🔳16話

 翌日、少年はオリヴィアに連れられて王城の中庭まで来ていた。

 どこまでも続く青々と茂った芝生。

 太陽の光を反射してキラキラと光る小川を模した水路。

 石造りの歩道で区画が分かれており、それぞれに違った種類の花々が鮮やかに咲き誇っている。

 小高い丘にはガゼボが建っていて、その中に備え付けられているテーブルで庭を一望できるようになっている。

 少年はこんなに美しい光景を見たことがなかった。その感情もわからぬまま呆然としていた。

「自慢の庭なの。気に入った?」

「……よくわからない。でも嫌な感じじゃない」

「そう。嫌じゃないのは良いことね」

 オリヴィアがにかっと笑ってみせた。


「今日は合わせたい子がいるのよ」

 ガゼボに向かっている途中で言ってくる。しかし目的の場所に到着したがそこには誰の姿もなかった。

「あら? ここで待っててって言っといたのに」

 あれは……?

 少年は近くの植木の裏に人影を見つける。その視線に気付いたオリヴィアが大きくため息をついた。

「こーら。見つけたぞっと」

 忍び足で近づいた彼女が手を伸ばし、植木の後ろから人影の首根っこを摘まみあげた。

 そこにいたのは少年と同じくらいの背格好をした女の子だった。

「この子はミラ。私の娘なの。あなた、たしか七歳よね。それなら同い年ね」

「わ。わ。わわ……っ」

 ミラと呼ばれた女の子が慌ててオリヴィアの後ろへと隠れる。

「ごめんねぇ……この子ったらホント人見知りで。私や旦那――あ、陛下のことね、以外はいつもこうなっちゃうの」

「……」

 少年が視線を送ると、ミラは少し覗かせていた顔をまるでかたつむりのツノのように引っ込めてしまう。

「……俺も人は苦手だ」

「ふぇ? ……あなたも?」

 ひょこり。

 また顔を出したミラがおずおずと尋ねてくる。

「うん」

「そ、そうなんだ。いっしょなんだね」

 少年が首肯するとなぜか嬉しそうにしていた。そんなミラの頭をオリヴィアが優しく撫でる。

 そしてひとつ咳ばらいをしてみせてから、

「えーここで報告があります。ミラ、今日からこの子はあなたの付き人になりまーすっ」

 少年を両手で仰ぎながらそう言った。

「「え……?」」

 少年とミラが同時に首を傾げる。

「付き人……わたしの?」

「いえーす」

「俺、何も聞いてないんだけど」

「言ってないからね」

 びしっと親指を突き上げるオリヴィア。そんな彼女に少年とミラは顔を見合わせて瞬きを繰り返すことしかできなかった。

「でも付き人って……。俺、何したらいいかわからないんだけど?」

「適当でいいのよ、適当で。こんなの取ってつけたようなものだしね」

 いくら一般常識に欠けている少年でも今のオリヴィアの発言が真っ当な大人のものでないことくらい何となくわかる。

 ……なんだ、これは?

 状況が把握できないでいた少年にミラが歩み寄ってくる。チラチラとこちらの様子を窺いながら尋ねてきた。

「……あの、あなたお名前は?」

「名前――」

 少年は言葉に詰まる。

 そう、彼はスラム街で奴隷商に飼われていたときも、研究所で実験台になっていたときも、名前で呼ばれたことなんてなかった。“隠し刃”という通り名があったが今の彼はそれをまだ知らないし、そんなものは名前ではない。

「………………あちゃー。そりゃこういうことになるか、失敗した」

 ミラの後ろでオリヴィアが苦虫を噛み潰したような表情で額に手を当てている。

「……わからない」

「……? もしかしておぼえてないの?」

「いや、たぶんないんだと思う」

 かなり込み入った事情だ。大人であれば別の話題に替えてお茶を濁すような場面である。

 しかし良くも悪くも子どもには常識が通用しないことがある。

「じゃあわたしがつけてあげよっか」

 ミラが意外な提案をしてきた。

「君が……?」

 少年はそんなことを言われたのは初めてだった。どうしたらいいのかわからないでいた少年を余所に、ミラは腕組みしながら「うーん」と頭を捻っている。

「そうね、“セムラ”なんてどうかしら?」

 そして、そう言ってきた。

 このセムラというのは聖ルマディナル王国が発祥の伝統的なお菓子だ。甘みのあるパンをふたつに切って、その間に生クリームをふんだんに挟んだものになる。

「セラム……」

「そう。わたしの大好きおかしなのっ。そのまま食べてもいいんだけどホットミルクにひたすのもおすすめなのっ」

 なにやら力説し始める娘の頭をオリヴィアが苦笑しながら優しく撫でた。

「いくら好きだからってお菓子の名前を付けるなんてこの子は……。でもそうね、じゃあ“セラフィム”っていうのはどうかしら」

「セラフィム?」

 ミラがきょとんとしながら繰り返す。

「そう。“人”という意味よ。あなたの提案した“セムラ”に“フィム”。合わせてセラフィム」

「セラ……フィム……」

 少年は自分で口ずさんでみる。

「そう。あなたはどう思う?」

「……嫌じゃない、かな」

 ミラが興奮した様子で両手を取ってくる。

「じゃあセラフィムで決まりねっ。すてきすてきっ。とってもすてきな名前ね、セラフィムっ」


 七歳にして少年――セラフィムは生まれて初めて自分の名前を得た。


 掛け替えのないふたりにつけてもらった大切な名前を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る