第一章 日常のメタモルフォーゼ

第1話 上毛高校

「――アカシックレコード」


 窓際の席。暖かな日の光に包まれながら、俺は自身の記憶に残された奇妙な単語を口にする。


 ときは四月。桜の花びらはすっかり散り切り、山も樹木によって青々と染まっている。強めの陽光が目に染みる。カーテンに遮られることもなく、直接注いでくるそれは、室温と体温をともに上昇させていた。


 春の訪れを追い越さんとする夏の到来は、暑さゆえに俺を苛立たせる。


「おはよう、やーかー」

「あっ、おはようございます」


 あだ名で俺のことを呼びながら、前方の席に腰を降ろしたのは、一年ほど前からの友人、緑山冬馬みどりやまとうまであった。「み」で始まる緑山と、「や」で始まる俺、山上和也やまがみかずやという番号順ゆえにできた関係ということもあり、そこまで親密な相手ではない。学校ではそれなり話す「友人」といったところだろう。


「俺しか話す相手がいないからって、そんなかしこまるなよ」

「いや、別にそんなつもりはないんですけどね。申し訳ない」


 このように、簡単にいじりやネタを会話に入れられるほどに、コミュニケーション能力が高く、クラス内でも顔が利く。いつも教室の端にいる俺と会話していることに対し、違和感を覚える人間も、少なからずいるだろう。緑山本人からしても、俺は「席についたときに暇を潰す相手」という感覚のはずだ。


「そう言えばあれは読んだ?」

「読んだ? 読んだって、何を?」

「ほら、俺が投稿サイトで見つけたって言ったやつだよ」

「あー、あの北欧神話が何とかって言っていたやつか」


 昨日『神々たちの終末戦争ラグナロク』という、ネット上に公開されている個人による無名のライトノベルについて、彼が熱弁していたことを思い出す。


「あれは、まだ読めてないっすね」

「まじかよ。やーかー、絶対ハマると思うんだけどな。設定がいいんだよね」


 緑山が、再度小説について語り出そうとした、そのときだった。

 我々の会話を邪魔するかのように、けたたましい音を立てつつドアを開けた担任が「はい、皆おはよう」というテンプレートのような言葉とともに、教室の中へと入ってきた。


「そんじゃ、ホームルーム始めるぞ」


 同時に、クラスメイトが皆、自分の席へと戻っていく。


 週番の「起立」という号令に合わせ、席を立つ。そのとき、俺は室内を見渡した。


「最悪だ」


 腰を下ろしながら、誰にも聞こえぬ小さな声で、そう呟く。


 上毛高校三年三組。ここは俺にとって地獄でしかない。クラス替えの影響で知り合いはほとんどおらず、担任との関係もあまりよろしくない。俺の所属する普通科は、もう一つの英語科と違い男子限定で、華もない。


 憂鬱な日常が、空っぽな日々が、淡々と過ぎていくだけである。


「えーっと、文化祭実行委員会の者と、生徒会執行部の者……といっても、うちのクラスは緑山と山上だけだったか?」


 言いながら、担任がこちらへ視線を向けてきた。


「そうっす」


 対して、緑山が難なく相槌を打つ。


 このようにクラス内で自分、もしくは自分を含んだ数人のみに注目が集まる状況は、あまり得意ではない。無論、そんな状況だからといって、全員が自分を見ているというのは、自意識過剰な考えであると、そう理解はしているものの、緊張は拭えない。こんなときにすっと返答できる緑山は、やはりコミュニケーション能力の高い人間なのだろう。


「二人は放課後、会議室で臨時の定例会があるらしいから、忘れずに行ってくれぇ」


 臨時なのか定例なのかどっちなんだとツッコミを入れながら、緑山の様子を窺う。俺は生徒会、緑山は文実ということで、最近よく一括りにされることが多い。そういったとき、彼は大抵こちらに話を振ってくるのだ。


「そういや、今日会議があるって言ってたな」


 案の定、頭だけを後ろに向け、話しかけてきた。教壇に人が立っているというのに、話しかけてくるという言動そのものが、いかにも緑山らしい。


「有志のイベントについて、色々と変更があるんでしたっけ?」

「あー、有志のやつか。だるいな」

「そんなこと言ってやるなよ」


 口ではそう言ってみるものの、緑山の言いたいことは分からないでもない。正直、だるいのは確かだ。会議と言いつつも、雰囲気は雑談と大差ない。優先して進めるべき話であればあるほど停滞してしまう。「会議は踊る、されど進まず」というやつだ。


「――では、号令お願いします」


 担任の声で、週番が再度号令をかける。すると、皆「うーっす」と気の抜けた返事をし、また友人同士で集まっていく。


 時計を見ると、針は三五あたりを指していた。一限の始まりが四五分。始業まではまだ十分ほど時間がある。このような何でもない時間は、ぼっちであるという事実が浮き彫りになるため、居心地が悪い。こんなとき、周囲にいる夏島なつじま松田まつだといったクラスメイトに話しかけることができればいいのだが、彼らとは緑山を通じて、数回話をした程度の関係。急になれなれしくしても、困惑させてしまうだけなのだ。まだ早い、まだ早い。


 現実から逃げようと、広がる空へと視線を移す。


 俺のようなぼっちが良くやるとされる、机に突っ伏した状態での寝たふり。あれはほとんどの場合、寝た「ふり」であることを、周囲に分かられており、逆に恥ずかしい。したがって、このような状況に陥った際にとるべき行動は、潔く何もしないことだ。


「あのっ」


 窓がある方とは逆、身体の右側。そちら側から発せられた可愛らしい声が、耳に届く。


 瞬時に振り向く。するとそこには、肩にかかるかかからないかの辺りにまで伸ばされた、明るく茶色い髪と、パッチリとした大きな瞳を持つ、女子高生の姿があった。


 彼女はその目で、俺の顔をまじまじと見つめながら、再度口を開く。


「君が、放送係副係長の緑山冬馬くんで、合ってるかな? よろしく!」


 少女は俺に、小さくて白い、可憐な右手を差し出してくる。


 どうやら、この物語の主人公は、山上和也ではないらしい。

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