貴女の幸福を待っている
口一 二三四
貴女の幸福を待っている
「北海道へラベンダー畑見に行こうよっ!」
幼い頃と入学してから何度も目にしているその顔は無邪気に楽しいことを見つけた時にする顔で、後先考えてない提案を口にしたことを私に知らせる顔だった。
高校二年の七月。
梅雨明けと言うには心許ない空模様の下、ウェーブのかかった長い髪を揺らし輝くルカの瞳とは対照的に雲行きは怪しい。
「どうしたの急に?」
年々温度を上げる夏の熱気がルカの輪郭をぼかし、前髪で隠れた額に水気を感じて雨が降ってきたのかとカバンの中へ手を伸ばした。
「今が見ごろらしいよ?」
「見頃の話をしてるんじゃなくて」
それが自分の汗だと気がついて探し当てた折りたたみ傘の柄から手を離す。肩にかかる程度のセミロングを撫でれば風通しがよくなった。
少しずれた眼鏡を整えてから映したのは湿った空気漂う照り返しのない帰り道。
今でこんななんだから夏休みに入る八月にはどれだけ暑くなるんだろう。自分や町も原形を留められず溶けて無くなるんじゃないか。
毎年考えて、そんなわけないかと一人頭の中ですぐ撤回する。
「なんで期末テスト真っ最中の今北海道でラベンダー畑なのかって話。いつもならカラオケとか甘い物食べに行くとかでしょ?」
荒唐無稽であれルカがどこかに行こうと言うのはいつものこと。
学校で溜まった鬱憤を発散するみたいにカラオケで歌ったりスイーツを食べたりと何とも学生らしい生活を謳歌している。
「いやまぁカラオケと甘い物もテスト終わるまでお預けだけどさ」
でもそんなルカもテスト期間中は静かなもので、まだ終わってもいない今時分からどこかに行こうなんて言うのは初めてで。
「え~それはいいじゃん別に。行こうよカラオケ。ついでにラベンダー畑も」
早くも二回目。記録更新だ。
「よくない勉強しろ学生」
それが北海道でラベンダー畑なんて言われれば呆れを通り越して何かあるんじゃないかと勘ぐってしまう。
「実は、実はね」
「うん」
「昨日テレビで北海道の旅番組見て」
「あっ、それ私も見た。海鮮丼食べたくなったやつ」
「今ラベンダー畑が見ごろなんだって」
「綺麗だったよね。こう一面薄紫でさ」
「でしょ? だから行こうよ~」
「……えっ、待ってもしかしてそれが理由?」
「そうだよ? ダメ?」
また眼鏡が少しずれる。
「ダメじゃないけどそうだよって、本当にそれだけ?」
「ほっ、ほんとにそれだけだよ? やっぱりダメ? なにか変かな?」
指で元の位置に戻したレンズの先には困ったような表情で見つめてくる私と同じ歳の幼女。
通り越して別れたはずの呆れが先回りして笑顔で手を振っている。そんな幻覚を見た気がした。
「……あのっ、ルカ。海野月歌さん」
「はいカオルちゃん。衣川薫さん」
声だけでなく手を上げて挙動でも返事をする様子に初めて出会った時から変わらないマイペースさと人当たりの良さを感じた。
「私達は高校二年生です」
「また同じクラスになれてよかったよね~」
このほんわかした雰囲気もあって入学当初からこれまで人気が上がり続けていることをルカは知らない。
「一学期ももう少しで終わります」
「いよいよ夏休みだね。今年はどこ行こっか?」
そんな人気者と目立たないクラスメイト上位にいる自分が仲良くしている理由は色々あるんだけど。
「そんな夏休み前の大事なテスト期間中に北海道までラベンダー畑なんて見に行くわけないでしょ」
この突拍子もない提案に待ったを言い渡す役目もその一つではあるんだろう。
「え~なんでなんで~?」
一歩二歩先を行く私の背中に不満だらけの声がぶつかる。
「カオルちゃんも綺麗だったって言ったよね?」
「言ってない」
「言った! ウソつかないで!」
「言ったけど言ってない。あれはそういう意味じゃない」
「なにそれわかんないずるい!」
すれ違う人の何事かと向ける視線をかいくぐりながら帰り道を進む。
「私の綺麗だったはただの感想で「綺麗だったから見に行くのさんせ~い」って行動に移す理由にはならないの」
昔はよく漫画雑誌を買っていた小さい本屋が見えてきた。
「もしかして今の私のマネ? 似てないよ?」
「うるさい真面目に言うな」
今では家から近いって理由で参考書を買う以外で利用しなくなったそこも、将来どうするか未だ決まっていない身分で立ち寄るにはまだ早かった。
「ルカも言ってたけどもうすぐ夏休みなんだからテスト放ってまで行く必要ないでしょ? どうしても行きたいならちゃんと計画立てて夏休みに行けばいいだけなんだし」
通り過ぎる際見えた店先の本棚には丁度旅行関係の雑誌が並んでいて、その中には当然北海道も人気の旅行先として表紙を飾っていた。
「夏休みじゃダメなの」
「どうして?」
「だって、そのっ、ほら、見ごろ過ぎちゃうから」
「見頃こだわりすぎじゃない?」
「あともう飛行機のチケット買っちゃったし」
「その行動力なに?」
「私とカオルちゃんの二人分」
「ほんとその行動力なに?」
待って待って嘘でしょ嘘でしょあっ、ほんとだチケット買ってる恐る恐る航空券の受領書見せてくれてありがとうなんで返事聞く前に買ったのかな?
「昨日の今日だよ? いつ買ったの?」
怒りとはまた違う、けど近い何かではある感情を飲み込み流れで受け取った航空券の受領書を見つめる。昨夜の番組を見て思い立つには早すぎる判断にただ行くだけではない別の目的みたいなものを感じた。
「昨日の夜にスマホで予約して、さっきコンビニ行った時に置いてる機械でピッ、ピッ、ピッって」
私がトイレに入ってた時か。
そういえば何か買ってたけどこれだったんだな、って、んっ? んんっ?
「明日? えっ、予約明日になってるけど?」
「うん、明日フライト予定」
「明日フライト予定?」
ちょっと、飛行機の前に、意識が、離陸していく。
歩道の端に佇むバス停の時刻表に手を添え滑るように背をベンチへと預ける。
「きっと綺麗で楽しいよ?」
「そういう問題じゃない」
「えっとじゃあ旅費は全部私が出すから」
「だからそういう問題じゃないし行くってなったら自分の分は自分で出すって」
隣に座ったルカの誘いに項垂れたまま答える。
誰もいないバス停は休むのに丁度いい場所で、屋根の日陰が頭を冷やす。
「ねぇ、ルカ。高校で再会してから私ルカの思いつきには大体乗ってきただけど、ごめん。今回ばっかりは流石に乗れないや」
受け取ったままの紙を返してフッと息をもらす。
それに一瞬悲しい顔を覗かせるルカだったけど。
「そっ、そうだよね。さすがに突然すぎだよね」
すぐにいつもの笑顔を作って取り繕う。
それが無性に申し訳なくて、さっき言った言葉を撤回しようとも考えたけど。
「高校入ってから特になりたいものも決まってないのに真面目にお勉強しましょうでちょっと疲れてたんだよね。それでカオルちゃんも同じ気持ちなんじゃないかなって、思っちゃって」
だから気分転換がしたかった。
そう告げるルカの横顔が、言葉が。
やりたいことやなりたいものもなくただ漠然と勉強をこなしてる。
周りの言葉通り誰かの代わりみたいに過ごしてる自分の心に深く突き刺さった。
お互い気まずくなって暫く他愛の無い話をして別れた。
バスが来るまでと決めたタイムリミットは丁度本数の少ない時間帯だったのもあって伸びに伸び、今日のテストの手応えや今年は海に行くのか行かないかの話に花が咲いた。
その間何度かさっきの北海道の話が出そうになったけど意識的に避けていたのはルカも同じで、ようやくバスが来て立ち上がりいつもの分かれ道で二、三言交わして済んだ。
手を振る顔が寂しそうに見え後ろ髪引かれる思いはあったけど振り返らず、今は家の自室でスマホを眺めている。
お互いに触れないからそのままにしてしまった私の分のチケット。
今は持ち合わせがないけど自分の分は自分でお金を払うつもりだ。
それを文章に起こして送信すればどんな返信がくるのかは容易に想像できる。
旅費全額払うって言ってたぐらいだ。別にいいって言われるのは目に見えているし、その方が私の懐的にも助かる。
でもルカとは貸し借り無しで付き合いたいのが本心で、せっかく再会できたんだし。後々遺恨が残しそうなことはなるべく避けていたかった。
勉強机に肘をついて読む気になれない教科書と書く気にならないノートの上でスマホの画面を行ったり来たりする。
すでに決まっている文章を送らずにいるのは気まずいからでも迷っているからでもタイミングを図っているからでもなく、私がいなくても成立してる一階からの家族団らんに気が散っているからで。
「薫? 入るよ?」
いい加減耳障りになってきてイヤホンとプレイリストに手が伸びる寸前、リビングにあったはずの声がノックと一緒に扉の前から聞こえた。
普通ノックしてから呼びかけないかなと思う心は何年も前に消えている。返事を聞かず開かれた音を諦めに似た感情で迎え入れる。
「……なにかよう?」
態度が素っ気ないのは久しぶりに顔を合わせたからじゃない。
「用ってほどじゃないけど、久々だから元気にしてるかなって」
「元気だよ。見ればわかるでしょ」
五つ年上のよく出来た姉、華との関係はもう何年も前からこんな調子で、原因がわかっていても自分ではどうすることもできない問題だった。
さっきまで手つかずだった教科書をめくりスマホをペンに持ち替える。
「テスト勉強?」
「そうだよ。邪魔しないで」
「わからないとこあったら教え」
「いい。わからないとこ無いから」
「あっ、うん。ごめん」
微かな沈黙が流れてノートに向いていた視線を部屋の入口に向ければ自分が同じぐらい伸ばしても似合わない綺麗な長髪が揺れていて、姉妹である事実に目を背けた。
「……お姉ちゃん八月半ばぐらいまでこっちいるから、何かあったら言ってね」
こっちを気にかける言葉を残して閉じられた扉が心の隔たりに思えた。
おかえりの一言ぐらい言えばよかったんじゃないかと愚痴り出す自己嫌悪を劣等感で説き伏せる。
勉強が出来て見た目、性格もいい。私とは正反対の姉。
昔はそんな姉が自慢で憧れだったけど両親の関心が姉にしか向いてないとわかってからは意識的に避けるようになっていて、大学進学を機に家を出ていった時は寂しさよりも安堵が勝った。
これでようやく自由になれる。
両親も少しは私を見てくれる。
けど実際は優秀な姉越しに見られる不出来さへの重圧だった。
――お姉ちゃんを見習って。
――お姉ちゃんみたいになって。
「じゃあもう、お姉ちゃんだけでいいじゃん」
この家に私の居場所は無い。
薄々気づいていたことが二階へ上がる時見たリビングの様子でわかった。
両親と姉だけで成り立つ家族の形を見て理解してしまった。
流し聞いていた話によると今日から一ヶ月ぐらい家にいるらしい。
就職がこっちで決まったからだとか、その準備をするためだとか言ってた気がするけどよく覚えてはいない。
ゆくゆくは戻って来る。それだけは理解できた。
だったらいよいよ私はいらなくなるんだろうなと考え始めたら。
「……なにそれ」
両親の言うことに反発もせず真面目に勉強してる自分が馬鹿らしくなって教科書を閉じた。
ペンの代わりにスマホを持ち直し、送ろうとしていた文面を全部消す。
文面だけじゃない。今自分が置かれてる全てを投げ出すつもりで。
「……ルカ、さっきの話だけど」
甘い誘惑を囁きかけてきた親友に電話をかけていた。
「行こう、明日。北海道、ラベンダー見に」
初めてルカと出会った日のことを夢に見る。
テレビでやっていたイルカショーが見たくて家族と行った水族館で迷子になった。
右を見ても左を見ても知らない人ばかりで怯えてしまい声を殺して泣いていた。
そんな時、人混みの濁流の合間で同じく迷子になって泣いている女の子と目が合った。
心細さで泣いていたお互いの前に現れた同じ境遇の誰か。
「あなたおなまえなんていうの?」
先に話しかけていたのは自分からで、普段の内気さが嘘みたいだった。
それだけ寂しさが勝っていたんだろうなと今ならわかる。
「……うみのるか」
「うみの、いるか?」
「るーかーっ!」
言い間違いを冗談と捉えて言い返す顔は少し和らいでいて私に元気をくれた。
「るかもおなまえききたい。おしえて」
「いがわ、かおる」
「いるかかおる?」
「いーがーわーっ!」
「おーかーえーしーっ!」
いたずらが成功したような表情でにししと笑う顔は楽しそうで、それがキッカケで迷子の二人は親友になった。
家族とはぐれたことなんて頭の片隅において手を繋ぎ二人で見たいものを見て回った。
「もうっ! 心配したでしょバカッ!」
目的だったイルカショーも館内アナウンスを聞いて見に行って出入り口で待ち構えていた姉に捕まった。
涙を溜めて怒っている姉の顔を見たのはあの時が初めてで、私とルカは迷子センターまで連行されてお互いの家族に引き渡された。
こっぴどく怒られたのは言わずもがなで、あんまり思い出したくない思い出の一つに数えられている。
父親と母親二人揃っていた私とは違い母親一人だけしかいなかったルカの家族になんで? と思ったけど、高校入学時ルカから父親が海外で仕事してることと今はおばあちゃんと暮らしていることを聞いて色々察した。
あの日はルカと母親の最後の思い出。
小学校中学校を経て離婚は成立し、住む場所が変わったからこそ再会できたルカの顔はあの頃と同じ明るさで。
ふとした拍子に寂しさが伺えた。
「……んっ、ぅ……」
電車の振動に揺すり起こされ浅い眠りから目を覚ます。
随分と懐かしい夢を見た。私とルカが友達になった日の夢。
また再会できるとは思ってなかったルカが今隣にいる不思議な感覚と、出会いから今までの十年を感じさせない居心地の良さが寝付けなかった昨夜より眠気を誘った。
「あっ、起きた。おはよ~」
私が顔を上げたことに気付いてルカがスマホとのにらめっこをやめる。
私達からすれば気分転換のちょっとした旅行でも事情を知らない周りからすれば家出、失踪、誘拐などを連想する。最近何かと物騒だし。
そうなると連絡する先は警察。
呼ばれると色々と面倒だから事件性はないと簡単に書いた置手紙はしてきた。
ついでに、あんな両親でも不出来な娘がいなくなったら連絡してくるだろうと、それはきっと面倒だし私自身の意思が揺れ動きそうだからスマホも置いてきた。
「またスマホ見てたの?」
けどルカはそうしなかった。
朝駅前で合流してからずっと自分のスマホをいじって逐一何かを確認している。
「家から連絡きてる?」
「おばあちゃんからきてるけど通知切って全部無視してる」
そこまでするなら私みたいに家に置いてくればよかったのに。
「そうなんだ。おばあちゃん早起きだね」
なんて言葉を喉元まできて寸前で飲み込む。
「五時には起きてくるからバレないように家出るの大変だったよ」
データ上のお金がいまいち信用できない私と違ってルカは普段から電子マネーを使っている。
「始発って初めて乗ったけど思ってたほどガラガラでもないんだね」
移動にしても買い物にしてもスマホを使うルカにとってそれは必需品で、ただ連絡を取り合うツールとしか使ってない私とは重要度が違っていた。
「平日だからね。部活や仕事で朝早くから乗る人がいるんだよ」
「そんな人達に混じって学校サボって北海道に行こうとしてる。なんか不思議な感じだね」
ちらっと見えたルカのスマホ画面には不在着信の通知が二、三件。
それを押しのけるように知らない人がSNSで何かを投稿したことを知らせる通知がポップアップしていた。
「やっぱり気になる?」
目が合う。
少し上げれば交わる視線でルカも私の顔を覗き込んでいたことに気がついた。
「ちょっとはね。二人ともいなくなってるの気づいて慌てて連絡入れるんじゃないかなって」
「カオルの両親もこの時間起きてるの?」
「多分まだ寝てる。うちは六時半ぐらいに全員の目覚ましが鳴るから」
「それは……うるさいね」
「うん、うるさい」
ルカのウェーブのかかる前髪がしなだれ、隙間から見えた苦笑いに困った笑みを返す。
「今戻ったら間に合うよ、テスト。私はここまで来たらもう行っちゃうつもりだけど、カオルがそれに合わせる必要ないし」
「先に誘ってきたルカがそれ言うの反則じゃない?」
背中を座席に預けて車窓からの景色を眺める。
まだ起きたての街並みは天気の悪さも相まって薄暗く、起きたくないと布団を被っているようにも見えた。
「テスト気になるけど今さら戻って集中できる自信ないし、ここまで来たらルカについていくよ。それに」
帰ったってあの家に私の居場所は無いし。
「……ルカ一人じゃ心配だし」
「なにそれ。私もう高校生なんだけど」
今にも降り出しそうな雨雲の色と昨日家族に対して抱いた暗い感情が重なる。
「……なにかあった?」
膝に置いていた手にルカの手が被さる。
学校以外では左中指に必ず付けている指輪の硬質な感触が伝わり、目を向ければイルカのデザインがキラリと光った。
姉が帰って来たこと。
しばらく家にいること。
こっちで就職が決まったこと。
全部言葉通り本当なら出来のいい姉の影に隠れる不出来な妹の日々がまた始まる。
「行かないって言ってたのに行くって言い出してさ」
我慢してきた今までとそれがうんざりになったのがルカの優しい問いかけでもれ出そうになる。
「……別になんでも」
でもこれは私の問題で、ルカに関係のないことで。
言えば負担になるし余計惨めになるのは目に見えている。
「なんでもないから」
わかっていても、わかっていても。
全部じゃなく少しだけでも察してほしくて念押しする辺り。
「……そう。じゃあなにも聞かないね」
私もルカに甘えてるんだなって、黒々と濃さを増していく向こうの空を見つめた。
乗り換えのため電車を降りれば空はすっかり雨雲が占拠していた。
通勤通学で行き来する雑踏の合間に聞こえるのは構内アナウンス。
予兆を知らせる雲からゴロゴロ音が聞こえたかと思えばそれを合図にポツリ、ポツリ。勇み足の雨が降り始める。
最初は音も無く地面を濡らし、勢いある轟音でホームを染め上げた。
そういえば今日の天気予報見てなかったな。
誰にもバレないようにこっそり出てきたからニュースも見てなかったとスマホを探そうとして、家に置いてきたんだったと手を止めた。
「うわぁ~、結構降ってきたね」
トイレに行っていたルカがジュースを買って戻ってくる。
二本の内一本はカフェオレで、私の好みを知っているからこそのチョイスだった。
「ありがとっ、あっ、お金」
「いいよ別に。私のおごり」
悪いと思いながら隣に座るルカの表情が嬉しそうで、まぁ。
次は私が何か奢ればいいかと缶のフタを開ける。
甘苦い味が一口で広がり昨日送ろうとして消した文面のことが頭に浮かんだ。
「でも飛行機のチケット代はさすがに払うから」
「それも別にいいのに」
「よくない。今は持ち合わせがないけどちゃんと払う、絶対」
こっちで勝手にやったことだからと言いながらまんざらでもない横顔でルカが見ていたのは自分のスマホ。
「天気予報見てるの?」
「まぁそんなところ」
盗み見るつもりはなかったけどつい気になって覗いた画面には私の欲しい情報はなくて、変わりに誰か知らない人のSNSアカウントが表示されていた。
登録だけして使っていない私と違いルカはこのSNSを頻繁に使用している。
どこかに出かければ写真を投稿したり反応を見たりするぐらいだから別に珍しいことではないんだけど、何度も画面を更新して一人のアカウントを見ているのは私の知る限り初めてであった。
改めてアカウント名を見る。やっぱり知らない名前だけどどこかで見た気もする。
カフェオレをもう一口含めば頭の冴えが戻ってきて、始発電車の中で見た通知も同じ名前だったのに気がついた。
もう一度気づかれないようにチラッと見る。
スクロールされた投稿の中。
『ラベンダー畑に行く』と書かれた文面と添付された写真に、この人も私達と同じ場所に行くんだなと妙な引っかかりを覚えた。
降り出した雨はやむ気配がなく、ホームから見える街並みに個性豊かな傘の渋滞を作り出す。
信号の赤でせき止められ青になって流れていく様子は色とりどりの濁流で、本来であれば今頃通学路で似たようなことになっていたんだろうなと、達観未満の疎外感に肘を太ももに置いて頬杖をついた。
「電車まだ来ないね」
それを不機嫌と捉えてルカが声をかけてくる。
目を向ければ取り繕ってるような、どこか焦っているような顔が見えた。
「何分遅れるかってのまた時間増えたね」
それはそうか。この大雨で乗るはずだった電車が来ないんだから。
地元から始発に乗ってやってきた大きな駅。
到着してすぐぐらいから降り出した雨はやがて本降りとなり人の足、交通機関に打撃を与えた。
まだ時間があるから、朝早かったからと駅で少しゆっくりしていたのが仇になって伸びに伸びた到着時間は五分、十分。あっという間に増えて既に一時間以上になっている。
「ごめんね。私がちょっと休憩してから乗ろうなんて言ったから」
発車案内板を見ながら口にした私の言葉で怒ってると勘違いしたルカから申し訳なさそうな声がもれる。
別に怒ってはいなかったけど思わぬ足止めで不機嫌になっていたのは事実なのでそれが声に出てしまった。
「謝るんだったらあのままタクシーの列並んでればよかったのを「いつ乗れるかわからない」って抜けさせた私の方だよ」
加えて電車じゃなくタクシーで行こうと言ったルカの提案をお金と行列を理由に断った手前、同じように申し訳ない気持ちが態度を素っ気なくしていた。
「でもこの分じゃ空港に着いても飛行機飛んでないんじゃないかな?」
外のベンチじゃ濡れてるからとホームにあるアクリル板かガラスで区切られた休憩スペースへ場所を移したけど、結局。
狭いか広いかの違いぐらいで立ち往生している今の状況と大して変わらない。
「……あっ、ほんとだ。私達が乗る予定だった飛行機今運転見合わせてる」
スマホを持っているルカが調べて報告してくれる。
催促したつもりじゃなかったけど今一番知りたかった情報に自然と目が動いた。
空港の運航状況が表示されている画面の上にルカが朝から見ているSNSアカウントの通知がポップアップしていた。
知らない人の今日何度も見ては覚えてしまった名前。
思い返せばSNS関係の情報はそれしか見ていない。ならルカはこのアカウントの人だけを設定で通知が来るようにしてるってことになる。
どうして?
朝から、いやラベンダー畑に行くと言い出してから気になっていた疑問がより一層強くなった。
この人もラベンダー畑に行くって投稿していて、いつも以上の勢い任せでラベンダー畑に行きたいと言うルカ。何か関係ある気がしてならない。
「……ねぇ、ルカ」
「うわっ、また来た」
やっぱり聞こうと切り出した声がルカの驚きにかき消される。
知らない誰かとルカとの関係を考えていて目を離していたスマホに視線を戻す。
「おばあちゃん、お父さんに連絡入れたんだ」
そこにはポップアップも空港の情報もなく、代わりに『お父さん』と書かれた着信と電話番号が表示されていた。
ルカの父親は海外で仕事をしている。
娘が生まれてすぐ決まった転勤は十分な給料が約束される代わりに家族が離れ離れになるキッカケを作ってしまった。
出産して間もなかったルカの母親は知り合いのいない海外より身内や、仲の良かった義母を頼れる日本に残ることを選び単身赴任となった夫を見送った。
たまに帰ってきても滞在時間は限られその短い時間が幼いルカにとってかけがえのない時間になっていたと、高校で再会してからしばらくして聞かせてもらった。
「こっちから電話しても「忙しい」とか「また今度」とか言って切るくせにこんな時だけなによ」
それも今では忙しいとかでめっきりなくなり、なかなか帰ってこない父親に正直うんざりしている、と。以前ルカは話してくれた。
「出ないの?」
「出ないよ。当たり前でしょ」
解りきっていることを聞いた私にルカは普段あまり見せない不機嫌そうな顔で答える。
「なんかさ、お父さんに引き取られておばあちゃんと暮らすようになってお母さんの気持ちがわかっちゃったんだよね」
時刻は午前九時をとっくに過ぎて十時間近。
乗るはずだった電車は来る気配がなく、発車案内板に遅延の時間は消え調整中が並んでいた。
「離婚を切り出した時のお母さんの寂しさを今は私が感じてる。こんな思いするんだったらあの時お母さんについて行けばよかった」
いつまで待っても電車は来ない。
「もしかしてそれが理由だったりする? そのっ、急にラベンダー畑に行くって言い出したの」
ホームの人混みも諦めたように消えているのに私達がまだここにいるのは。
「それも関係あるけど」
「時々見てるSNSのアカウント。それが関係してる?」
帰りたくない理由と行きたい理由がお互いにあるからだった。
「……あー、やっぱり気づいちゃう、よね」
長く続いた着信が観念したように不在へと変わり、ホーム画面と共にまた誰かの投稿がポップアップで表示される。
「まぁ私も隠す気なかったからいいんだけど。ただちょっと自分から言い出しにくかったっていうか、変な気を使われたくなかったっていうか。ほら、カオルって優しいし、それにそのっ、最初っから話してたら止められそうだと思ったから」
「別に優しくはないよ」
止められそうの部分は実際やりそうだから何も言わない。
ルカ以上に仲いい友達のいない私にとって学校も居心地のいい場所ではなく、今日だって家にいたくなかったから乗っかっただけで、ルカにならいいかって甘えてるそれを優しさと言うには抵抗があった。
「いつから気づいてたの?」
「何か変だなってのは昨日からだけどアカウント自体は始発乗ってる時から。スマホの画面、見えちゃって」
「そんな前から。じゃあやっぱり優しいよ。だって今の今まで聞いてこなかったんだから」
「それは私にもあんまり突かれたくない事情があったからだよ」
自分のことで手いっぱいだからと続けようとした言葉はルカの重ねてきた手の温もりと、いつも左手の指にしているイルカの指輪の感触で飲み込んだ。
「この人ね、私のお母さんかも知れないんだ」
すり寄るように体を預けるルカが見せてきたスマホの画面。
ちらちらと見ていたそこには有名なSNSのアプリが起動していて今日一日で何度も見て覚えてしまった名前が表示されている。
「お母さんかも知れないって」
水族館で迷子になった時一度だけ見た顔とアカウントの犬のアイコンとを照らし合わせる。
ずいぶん昔の記憶だしそもそも人と犬じゃ合うはずもないんだけどルカから聞いていた印象と書かれたプロフィールの雰囲気が似ているように思えた。
「はじめは全然知らない人で、見かけた写真が綺麗だったからフォローしたの。そしたらフォロー返しされて」
そこからSNS上でなんとなくやりとりをするようになって、落ち込んだ投稿には励ましの言葉もくれるようになったと話すルカの横顔はそれこそ家族との思い出を語るようだった。
「なんだかこう、かけてくれる言葉が全部優しくて、素敵な人だなって。もしお母さんと暮らしてたらこんな風に悩み聞いてもらったりしてたんじゃないかなって」
ネット上の顔や素性もわからない相手にそこまでの感情を抱くのは危ない。
思いはしたけどあの水族館での出来事が母親と過ごした最後の楽しい思い出になったルカの心情を考えると仕方ないかなと黙った。
「それで一昨日、あのラベンダー畑のことテレビでやってた時になんとなくSNS眺めてたら、ほら」
画面いっぱいに映っていたのは『明日ラベンダー畑に行く』と書かれた投稿と添付された写真。
ポップアップ通知では小さくてわからなかった細部が元の大きさになったことで見えてくる。
ラベンダー畑が掲載された雑誌を真ん中に添えられた左手の親指に見覚えのあるイルカの指輪が付けられていた。
「……あっ、これって」
それはあの水族館のお土産コーナーで見かけたペアリングとよく似ていた。
カップルや夫婦に向けて置かれていたであろう商品に幼い私は興味を示さなかったし、見た目に反して値段が可愛くなかったから買わなかったけど。
「ルカがいつも付けてるやつの」
「そう、ペアの方」
娘におねだりされたルカの母親は購入し、離れ離れになった今もルカの左中指にはイルカの指輪が輝いている。
「サイズ合わせとかしないで買ったから私は女性用も付けられなくてずっとしまってたんだけど、男性用を持ってるお母さんは親指にしか付けられなくて「せっかくかってくれたのにごめんね」って言ったの。そしたら」
――これで迷子になってもお母さんってわかる目印ができたね。
それは水族館でのことじゃなく、恐らくその時には決心していたであろうこれからのことに対して言っているように私は思えた。
「私お母さんに嫌われてると思ってた。お父さんが家にいなくても寂しい思いさせないように色んなところ連れて行ってくれたのに「お父さんに会いたい」「お父さんに会いたい」っていっつも困らせてた。離婚が決まってどっちに引き取られるってなった時も「お父さんとがいい」って自分から離れちゃってさ」
目には強い後悔の念が宿り声には悲しいぐらいの申し訳なさが滲み出ていた。
「自分がいればお父さんもずっと家にいてくれる。そう思ってお父さんと暮らすようになったけど、無理に決まってるよね。だって今までも私がいるいない関係なく家にいなかったんだから」
鼻をすする音が聞こえる。
ちょっと泣いてるなと肩を抱き寄せる。
「だからこの写真見た時嬉しくって。違う人かも知れないけど、お母さんかも知れないって思ったら、それだけで私嫌われてなかったんだって思えて」
あの頃とは違う。
色んな経験もたくさんの知識も年相応に身に付けてきた。
幼い時にわからなかったことがわかって、それが未練や後悔になって感情を揺さぶる。
「そしたら会いたくなって、飛行機のチケット、予約してた」
「それで確認もしないで私の分のチケットも買ったってわけか」
笑わすつもりで言った言葉にルカが目を伏せてしまう。
「あーごめん冗談だから」
肩に置いていた手をそのまま頭に移動させ指通りのいい髪を撫でた。
「勇気がないよね。一人で会いに行けばいいのにカオル巻き込もうとして」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ」
「じゃあそんなことある」
「もぅ、どっちなの?」
「そっちこそ」
大切なモノみたいに両手で包まれた、自分の母親と重ねるアカウント。
手がかりはイルカの指輪。付けている指の位置と幼い頃に聞いた言葉のみ。
正直それだけで行動に移すのは軽率なように思えたけど、たったそれだけの感情で行動に移せるルカは。
「……あっ、新しい投稿」
何年も一緒にいるのに何も言えず両親の重圧と姉へのコンプレックスに押し黙っている私よりも勇敢で、逞しくて。
「なんて書いてあるの?」
とても羨ましかった。
「……ラベンダー畑、行くのやめるって」
何度聞いたかわからない構内のアナウンスが虚しく響く。
母親かも知れない人の新しい投稿には『雨のせいで交通が止まっているから北海道に行けない』『明日には雨雲が北へ流れるだろうから行けても当日雨天になる』と書かれていた。
「私達と同じ理由だ」
「もしかしたら近くに住んでて同じ飛行機に乗るつもりだったのかも」
「ふふっ、そうだね」
だとしたらここに来るまでにすれ違っていたかも知れないなと顔を上げる。
「でもちょっとホッとした。覚悟はしてたけど、お母さんじゃなかったらって不安な気持ちはやっぱりあったから」
まだ雨のやまない駅構内には見えてる限り私達しかいなかった。
「ねぇ、ルカ。思い切って連絡してみたら?」
投げかけた言葉にルカが顔を上げる。
私を見つめる目は少し赤くなっていてやっぱり泣いてたんだなと見えないフリをした。
「連絡ってこのアカウントの人に?」
その疑問は当然で、聞き返す声には困惑が見え隠れしていた。
母親かも知れない。けど母親であると断言できる情報はない。
イルカの指輪が特注の物であればまだよかったけど、あの水族館に行けば買えてしまうお土産だ。
広く出回っている品は判断材料として弱く、疑り深い考え方だけど、たまたま同じ場所に行ってたまたま同じ物を買ってたまたま親指に付けている可能性もある。
何か一つでも母親だってわかる確かなものがあれば踏み込んでいいだろう。
それもないのに素性のわからない相手に直接連絡するのは危険。
「さすがにそれは恐いって」
当然それは私も思っている。
「そうじゃなくて、ルカのおばあちゃんかお父さんに今のお母さんの連絡先知らないか聞いてみたら?」
だから別の方法。
もっと確実で身近なところから情報を集めればいい。
「どっちか知ってそう?」
提案して実際どうか聞いてみるとルカは瞳に残っていた涙を拭いて唇に指を当てる。
「……おばあちゃんと仲良かったから、もしかしたら知ってるかも」
でも、と。
言葉を詰まらせるルカの表情から色々と察してしまう。
母親かも知れないアカウントの人がどこに住んでるのか知らないってことは、本当の母親の居所も知らないってことになる。
気にはなっていたけど聞けなかった。
今日聞いた話でそんな心情は容易に理解できた。
「思い切って聞いてみたらいいんじゃないかな? その方が少ない手がかりで勢い任せに探しで行くよりずっと確実だし、チケット取ってまで会いに行こうとする勇気があるならこんなのどうってことないよ」
励ますように投げかけた言葉が跳ね返って私の心に響く。
家族とまともに話もできない私が家族に聞けばいいと言う。
どの口が言ってるんだかと心の中の自分が笑う。
こういうのはもっと自分や周りを大切にしてる人間のセリフだ。
昨日自分が姉にした態度を忘れたの?
自虐は自傷行為みたいに心へ刃を立て、それがノイズみたいに視界の邪魔をする。
「……うん、カオルが言うなら私、やってみようと思う」
ルカは強いな。
「電話で確認が取れて、それでもしそのアカウントの人がルカのお母さんで、いや、そうじゃなくても。今日みたいにルカが会いたいって思ったら、どこにだって私がついて行ってあげるから」
私と同じように家族のことで悩んでて、私とは違って行動に移している。
モヤモヤを抱えたままキッカケすら望んでいない私にそれはとても、眩しくて。
「ありがとうカオル。私のそばにいてくれて」
「別にいいよ。私とルカは親友なんだから」
ありがとうはこっちのセリフなんだけどな、と。
少しだけ勇気をもらえた気がした。
やまない雨はないとわかっていても降っている間憂鬱なのは変わりなくて、透明な空間越しに見上げる空へ短いため息がもれてしまう。
駅構内の休憩スペースは相変わらず。
来ない電車を待つ人はもういなくてここにいるのは私達ぐらい。
手段と目的が無くなってなおここに留まっているのは、今さら怒られに帰ってもなって気持ちと天気のこともあるけど。
「…………すぅ……」
「……全然起きないし」
寄りかかったまま眠るルカを起こすのが躊躇われたからっていうのもある。
朝早かったってのもあるだろうけどずっと胸の中にあった引っかかりが外れて気が抜けてしまったのだろう。
帰っても問題が山積みな私の気持ちも知らないで呑気なものだなと小言が出かけたけど、穏やかな寝息と寝顔で別にいいかと薄く笑った。
それでも両手にはスマホが納まったままで、寂しい思いをしていたルカが今は黒い画面のそこにどれだけの安らぎを求めていたのかが伝わってきた。
「……あっ」
しばらく眺めているとスマホに着信を知らせる表示が出てくる。
音や振動は設定で消されてるためルカを起こすことはない。
スマホに手を伸ばす。
その安寧を乱すような真似はしたくなかったけど、表示されていた電話番号に見覚えがあった。
気づかれないようにそっと、起こさないよう握られた手からスマホを取って改めて見る。
誰がかけたのか名前が出ていないってことはルカの知らない番号ってことだろう。
見覚えあるってことは私しか知らない誰かからの着信ってことだろう。
通話の表記を押す。
「あっ、繋がった。海野月歌ちゃん、だよね? 知らない番号でビックリしたよね。覚えてるかわからないけど私、衣川華って名前で薫の」
「お姉ちゃん」
表示されていたのはかけることなんてないだろうけど一応家族だしで登録していた番号。
電話口から聞こえた声はやっぱり自分の姉で、お姉ちゃんで。
見覚えがあって当然だった。
「……薫、月歌ちゃんも一緒?」
「一緒だよ。今疲れて隣で寝てる」
ルカのスマホに私が出てるんだからわかるでしょそんなこと。
家で対面していれば出ていたであろう憎まれ口も電話越しだと出ることはなかった。
「……そう、よかった」
「心配してたの?」
「じゃなかったら月歌ちゃんのおばあちゃんから番号聞いて電話なんてかけないわよ」
呆れてるような口振りの中に安堵するような気持ちが滲んでいた。
「薫が置手紙してくれてたから事件とかじゃないんだろうってみんなで話してたけど、それでも心配なものは心配で」
みんな怒ってるんだろうなって思ってたからこうしていつもみたいな調子で話してくれると気が楽になる。
「ちょっと聞いてる?」
「えっ、あっ、なんだっけ?」
「スマホぐらい持っていきなさいって言ったの。かかってくるの煩わしくて置いて行ったんだろうけど何があった時に困るのは薫なんだからね?」
「あー、うん、ごめん」
ほんとに心配してくれてるんだな。
内容は説教臭くても声の感じからそれがわかって、水族館で迷子になった時と重なる。
「あれ、やけに素直ね? いつもなら、まぁ、いいや。小言は帰ってから。それで今どこ? お父さんの車で迎えに行ってあげるから」
「迎えってお姉ちゃんだけで?」
「その方がいいでしょ? 私は家に着くまであーだこーだ言ったりしないから。今だってお父さんとお母さんから隠れて電話してるんだから」
感謝してよねと続いた気遣いが、こうして距離が離れているからこそ身に染みる。
駅名と今の状況と、ルカの母親のことは伏せてどうして行くことになったのかを伝えると「なにそれ」といつもの笑い声が返ってくる。
こうしてまともに会話したの、いつぶりだろう?
もう少し早くこうして話ができてたら、変にギクシャクすることもなかったのかな?
「事情と場所は大体わかった。それじゃあ雨弱くなったらすぐ迎えに」
「……ねぇ、お姉ちゃん」
今さらかな?
今さらかも知れない。
……それでも。
ルカに話したことが胸に引っかかって、自分の言葉なのに心に響いて。
真っ直ぐな目で聞いてくれていた姿が瞳に焼き付いて。
不確かな情報を再会のキッカケだと信じたルカのように、私にとってのキッカケが、今なんじゃないかなと信じて。
「えっ、なにかお」
「私ね、お姉ちゃんのことが嫌いだった」
胸の内に溜め込んでいた暗い感情を吐き出すことにした。
電話の向こうに沈黙が流れる。
それは決して嫌なものじゃなく、私の背中を押してくれているみたいな優しい静寂だった。
「頭が良くて、人当たりも良くて、誰に対しても優しい。私には無いもの全部持ってるお姉ちゃんがとにかく嫌いで、だったって言ったけどほんとは今でも嫌いで、お父さんやお母さんや周りの人達にちやほやされてるの見るたび自分が惨めで仕方なかった」
言って悲しくなるぐらいのことをつらつら。
私がどれだけちっぽけで弱い人間か改めてわかる言葉は全て自分の内から出てきたもので、それが余計に自身を惨めにしていく。
「わかってる。別にお姉ちゃんが悪いんじゃないって。お姉ちゃんみたいに頭良くなくても、愛想悪くてもそれぐらいわかる。「ちゃんと私を見てよ」って言えずに拗ねてる自分が幼稚なだけなんだって」
返事はなくてもちゃんと聞いてはいてくれている。
姿が見えなくてもそれがわかるのはやっぱり姉妹だからなのかなと、根拠のない確信が持てた。
「でも私他にやりたいこともないしさ、お姉ちゃんと比べられるの嫌だけど、じゃあどう見てほしいかってのが自分の中にはなくて、だから」
押し黙る。ここまで言って躊躇する。
「不出来な私はしばらく出来のいいお姉ちゃんのことが嫌いなんだと思う」
ようやく出た最後の一言はなんとも曖昧で自分勝手で申し訳なくて。
唯一確かな自分らしい思いでもあった。
「だから私に優しくしないで。こんな私じゃどう反応していいのかわからないから」
「……ねぇ、薫」
静かに聞いていたお姉ちゃんが口を開く。
怒ってるのかな。呆れてるかな。
内心ビクビクしていた気持ちは宥めるように呼ばれた名前でほぐされた。
「私も昔は薫のことが嫌いだった」
「えっ……」
嫌いの言葉でギュッと胸が苦しく。
「ううん、嫌いなんてものじゃない。大っ嫌いだった」
昔のことと言われても自分が気付かなかったところで嫌われていたんだとわかるのはやっぱり辛くて、さっき投げかけた言葉がどれだけ鋭利だったのかを思い知らされる。
「私より後に産まれただけなのに何してもちやほやされて「お姉ちゃんなんだから」「お姉ちゃんなんだから」って我慢させられて、勉強頑張っても評価されないし、愛想よくしても見向きもされないし」
今度はお姉ちゃんが溜まっていたものを吐き出していく。
「本当大嫌いだった」
「何度も言わないでよ」
「ごめんね」
かぼそい抗議は不快よりも皮肉じみていてお互い小さく笑う気配がした。
「だから薫中心で回ってる家の中が苦痛で仕方なかった。ここに自分の居場所はないんだって、そんなことばっかり考えてた」
奇しくもそれは今の私が考え悩んでいることで親近感がわいた。
「覚えてる? ほら、薫のわがままで行くことになった水族館」
「覚えてるよ」
むしろお姉ちゃんが覚えていることが意外だった。
「私が「動物園でキリン見たい」って何度言ってもダメだったのに薫の「イルカショー見たい」には二つ返事で行くことになってさ。車に乗ってる間ずっと薫なんてどっかいなくなっちゃえばいいのにって思ってた」
思い返せば確かにあの日のお姉ちゃんはずっと不機嫌にしていた。
「でも本当にいなくなったら心配で仕方なかった。お父さんとお母さんに「待ってなさい」って言われて待ってたけどどんどん不安になって、見つからなかったらどうしよう、このまま一生会えなくなったらどうしようって」
ルカと一緒にいた私を見つけた時のお姉ちゃんのあの顔、言葉。
「気がついたら私も探しに走ってた。うるさいぐらいイルカショーって言ってたから館内アナウンス聞いて絶対あそこだって」
そういうことだったんだと腑に落ちて途端に目頭が熱くなる。
「行ったら丁度出入り口から出てくるの見えて私、嬉しくてホッとしちゃって。怒りたかったのに胸の中ごちゃごちゃして」
駆け寄った時見上げたお姉ちゃんの涙と今自分が流している涙の出所はきっと同じ、嬉しさから。
「そこで初めてあぁ、私本当は薫のこと嫌いじゃなかったんだなって。薫が、妹がいるから私はお姉ちゃんなんだなって、その時思ったの」
私もあの時お姉ちゃんに見つけてもらって初めて自分が妹であること、ほんとの意味で気にかけてくれてる人の存在を知った。
「それからは薫が頼ってくれるお姉ちゃんになろうって頑張って。いつの間にかお父さんとお母さんも私を見てくれるようになって、気づいたらそれが薫の重荷になってた」
ごめんね、と。
それはこっちのセリフで、あの頃から変わらない眼差しに目を背けていたのは他でもない私で、あぁ。
「ねぇ、薫。何かあったらお姉ちゃんに言ってね」
「うん」
「嫌いでもいいから」
「うん」
「雨が止んだらすぐに迎えに行くから」
私もお姉ちゃんのこと、本当は嫌いじゃなかったんだなって気がついて。
「……うん」
正午に差し掛かる駅構内の時計に、ささやかな日の光が降り注ぎ始めた。
「……今思い返すとさ」
「うん」
「勢いだけで計画性全然なかったよね」
「ふふっ、わかる」
横並びで話しながら思い出の景色とは正反対の晴天にお互い笑い合う。
目の前に広がるのはラベンダー畑。
行こうと言い出した日から何年か経って私とルカはようやく北海道に訪れることができた。
「着の身着のまま」
「お金もほとんどなし」
「ホテルの予約もしてない」
「そもそも空港から目的地までの行き方全然調べてなかった」
本当に何もかも足らないづくしで無計画にもほどがある。
思春期特有の思い付きと突発的な行動力で飛び出したあの日と比べて、歳をいくつか重ねて迎えた不備無しの旅行は随分と落ち着いたもののように思えた。
高校時代のちょっとした騒動。
ルカの提案と私の境遇が合わさって起こした家出。
テスト期間真っ只中で決行したそれはお姉ちゃんが駅まで迎えに来たことで終わりとなり私とルカはこっぴどく叱られてしまった。
それでも心が晴れやかでお互いに笑えたのは、あの休憩スペースでの会話全てが当時の私達にとって問題を解決するかけがえのない出来事になってくれたから。
「でも本当にいいの? 私のチケット代カオルのおごりで?」
「いいのいいの。あの時ルカが買ってくれたチケット代も結局うやむやになってたし。これはそのお返しってことで」
学校は私達の事情を、主にルカの事情を鑑みてくれて夏休みの何日かを潰した補習と再テストでお咎めなしにしてくれた。
クラスのみんなから遅れて夏休みに入ったルカは早速おばあちゃんに教えてもらった番号へ電話し、十年ぶりに母親と話すことができた。
あのアカウントはやっぱり母親のもので、自分の娘のようなアカウントを見つけ気にかけていたと教えてくれた。
ラベンダー畑と飛行機チケットの写真を見て会いに行こうとしていたと聞くと「まさかそんなことになってたなんて」と笑っていたらしい。
それから時々電話するようになり、案の定同じ地域に住んでいたこともわかった。
じゃあすぐにでも会いに行けるねと提案した私にルカは首を横に振って。
――どうせ会うならあのラベンダー畑でがいい。
今回の旅行計画を話をしてくれた。
「おーい二人ともーっ!」
今日はそれを決行した日で私は付き添い。
「そろそろ行かないと混んで昼ご飯食べるの遅くなるよーっ!」
お姉ちゃんは私達と、空港で合流したルカの母親を乗せるレンタカーの運転手として同行してくれた。
ルカの母親も娘の計画を聞いてその日が来るのを待ち望んでいた。
空港に着いた姉妹はそこで母娘の再会の場に立ち会い、二泊三日の女四人旅を満喫している。
「……あのさ、カオル」
「うん?」
「ありがとね。あの時一緒に行くって言ってくれて」
正直ルカと違って私の問題はまだ解決までの道のりが長い。
未だに将来どうなりたいとか決まってないし、前よりマシになったとはいえ両親は不出来な私よりお姉ちゃんの方を気にかけている。
「それはこっちのセリフだよ」
けどあの日ルカと話したこと、お姉ちゃんと話したことが親元を離れ一人暮らしを始める勇気とキッカケをくれた。
私をちゃんと見てくれる二人、困った時は助けてくれるルカとお姉ちゃんの存在を教えてくれた。
あの日、ルカの思い付きがあったから。
あの日、ルカの思い付きに乗ったから。
あの日のイルカが、巡り巡って。
今日のラベンダー畑へと導いてくれた。
「ありがとう、ルカ」
「ふふっ、どういたしまして」
私達を呼ぶお姉ちゃんの隣に並んだ母親を見つめるルカの横顔は嬉しそうで、晴れ晴れとしていて。
きっと、多分。
自分も今同じ顔してるんだろうなとわかって。
「じゃあ呼ばれてるし行こうか」
「うん!」
風に乗る華やかな香りを胸いっぱいに吸って。
ルカと一緒に待っている人達の下へ歩き出した。
貴女の幸福を待っている 口一 二三四 @xP__Px
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