第六章 机上のシンキロウ

第31話 「世界よ、鎮まれ」

 寒いなんてもんじゃない。


 久しぶりの憂鬱。まるで、心に穴でも空いてしまったかのような、そんな感覚がある。何に怯えているのか、何に恐怖を感じているのか、自分でも分からない。ただ漠然とした不安だけが、身体の中をゆっくりと淀めいている。


 そんな不透明な心の中に、一つだけはっきりと見えるものがある。それは、これが一年前に感じていたそれとは、似ても似つかないという思いだ。あの頃の俺は、周囲には自分を傷つけてくる存在しかないと誤解していた。一歩でも外の世界に踏み出せば、そこには地獄が広がっている。だから身を潜め、逃げ隠れしながら生きていくしかない。そんなことを本気で思っていたのだ。


 けれど、今は違う。この一年で、俺の目に映る世界は一変した。


 人は、自分が理解できない存在に恐怖し、それから逃げようとしてしまう。分からない、知らないということは怖いことだから。逆に言えば、知ってしまいさえすれば、恐怖から解放される。


 俺は、彼女に誘われたことで、立花瑞希に手を引っ張ってもらったことで、知らなかった世界を知ることができた。そう、未知の世界に対する恐怖からは、すでに解放されている。一年前に俺を暗闇へと陥れようとしていた存在は、今はない。だから分かるのだ。今感じている憂鬱の原因は、過去のものとは異なっていると。


 相変わらず、窓際の席のみ、日当たりが強い。カーテンを閉めていなければ、燃え尽きてしまうのでなないかとすら思う。うっとうしいほどに明るい光が、俺を照らす。


 そんな場所から、ぐるっと教室の中を見渡す。少ない。明らかに出席人数が少ないのだ。来ている人間は、クラスの三分の二、下手すると半分くらいしかいないだろう。二月に入り、私立大学の受験が一斉に始まったことが、原因だろう。


 ただ、それだけではない。国公立大学の二次試験に向け、家庭や塾での自主学習に集中するべく、登校しないという選択をとっているような人間もいるのだろう。


 そんなことを考えていると、再び胸を締め付けられるような、得体の知れない感覚に襲われる。


 現在、時刻は一一時過ぎ。窓から見える景色は、この街にしては珍しい快晴だった。この街にいるときの俺は、ほとんどの場合、周囲に対する不満を抱えているため、常に曇っている街というイメージが固定されてしまっているだけなのかもしれないが。


 本校の三年生は、明日から家庭学習期間というものに入る。二月三月に控えた受験に向け、家庭内で勉強するという期間だ。これは、卒業式の前々日まで続く。つまり、すでに受験を終えてしまった人間からすると、今日が高校生活終最終日と言っても過言ではない。


 チャイムが鳴る。それと同時に、先ほどまで教卓に置かれたパソコンとにらめっこしていた担任が声を上げた。


「よし、じゃあ今日はこのまま解散にするから。週番号令」


 ようやく、自習という名の無駄な時間が終わりを告げる。俺と同じように物思いにふけていた者たちは、皆意識を取り戻し、帰り支度を始め、寝ていた者たちは周囲の人間に揺すられ、目を覚ます。


 この何気ない光景を見ることは、もう二度とないのかもしれない。そんなことを考えると、俺の中の恐怖が、三度増幅される。そこから来る痛みに耐えながら、俺は一年間過ごした教室をあとにした。




 自宅までの帰り道。俺は舌打ちをしながら、自転車を漕ぐ。


 この時期のサイクリングは嫌いだ。未だ外気は寒いため、コートを着てから走りは始めるのだが、途中で身体が熱くなり、汗をかくことになる。この中途半端な気温の中、運動などするべきではない。


 また、土手ということもあってか、虫が多い。二月上旬。季節としては春であり、別に多種多様な虫が大勢いるわけではないが、その代わりにギリギリ目に見えるくらいの謎の小さい虫が、群れをつくって飛んでいる。


 得体のしれない大きな憂鬱の上に、何気ない小さな憂鬱をいくつも重ねながら、自宅を目指す。そんな何気ない日常の一瞬、日常の一カットの中に、小さな穴に大きな何かを無理やり突っ込むかの如く、非現実が入り込んでくる。


「――久しぶり。山上」


 土手の坂道を上がっていると、丁度上がり切った辺り場所に、一人の男がこちらを向いて立ち尽くしているのが見えてくる。クリスマスの夜に話した白パーカーの人物。九十九遥である。


「……んだよ」


 怪訝な目を向け、九十九に尋ねる。


 何故、俺の前に姿を現したのかと。中学時代、俺はこいつのことを特別好きでも嫌いでもなかった。俺の中では、少し人付き合いが苦手そうな奴。そんな印象だった。


 けれど今は違う。正直、俺はこいつのことが怖い。クリスマスの夜に再会し、彼から色々な話をされて以降、俺はこいつのことを敵と認識している。俺たちが守っているこの世界を、俺の居場所を壊そうする人間。心のどこかで、そんなふうに考えている。


「山上。今日は大切な話があるんだ」


 少し高めな声で、九十九は軽やかにそう告げる。


「君、いや正確には君たちか。君たちは、このアカシックレコードをこの現実世界から解離させようといているんだろう」

「なんでそれを」


 恐怖を押し殺し、すぐに言葉を返す。しかし、言い終える前に九十九が言葉を投げかけてくる。


「分かるさ。君たちが何を考えているのか。今後何をしようしているのか。この間レコードが暴走したときの君の発言で、何となく見当がつく」


 彼は軽やかな口調でそう告げる。その後、少しの間を空け、次のように続ける。


「でもいいのか? こことレコードとの繋がりを断ち切るということは、この現実世界から立花瑞希の存在を消すことを意味するよ」




 ――は?




 すぐにそれを否定しようとする。しかし、それよりも前にもう一つの考えが浮かんでくる。


 この男の言っていることはでたらめ。テキトーなことを言って、俺を騙そうとしている。この男からすると、アカシックレコードがこの世界から切り取られるのは都合が悪いのだろう。だからこそ、そんな戯言を抜かしている。


「あんた……何言っているんだよ」


 自分でも、声が震えているのが分かる。こいつは嘘をついている。そう思っていても、この男の言葉には謎の説得力があり、完全に持論を信じることができない。そんな自分がいる。


「この世界がアカシックレコードとの接続を果たした日。同時に、レコードを管理する神のような存在・アーユルヴェーダが誕生した。僕と彼女を含めた四人の選ばれし人間さ」


 九十九の言っていることはでたらめなどではない。彼の話し方から、そんな疑念が確信へと変わっていく。


「立花さんは、ただの管理者ではない。彼女は管理者を管理をする立場にある。要するに、管理者の上司のような存在なんだ。同時に、彼女は現在、この世界における最高管理者と言ってもいい」


 反発したい気持ちを他所に、俺は彼の言葉に納得してしまう。そう思わせるほどに、彼の言葉には嘘のないと言わんばかりの軽やかさと、美しさがあった。


「僕たちアーユルヴェーダには、アカシックレコードを表す『空大・アーカーシャ』を含めた、インド哲学における五大元素『地大・プリティヴィー』『水大・アーパス』『火大・アグニ』『風大・ヴァーユ』の力が与えられた。アカシックレコードを守るために」


 何も言い返さないのをいいことに、九十九は飄々とした態度で話を続ける。


「僕たちアーユルヴェーダは、常にその中の一人をアカシックレコードとダイレクトに接続させておくことで、こことレコードを繋いでいる。そして今のそれが『火大・アグニ』の力を持つ立花さん」


 九十九は、一呼吸置いてから、再度最悪な真実を告げる。


「……アカシックレコードをここから切り離せば、立花さんの身体はその衝撃に耐えきれず、この世界から消滅するだろう」


 何故、こうも世界はくそったれなのだろうか。そんな中二病患者が抱いているような怒りを胸に、俺は目の前の青年を睨みつける。そんなことに意味などないと、分かっていながら。


「さあ、山上はどうする?」


 そう言い残し、九十九は蜃気楼の如く姿を消した。




 それからの一か月間。俺は何度も、立花に連絡を取ろうと試みた。紫月さんにも試した。しかし、二人とも音信不通。普段はすぐ連絡の取れる彼女たちから何一つ反応がない。その行動はまるで、九十九の言葉を肯定しているかのようだった。竜次に話を聞こうとも思ったが、奴はまだ受験が終わっていない。それに奴がアカシックレコードに関する情報を、俺以上に持っているとも思えなかった。


 こうして何の情報も得ることができぬまま、気付くと卒業式前日を迎えていた。

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