなければいけないということを失念していた。そのまま半日が過ぎ、すでに太陽はもう山の陰へと隠れ始めていた。


 夕方の図書室。リハーサルを終えると、俺は自然とここに出向いてしまっていた。勿論、窓ガラスにはヒビ一つ入っていない。あの日の記憶はすべて、アカシックレコードの中で起こった出来事であり、現実へ影響はない。


 その事実を確認しながら、木製の椅子に腰かけ、沈みゆく夕日に包まれていく校庭を眺めている。


 この景色を見るのは明日が最後になるのだろう。そんなことを考えながら、風に揺られるだけの木々や、校庭に待っている砂煙を見ていると、ある種の焦燥感と悲壮感に苛まれてくる。


 気付かぬ間にテンションの下げていると、不意をつくようにバッグの中に入れていたスマートフォンが通知音を鳴った。こうしてスマートフォンの通知音に驚き、今が授業中かどうかを気にするのも、恐らくこれが最後になるだろう。


 再度そんなことを考えながら、スマートフォンを起動させる。すると、そこには思わぬ人物からメッセージが来たことを知らせる通知が表示されていた。


 送り主は、数ヶ月前まで俺を悩ませていた少女。矢野咲舞さんだった。


 驚きが隠せないといった表情で、画面を覗く。それもそのはず。彼女との連絡は、クリスマスの翌日から今の今まで滞っていたのだから。


 まさか、また何かあったのではないか。そんな不穏な考えが脳裏を過る。しかし、そんな根拠のない推理は、彼女からの文章によって、あっさりと払拭される。


『もうすぐ、卒業だね』


 それが彼女からのメッセージであった。俺は脳内で、いやいや留年している可能性もあるだろうなどと性格の悪い返信を思いつくも、自重。代わりに、『そうですね』無難な文章を入力する。


「こんな文面じゃ、相手が返信しづらい! 本当、山上くんはコミュニケーションが下手だよね!」なんて立花から言われてしまいそうだなと思いながら、送信ボタンを押した。


 すると意外なことに、すぐに返信が来る。てっきり、年末に送るような『明けましておめでとう!』というメッセージのように、連絡先を持っている知り合いに全員に送っているのだろうと考えていたが、様子を見る限りそういうわけではないらしい。ちなみに、俺にそのようなメッセージが送られてきたことはない。


 彼女から送られてきた第二のメッセージに目を通す。


『いやぁ、私たちももう大学生だね』


 またも、いや浪人の可能性もあるだろうなどと考えたが、彼女にはクリスマスの翌日に合格していることを伝えていたと思い出す。それを皮切りに、二ヶ月ほど前に彼女とメッセージを交わしたときの記憶が溢れ出る。


 一二月二六日。冬休みの到来を喜びながらも、何もすることのない虚無感に包まれて、ベッドの上でゴロゴロと横になっていたときに、机においてあったスマートフォンが鳴った。


 そのとき、彼女は俺に感謝の意を表明していた。恐らくあれは、怪物から彼女を切り離したことに対するものであったのだろう。しかし、そのメッセージを受け取る資格は、俺にはない。当時そんなことを思った。いや、正確には今もそのように思っている。


 冬の一連の事件で、助けてもらったのは俺の方なのだ。


 彼女は、俺の考えを改めさせるきっかけを与えてくれた。この世界と、アカシックレコードによって生み出された世界。どっちを求めるべきなのかと、彼女は問いかけてくれたのだ。


 あれがなければ、俺はいつまでもアカシックレコードに、非現実に固執し、今でも立花と本音で話し合うことから逃げ出していたであろう。


 だから『感謝するのは俺の方です』と返信した。彼女から『和也らしいね』という返信はあったが、そこでトーク履歴は止まっていた。


 過去を振り返っていると、またもスマートフォンが振動し、通知音を鳴らす。


 第三のメッセージには、これからが本題であるというような重苦しさと、普段の彼女の能天気さの二つがに見え隠れしている。

『この間は、本当にありがとうね』その文章を読み、胸を締め付けられるような思いになる。


 彼女からの「ありがとう」という言葉。俺はまた、その言葉の裏に何かあるのではないか。本当は納得していないのではないか。そんなふうに、できもしないのに裏側を探ろうとしてしまう。


 今までの俺ならそれを続けていたことだろう。しかし、今の俺は違う。人と触れ合い生きていく上で大切なことは、自分から相手を信頼を勇気であるという、簡単なことを思い出す。


 そうだ。人との関わりをつくるためには、誰かに信用してもらうためには、自分から相手を信用しなければならない。そして、話し合うことができれば、完璧とまではいかなくとも、人は人を信用することはできる。


 まずは話をしなければ。そう思いながら、俺は勢いよく席を立つ。


 その瞬間、新たなメッセージが着たことを示す通知音が鳴った。


『山上氏。私の家のところにタイムリープマシンがあるんやけど』


 まさか、再び世界が暴走を始めたのか。ハロウィンライブの日、アカシックレコードがこちらの世界に中途半端に接続されてしたことで、俺のせいで、今度はタイムリープ現象が起きるのではないか。不穏な考えが頭に浮かぶ。


 その瞬間、俺は図書室を飛び出していた。


 なんでだ‼ なんでだ‼ なんでだよ‼ なんで、俺たちが守ったこの世界がまたこんなことに目に遭っている。なんで、こんなふうに世界は変化する‼


 世界に対する不満を心中で嘆きながら、すっかり日の暮れてしまった夜の街を駆ける。


 こんなふうに街を全速力で駆け抜けるのはいつぶりだろうか。相変わらず、ここ周辺の道は走るのに向いていない。道の歪さとコートの重さが、俺に嫌悪感を与えるとともに、発汗量を増加させていく。それに、大学受験を終えている俺は、最近はほとんど外に出ていない。そのため、短い距離でも全速力で走ると、数分で両足が悲鳴を上げ始める。


 気が付けば、汗が目の方へと流れてきていた。それが染みて、痛みが発生。さらに、それらは走る振動とともに流れていき、その影響で下着が地肌にへばりついてくる。


「痛いな‼ くそが」


 弱音を吐きながらも、何とか足に力を入れ、思い切り地面を蹴る。


 タイムリープ。その言葉を目にしたとき、俺は恐怖心を抱いた。冷静に考えると、あんなものは恐怖でしかない。自分の行動一つで過去が変わり、今までつくってきた人との関係や生活が、一瞬にして無かったことになってしまう可能性を秘めているのだから。


 俺は走らなければならない。


 竜次のもとに急がねばならない。


 何かが起こる前に、彼を助けるために。そして、この世界に起こっている事象を、自分自身の目で確認するために。

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