二月の大騒動
最悪だ。まだ二月になったばかりなのにもう、今年あった嫌なことワーストワンが決まってしまった。
今日は仕事を十八時きっかりで定時退社し、十九時に由美子と銀時計で合流した。そしてそのまま、居酒屋に行ったのだった。金曜夜の居酒屋だからすごく混んでいたけれど、席だけ予約していたのですんなりと入れた。その日は、私の憂さ晴らしが目的だったので、いつもより飲むペースは早かったと思う。だって一昨日、十年付き合った彼の翔と別れたのだから、それくらいは大目に見てもいいじゃないか。ずーっと喋りっぱなしで、居酒屋には結局、三時間ほど滞在していた。でも、多分というか、絶対、それがいけなかったのだ。油断しすぎていた。
記憶が正しければ、ちょっとフラフラとしながら由美子と別れた。電車にはなんとか乗れたけど、途中で気持ち悪くなって着いた駅のトイレに駆け込だ。それで少しだけ回復したが、胃のむかつきが残っていた。なので、最寄り駅で目の前にあるコンビニに入り、胃薬と水を買って、ついでに明日の朝用のあんぱんを買った。少しの抵抗として、オレンジ色の野菜ジュースも買った。自宅まで歩いていると、ちょうど駅と自宅と真ん中ぐらいにある公園が目に入ってきたので、立ち寄ることにしたのだった。この公園は野球のグランドがあるので、微妙に大きい公園となっている。立ち寄ったのは、夜中に野球がしたくなったわけじゃあない。そこには、住み着いている茶トラの野良猫がいる。その猫のトラちゃん(と、私は勝手にそう呼んでいる)に会いに来たのだ。トラちゃんは、入り口近くのベンチの上で丸まっていた。トラちゃんの隣に腰かけ、右手で背中をゆっくりと撫でて、左手ではスマホを操作していた。明日の天気予報を見て、曇りか……日曜日は晴れだし、洗濯をどうしようかと迷った記憶がある。あとTwitterのTL徘徊。そうこうしていうるうちに、身体の芯が冷えてきた。温かい飲み物は買ってないので、これ以上長居して風邪をひく前にと思い、スマホをカバンにしまった。そして足早に家路に着いた。
私のうろ覚えな記憶はここまでだ。家に帰り、スマホを机の上に置こうとしてカバンの中をあさるも、見つからなかった。この時点でかなり焦ったが、きっと奥の方に隠れているだけだという一縷の望みにかけて、カバンの中身を全部取り出した。が、出てくることはなかった。カバンの内ポケットも、コートのポケットも、ズボンのポケットも全部探したけど、どこにもなかった。酔いも醒めたと同時に、血の気も引いた。
最後に見たのは、確かそう、公園で触った時だったはず。居酒屋のあとに、帰りの電車を調べたからそのときにはまだあった。途中のトイレでは、ハンカチしか出していない。さすがにその時にスマホが落ちたら、酔っていても音でわかる。最寄り駅のコンビニでは、スマホ決済を使った。そして公園での一休み。落としたのは公園で間違いない。思いを確証へと変えた私は、さっきまで着ていたコートをもう一度着なおし、財布だけカバンにいれ小走りで公園へと向かった。
たしか、このベンチだったよね。数十分前に座っていたベンチを見たが、スマホは無かった。ベンチの裏、下、グラウンドをぐるっとまわって他のベンチまで探したが、見つからなかった。どうしよう。誰の連絡先も覚えていないのだ。さっきまで一緒にいた由美子の連絡先もわからない。実家は昨年、固定電話を解約してしまったから、携帯にかけるしかないんだけど……番号なんて覚えていない。勤務先の電話番号だって覚えてない……。そういえばクレジットカードだって登録してある。銀行の口座もアプリ連携してある。スマホは個人情報の宝庫だ。もし悪用されたらと思うと、おそろしいという言葉では言い表せない。それにスマホ自体の転売だってありえる。最新機種ではないけれど、可能性がないとは言い切れない。
落ち込んだ気持ちで交番に向かう。ローテンポな気持ちとは反対に、歩く速度はアップテンポだった。
「こんばんは。どうされましたか」
交番につくと、幸いにも警察官がいた。これでもし巡回中だったら、大人げないけど泣いていたかもしれない。少しだけ運がよかったと自分を慰める。
「あの、スマホが、ないんです……。スマホを、落としてしまって……」
驚くほど弱弱しい声だった。
「分かりました。では遺失届のご記入をお願いします」
「え?ああ、はい。わかりました」
警察官は私みたいな人に慣れているのか、淡々としている。冷静な対応に、焦っていた気持ちが落ち着いていく。私は軽く息を吐くと、住所と名前を書き始めた。
「連絡先は自分の電話番号でいいですよ」
警察官が言う。私が書いているところを見て、先に教えてくれたみたいだった。意外と優しい人なのかもしれない。
「あっ、そうなんですね。ありがとうございます。
私、誰の連絡先も分からなくて困ってたんです」
「ああ。そうなんですね」
やっぱり前言撤回。ちょっと、冷たくない?
「今って、全部スマホの中に情報入っちゃってるじゃないですか。
恥ずかしいんですけど、落としちゃってから気づいて」
終わらせても良かったんだけど、なんとなくムキになって話を続けてしまった。
「そういう人ばかりですよ」
しかし返事はそっけないものだった。さらに言うと、これはフォローの言葉だろうか、はたまたそんなことも気づかなかったのかという非難の言葉だろうか、皆目見当もつかなかった。私は黙ってボールペンを動かす。すると、怒ってる雰囲気が伝わってしまったのか、警察官の方から話しかけてきた。
「ご自宅にパソコンはありますか」
「はい、ありますけど。それがなにか……あっ!」
そこで鈍感な私でも気がついた。そうか、パソコンがあればLINEもTwitterもできるじゃない。親にも、友だちにも、連絡が取れる。思ったより悲観的にならなくても、良かったのかもしれない。
「スマホが無くても、結構なんとかなります。ただ、もしもの場合に備えて、キャリアに紛失の連絡したり、クレジットカードの使用停止をしたり、そういう対策はやっといてください」
「はい。ありがとうございます」
さっきまでの怒りはどこへやら、自然と感謝の言葉が出ていた。
「あと、パソコンのメールアドレスがあれば、見つかった時に直接連絡することもできるので、あればそこの下に書いといてください」
「あっ、はい。わかりました」
そのまま届出の空欄部分を埋めていく。
「ご記入、ありがとうございました。
本人確認ができるものはお持ちですか」
「え、あ、ええと……」
とっさのことに慌てたが、そりゃそうだ。本人じゃない人が届出を出すなんて、どこぞのホラーより怖すぎる。私はガサゴソとカバンの中をあさり、財布から免許証を取り出す。財布だけは持ってきて正解だったと、ひそかに胸を撫で下ろしたのは内緒だ。
「ありがとうございます。確認しますね」
警察官は免許証を受け取ると、遺失届の住所と名前のところを、人さし指でなぞりながら一言一句確認していった。そのまま届出の記入漏れがないか、目視していく。
「あー、公園で落とされたんですね。あそこで失くされる方、多いんですよ」
「どうしてですか?」
そんな、公園で失くす人が多いなんて。一体どういう理由だろうか。
「その公園って、茶トラの猫がいますよね」
「います、います。トラちゃん、あっ、その茶トラの猫なんですけど、私は勝手にトラちゃんって呼んでて。あの……、トラちゃんがどうかしたんですか?」
「あの猫、人が手に持ってる物をなんでも食べ物と勘違いするみたいで、スマホをひったくられる方が多発してるんです」
まさか。トラちゃんは確かに野良猫だけど、そんなに凶暴なところを私は見たことがない。
「私何回もトラちゃんを撫でていますけど、そんなことは一回も無いですよ」
「運がよかったんでしょう。それか、猫の前でスマホを出したことがなかったか。どちらかだと思いますね」
そう言われて、ふと思い出す。確かにトラちゃんの前でスマホを出したのは、今回が初めてだ。でも、スマホは盗られてなんかいない。
「多分、カバンにしまい損ねて、落としてしまったんだと思います」
「なるほど。じゃあ、落としてそのまま、猫が持ってったんでしょう」
「トラちゃんのせいじゃないかも、しれないじゃないですか」
つい非難めいた口調になる。この人はどうしても、トラちゃんのせいにしたいのか。
「いや、猫でしょう。公園で失くしものした方の九割以上が、猫のせいです。スマホにいたっては、百パーセント猫の仕業でした。警察としても、手をこまねいている状況です」
嘘だ。あの可愛いトラちゃんに、そんな一面があるなんて信じたくない。でも、ここで嘘を話す理由もない……。
「挙句にあの猫、落ちてるものを拾って食べる習性もあります」
警察官は日ごろの鬱憤をはらすかのように、猫の暴露話を話した。
私は、返す言葉を失っていた。トラちゃんは誰からも慕われていると思っていた。色んな人から、餌をもらっている姿をよく見かける。野良猫にしては丸々とした体型をしているのが、その証拠だと思う。手に持っている物を食べちゃうってもしかして、住人のせい、なのか?
「猫の住処のどこかに、持ち運ばれてると思うので。スマホ、いつか出てきますよ。たくさんの歯形つきで」
私の思案をよそに、警察官はさらっと爆弾を落としてくる。
「そんなあ」
私は大きく嘆いた。今使ってるスマホカバーは、絵柄を特注した一番のお気に入りなのだ。しかもレザーで少し良いやつ。また作り直すことはできるけれども、ほどよい感じに使い込まれて、手に馴染んできたところだった。色味もちょっと落ちてきたのが、ヴィンテージっぽくてまた好きだった。トラちゃんに噛まれたら、柔らかい革のことだ。さすがにボロボロになってしまうだろう。大丈夫だと思いたいけど、画面だって割れて返ってくるかもしれない。本体ももう四年目だし、買い替えを検討してもいいかもしれない。思わぬ出費を覚悟して、頭を抱えた。
「はい、免許証お返しします。
見つかったら、このパソコンのメールに連絡しますんで」
「……わかりました。」
一仕事を終えた警察官は、まだぼんやりと立っている私が、さも迷惑だと言いたげに「もう帰っていいですよ。」とだけ言うと、奥に引っ込んでしまった。
とぼとぼと交番を出る。今、何時だろうとふと思って、さっそくスマホを探していた。だが無いことに気がついて、普段はしないような舌打ちをしてしまう。スマホが無くても結構大丈夫なんてあいつ言ってけど、もう弊害が出てるじゃないか。さっきの警察官を心の中で、思い切り毒づく。でも、冷静に考えると、そうか。スマホがないと時間の確認すらままならないのか。腕時計をする習慣がない私にとっては、大きな痛手に違いなかった。今週末は出かける用事も特にないけど、少しでも慣れるために腕時計をしておこうと心に誓った。
玄関のドアがいつもより、重たく感じられた。全身、鉛をつけたように重たい。頭もまわっていないし、何も考えられない。
それでも、なんとか色んな手続きだけは行った。スマホを探すという機能をオンにしていなかったので、今どの辺にあるかって探すことすらできなかった。これは私の油断が招いたミスだ。危機管理の無さが露呈している。パソコンにLINEも入れて、由美子と母親と上司にだけは状況を伝えた。すべてが終わると二度目の帰宅から、一時間以上たっていた。
スマホがないだけで、こんなにも心細くなるのか。決して広いとはいえないワンルームが、今夜はやけに広く冷たく見えた。心なしか、蛍光灯もいつもより少しだけ暗く感じられる。半年前に変えたばかりだから、寿命には程遠いはずだけど。ああ、そういえば背の高い翔が、机に乗って交換してくれたっけな。あの頃がはるか遠くに感じられる。背もたれ代わりにしているベッドだって、泊まりに来ることを前提で買ったものだった。セミダブルは一人ではちょっと大きい。この机も、二人でご飯を食べる前提で買ったもの。キッチンには洗い終わった食器が二枚ずつ、置かれていた。もう、翔はいないんだ。寂しさを紛らわすため、冷蔵庫からチューハイを取り出した。そのときに、甘ったるいジュースのペットボトルが二、三本目に入ったが、それは見なかったことにした。プルタブを引く。プシュッと気が抜けた小気味いい音がする。静寂がやけに気になって、テレビを点けると、ちょうど二人でよく見ていた深夜番組がやっていた。翔……。ぽとっと一粒、雫がしたたる。空虚な気持ちは、居酒屋で騒いだだけでは埋められなかった。
閉じ忘れたカーテンから、日の光が差し込んでいた。ちょうど顔に当たっており、眩しくて目がさめた。天気予報では曇のはずだったが、はずれたみたいだ。机の上には、半分ほど飲み干したチューハイが残っていた。それを一気に飲み干す。炭酸は抜けて、ねっとりと絡みつくような甘さだけが、口に広がる。とても美味しいとは言えない味だが、今はこれくらいがちょうど良かった。消し忘れたテレビでは、お昼時の番組が流れていた。これもよく、朝寝坊した二人で見ていた。また泣きそうになるのを、今度はぐっとこらえた。この部屋には思い出が多すぎる。なにもかもが翔との、大切な思い出だった。
一応パソコンのメールを確認してみるも、連絡は入っていなかった。さすがに昨日の今日では、まだ見つからないか。さて、今日一日、どう過ごそうか。
結局、部屋の模様替えをすることにした。晴れていたので洗濯をして、その後ニトリで、カーテンとカーペットと枕カバーと布団カバーを買ってきた。これだけで日は傾いてきていたが、気にせずに模様替えを始めた。机を窓の下に動かす。そのまま窓をあける。キンと冷えた冷気が、部屋の中に遠慮せず入ってくる。思わず身震いし、脱いだままになっていたダウンジャケットを、もう一度着なおした。キュッと首までチャックを閉めると、まずは、45Lの可燃ごみの袋を持って、カーテンとカーペットを無理矢理つめこんだ。カーテンは薄い緑の地に、細く白のストライプが縦に入っている。カーペットはカーテンと同じような色味一色だけのシンプルなものだ。緑色が好きな翔と、淡い色が好きな私の、お互いの折衷案で買ったものだった。別れてしまった今では、こんな一番目立つものなんて見たくもない。私のザワザワした心が伝わっているかのように、風がときおり強く吹く。これでは新しいカーテンが付けにくい。換気をしながら行いたかったが、仕方がなく窓は閉めた。なにも障害がないので、順調にカーテンを取り付けていく。新しいカーテンは無地のベージュ色にした。カーペットもだ。変に色がついているのが、なんだか嫌だった。シンプルなものを見て、落ち着きたかったのだろう。終わったときには、もう、日が落ちていた。取り付けたばかりのカーテンを真ん中できちっと閉める。ちなみにカーペットの方は秒で終わった。袋から取り出して、ブワっと広げてボンと置けばいいだけだからだ。あとは重石として移動させていた机を、ど真ん中に置く。完成。これだけでも、だいぶ部屋の印象が変わったような気がした。ちょっぴり満足していると、ちょうどぐうぅとお腹が鳴った。時刻は七時近くになっていた。本当は週末、カレーにしようと考えていたけれど、作る気がわかず、カップラーメンにした。あぐらをかいて、ラーメンをすすりながら、メールのチェックをする。もしカップ麺をこぼしたら……とかは一切考えていない。こぼれてしまったら、私への連絡手段がなくなるだろう。そうしたら、新しいスマホを買いに行くことが、明日の予定となる。それはそれでいい。どう過ごそうか考えなくて済むからだ。メールは、他愛のないDMだけが目についた。すぐにタブを消し、LINEを立ち上げる。由美子の気遣いと、母親からの心配の声が届いていた。上司は見ていないようで、既読すらなっていなかった。二人に簡単に返事をして、私はパソコンを閉じた。日課となっていたSNSの徘徊は、していない。そのせいか、時間の経過が遅く感じられた。スマホを失くしてから一日経とうとするが、一日も無いとさすがに慣れるものだ。本当は布団周りのカバーも変えたかったけど、一息ついてしまうとスイッチが切れたようだ、眠気に任せてベッドへ足を運んだのだった。
日曜日は早く目がさめたので、シャワーをさっと浴び、ゆったりとした雰囲気で朝食を食べた。テレビはつけなかった。どこに地雷が潜んでいるか、わからないからだ。午前のうちに、昨日できなかった枕カバーと布団カバーの交換をした。ちなみにベッド周辺はブルーで統一しているので、カバーも青みがかったやつだ。これは私のこだわりなので、別に変える理由はなかったが、変えない理由もなかった。午後は、据え置きのテレビゲームを遊んで過ごした。久しぶりにログインした島では、ゴキブリが出現していた。まあ、多少のことは、仕方ない。あと、寝ぐせヘアを手に入れた。不名誉ではあるが、ヘアスタイルが増えること自体は喜ばしい。複雑な気持ちだ。今のゲームは放置されることを前提で作られてるのか、雑草は思ったよりも増えていなかった。住民に忘れられたり、引っ越したりするような悲しいイベントも覚悟していただけに、無いとなるとちょっと拍子抜けをしたぐらいだった。理想の島づくりにむけて、再び資金集めに夢中になると時間はあっという間に過ぎた。明かりをつけるためにゲームを中断したが、キリもいいしここらで今日は終わりとする。とはいえ、まだ六時前なので、今からは昨日できなかったカレー作りのリベンジだ。一口大にカットした野菜を鍋に入れ、じっくりコトコトと二十分煮る。頃合いをみてルーを入れて全部溶けきったら、隠し味にコーヒーをスプーン一杯ほど投入。他の隠し味としては、しょうゆやソース、チョコレートなどを使う時もあるけれど、今日の気分はコーヒー一択。しょうゆやソースでもコクは出るが、コーヒーはそれに加えて少し大人な味になる気がした。気持ちの問題かもしれないけれど、今はそういうものの大事だった。昨日と同じく、食事のタイミングでパソコンを起動する。メールには今日も、DMばかり届いていた。どのメッセージも開かずに、LINEに移る。今日は上司からの連絡が増えていた。それぞれに連絡を返して、すぐにパソコンの電源を切る。二日あればもしかして……と、少し期待をしていたがために、落胆を隠せなかった。はあ、と一息吐くと、ぱたんとパソコンを閉じた。大きく伸びをした。さすがにこのままずっと、スマホがないというのはマズイだろう。マジで購入も視野に入れなければ。
……と思っていたが、仕事では予想外に、スマホを使わないということに気がついた。あれ、買わなくてもいいんじゃない?ひょっこりとそんな意見が顔を出す。だから、もうちょっとだけ、待ってみることにした。幸か不幸か、一度承認がおりたものが会議で急にボツになり、返ってきてしまったものがあった。週末までに練り直して再提出と言われてしまったので、対応に追われており、まったくスマホを買いに行ける状況じゃあなかった。金曜の九時ごろになんとか滑り込みで提出して、くたくただった。あー、ビールを一杯やりてえな。そうだ、こういうときは由美子に連絡してみよ……まで流れるように考えて、できないんだったと思い出す。仕事ではそんなに必要ないかもしれないけど、プライベートでは支障しかないので、明日中にスマホショップへと行くことにした。ちなみに今日はコンビニでクリームパンを買った。
土曜の朝にメールの受信箱を開き、警察からの連絡がないことを確認して、とうとうおニューのスマホを買った。スマホカバーはショップに売っているやつを貯まっていたポイントで買った。どうやら落としてから、こだわりが無くなってしまったらしい。新品のスマホは、何も入っていなくて、なんとなく軽い気がした。直近の思い出は消えてしまったけど、いつまでも縛られているわけにはいかない。強制的に気持ちの切り替えができて、もの悲しさはあれど、すっきりとした気分だった。
スマホを買ってから明日で三週間という金曜日。なんだかんだと仕事は忙しくて、週末は引きこもっていたが、それなりにお一人様ライフを楽しんでいた。仕事も終わり、週末に引きこもるための食糧を、例に漏れず最寄り駅のコンビニで買いこむ。本日の成果は赤ワインを一本にチーカマ、チータラ、柿の種。二日分の朝、昼用にメロンパン、カレーパン、焼きそばパン、チョコチップクリームパンを買った。甘じょっぱいコンビは王道の組み合わせだろう。サラダとかはめんどくさいから、夜に取る。多分。
帰り道を歩いていると、酔っぱらいながら帰ったのがひと月前なんだと、思いかえされた。なぜそんなことを思い出したのかわからない。誰かに頼りたくなったのかもしれない。それに、今日はなんだか胸騒ぎがした。公園に近づくにつれて、空気がいつもと違う感じがする。どう、違うかとは、うまく言い表せないのだけど、ざわざわと気が立つような空気だった。異常は遠くからでもよく見えた。あの公園の入り口に、見覚えのないものが置いてある。そして、見渡しがいいので、遠目でも、それがなんなのか判別をつけることは容易だった。公衆電話だ。透明なアクリル板で作られた長方形の箱の中に、緑色のものがどんと見える。それと認識するより前に、視界には公衆電話が映っていたはずだった。だから、そわそわしていたのかもしれない。そう思うと、緊張がほどけた。こんな時代に新しい公衆電話なんてできるものかー、とのんきな考えまで浮かんだ。公衆電話なんて、かれこれ何十年と使っていない。むかーしむかしの小さいころに、一人で祖父母の家に行ったとき、乗る電車が分からなくなって、親に電話をかけたのが最後の記憶だ。それ以来、意識すらしていなかった。今はどんな風になっているのだろう。あの頃と変わっているところはあるのだろうか。……家に帰っても予定はない。ちょっとくらい新品の公衆電話を物色しても、なにも問題はあるまい。それに前回は駅の公衆電話を使ったから、実のところ電話ボックスに入るのは初めてだった。扉を開けてそっと入ってみる。狭そうだと常々思っていたけれど、想像していたよりも狭い。リュックサックとか背負ってる人だと身動き取れないだろうなあ、とぼんやり思った。天井も低くて、自然と息が詰まる。お目当ての電話は、見たことがない仕様になっていた。受話器はあるものの、数字のボタンがないのだ。その代わりに赤いボタンがはまっている。数字がないのにどうやって、相手にかけるのだろうか?それに、お金を投入するところもないではないか。初めての形に、私はすっかり参ってしまった。最新の公衆電話は、私には使えそうにない。旧型、というか従来の電話は最寄り駅にあったかしら……と、その場で急にもしものことを考え始める。たしか二番出口のあったはずだとあたりをつけ、自分の中で納得をしたので、現実に戻ってきた。他にめぼしいものもないので、もうここには用がない。そそくさと出て、後ろ手で扉を閉める。カバンをぎゅっと持ち直して歩き出そうとした。しかし、歩き始めることはできなかった。無言だったはずの公衆電話が、けたましく鳴り響いたからだ。これは今すぐボックスの中に戻ってでるべきか、聞かなかったことにして帰るべきか。逡巡していると、風が首筋をなぞった。もうすぐ三月になるというのに、夜は寒さが変わらない。電話はまだ鳴り止みそうにない。私はふうっと白い息を吐きだし、電話ボックスの中に戻った。
「もし、もし?」
やる気のない声が空間に響く。私の想像以上に、私自身は電話に出たくなかったらしいが、すぐに、「あっ!もしもし?俺、俺だよ」と返答があった。オレオレ詐欺の典型文で返事をしてきた相手は、翔だった。翔とは名乗らなくても分かるほどに、連絡を交わしている。声質や抑揚、息づかい、翔の全てが染みこんでいる私が、ひと月あいたくらいで翔の声を間違えるはずがない。まあ、今更なんの用事かわからないけど。
「良かった、ようやく繋がった。今週ずっとかけてるのに電波の届かないところにありますって言われるし、SNSはブロックされてるし、もうダメかと思ってた。でもほんと繋がって良かったよ。元気だった?寒い日も多かったし、風邪ひいてない?俺はこの前鍋作ったよ……」
「翔」
私はまだ続きそうな言葉を意図的に、少し意地悪に遮る。
「ん、何?っていうか、ごめん、ほんと色々とごめん」
「いや、うん、そうだけど、そうなんだけど。これどこからかけてんの?私スマホ落として、今、公衆電話から出てんだけど」
「え」
「え」
「えぇ?」
「ねえ、聞いてんのこっちなんだけど」
「う、ああ、ごめん。そんな怒るなよ。ちょっと、いやだいぶびっくりしちゃって。その、スマホ落としたって、本当か?俺これ、今、自分のスマホから、普通にかけてるんだけど」
「そうなの?」
翔のスマホから、私がいるこの公衆電話に、よくピンポイントでかかってきたもんだ。
「ほんとだよ。あっ、でも、そういえばかかる前にノイズがあったかなあ。もしかして、それで繋がったのかも」
「そんなことで、ここにかかるもん?電話の仕組み、よく分からんから、あんま言えんけど」
「これ、もしかして……」
「何?」
「掲示板に書いてあったやつかも」
「なにそれ詳しく」
「もちろん、お任せあれ。わりと最近なんだけど、この世には話したい人や物と電話ができる物があるらしくて。それが公衆電話みたいなもので、急に現れて、役目が終わると消えるって書いてあった。会話できる時間は五分って決まってるみたい。相手は人じゃなくてもいいんだって。花とか、中には宇宙人と話したってやつもいたけど、それはさすがに作り話だと思うが。とにかく、この状況って、まさに書いてあった通りなんだよ」
「……うん。すごい、同じところがいっぱい」
「もしかして、赤いボタンある?」
「ある!やだ、怖くなってきた。これ話した人って最後死んじゃったりしない?」
「そこまでは分からないけど……掲示板ではただ、会話ができたってことしか書いてなかったよ」
「じゃあ、これがもし、その掲示板で書いてあったやつだとして。翔からかかってきたってことは、なにかあったの。その、かけないといけないようなこと」
「そうだよ!ほんとに大事なこと忘れるところだった!
まずはごめん。勝手な言い分なんだけど、この前は別れたいとか言ってごめん。撤回したい。俺、四月から海外転勤が決まって、ついてくるにしても聡美も仕事頑張ってて、今年は昇進が決まりそうって言ってたから断ち切ることになっちゃうし、かといって遠距離でも俺たちいい年だし、それに数年で帰ってくるかもしれないし、何十年といるかもしれないし、先が見えなくて、それでついあんな一方的なことを。ほんとは相談すれば良かったんだ。別れるって話は二人で話して決めればよかったのに。ごめんですまないけど、もう一度、俺と話してくれないかな」
「……あんた、バカだよね?」
「そう思う」
「ほんとに、もう」
そのあとは言葉にならなかった。代わりに嗚咽となって押し出される。
「ごめん、ほんとにごめん。ごめんって言うことしかできなくてごめん。今、公園なんだよね。今からダッシュでむかうから。中で待ってて」
来なくていいよ、と言いたかったが、電話はすでに切れた後だった。こういう少し身勝手なところがなんだか子供っぽくて、好きだった。一つ自覚してしまうと、押し殺していた感情が堰を切ったようにあふれ出す。それは翔が駆けてくるまで、止まることはなかった。
久しぶりに、我が家に客人がいる。こんなことになるとは思わなかったので、洗濯物が散乱していたけど、なんとか一塊にしていた。ゴミはたまたま昨日のうちに捨てておいてよかった。翔はカーテンやカーペットを見ては落ち着かなさそうにしているが、これはそのうちに慣れるだろう。慣れるころには海外だけれども。今はお互い無言の時間を過ごしていた。今までは無言でも気まずいと思ったことはなかったが、今日は耐えきれなくなってテレビをつけた。ゲーム以外でテレビをつけるのも久しぶりの感覚だった。あの後、ひとしきり泣いて落ち着いてから、一緒に私の家に帰った。しっかりと話を聞き、ひとまず別れ話は無かったことにした。そのことにより、SNSのブロックは解除となった。
「カーペット、変えたんだね」
「そう。シンプルでいいでしょ」
「うん」
会話が付き合いたての頃のようにぎこちない。翔は泊っていくつもりらしかった。そのうちにこの気まずさも無くなるだろう。
「先、お風呂入ってきてもいい?」
「いいよ」
少しだけ長風呂をしてあがると、翔は寝ていた。ブランケットをかけて、電気を薄暗くする。洗面所で全てを終わらせると、私もそっとブランケットに入った。
これは後日談だけど。私のスマホはあっけなく返ってきた。近くのマンションの植え込みにあったところを、清掃の人が発見してくれた。犯人は警察官の読み通り、トラちゃんだった。その証拠に、歯形とよだれと土まみれになって、私の手元に戻ってきた。革のケースは使い物にならなくなっていたし、画面はバキバキだったけどなんとか同期はできたので、写真だけ移行して処分した。翔は現在アメリカにいる。多少言語の壁があったものの、すぐに打ち解けて楽しく暮らしているみたいだった。仲のいい同僚と、昨日は顔より大きいハンバーガーを食べに行ったと写真が来たばかりだ。私も昇進し、相変わらず忙しくしている。二人のこれからのことは分からないけれど、時期が来たらまた関係性も動くでしょう。
エビバデセイエイ 美空重美 @s_misora
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