第十二話 我慢しない!(4)
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力になれなかったことを詫びながら、風歌は店をあとにした。
霧の幸せを願う父と祖母。
その二人を思う霧。
どちらの優しさも風歌には痛いほど理解できた。小遣いの額で揉めたように互いの思いが衝突し、結果、今回は双方とも身動きがとれなくなってしまったのだ。
風歌自身、自分を押し殺して両親にカウンター自粛の旨を告げ、安心してくれるよう図ったではないか。まして霧の場合、すでに親に累が及んでしまっている。また、世間にも学校にも、霧のほうが敵は多い。
引き籠もるという霧の選択を、霧の家族と同様に、今は辛抱して見守るしかないのだと自分に言い聞かせながら、風歌は駅への道をとぼとぼと歩いていた。
どの街路樹か民家の庭木からか、周囲では相変わらず蝉が激しく鳴いていた。風歌も声を張り上げたい気分だった。しかし仮に人目がなかったところで、やはり口をつぐんだままだったろう。何に対して何と訴えるのが最適か、どうにも言葉を選びきれなかったからだ。本能の赴くまま意味のない音を叫ぶならともかく、理性的であろうと努めれば、どのような理屈を用意したところで、あちらを立てればこちらが立たずとなってしまい、矛盾のぬかるみに陥るのは目に見えていた。
「アー! ギャー!」
道の真ん中で泣き叫んでいる子供がいた。タイルの上に仰向けで寝転がり、手足をじたばたさせている。
ちょうど玩具店の前だった。花火セットやら水鉄砲やらが、数台のワゴンにてんこ盛りで陳列されている。「処分セール」「特価」などと書かれたポップが何本も立っていた。ただ、それらの文言に特に触発されたわけではないだろう。子は、仮名すら読めるかどうかといった年頃だったからだ。
「もう! 置いてっちゃうよ!」
そばで、両手に買い物袋を提げた女性が声を荒らげていた。
「今日は買わないって約束したでしょ!」
「約束してないもん」
「嘘おっしゃい! 平気で嘘つくし」
きっと毎度のことなのだろう。女性の慣れた感じと苛立ちとが、風歌にもよく伝わってくる。
「悪い子! 車に轢かれても知らないからね!」
そう、いい子だから早く起き上がろうねと心でなだめつつ、風歌のほうが幼児を軽くよけ、そのまま通り過ぎようとした。
「お誕生日まで我慢なさい!」
「我慢やだ!」
風歌の後ろ髪が波立つ。同時に足が少し遅くなった。
「わがまま言わないの!」
「買って買って!」
「ダメって言ったらダメ!」
「ダメちがうもん!」
二人のやりとりが耳に飛び込むたび、なぜかこちらの足が重くなる。
「自分のことばっかり! 買っても荷物になるでしょ。お母さん、これ以上持てないよ。少しは相手を思いやったらどうなの」
「思いやりイヤ!」
ピクリ。
足が、引きつったように止まった。
「意地悪ばかり言ってると、お誕生日に買ってあげないから!」
「買って! お誕生日も買ってー」
「も? もって……二回買うの?」
「二回買う!」
風歌の口からつい笑みがこぼれた。憑き物が落ちたように再び足が軽くなり、前へ一歩二歩と踏み出す。一方、他人事でない母親のほうは、笑いよりも完全に呆れ返っていた。
「なんでそんなに欲望に忠実なの! 我慢しないとストレスなくていいね!」
「いいでしょ? 我慢しない!」
「幸せな人生送れそう!」
反転。
風歌の身が翻る。何歩めかに上げた足は後ろのタイルを踏みしめていた。
「我慢しない! 買ってー!」
幼児が一段と大きな声で訴える中、風歌は来た道を全力で駆け戻っていた。
そうだ、今の霧は不幸だ。
走りながら思い出す。
霧の肩は震えていたではないか。
霧の声には悔しさがにじみ出ていたではないか。
それを間近で目にしておきながら、自分は何を悟ったふうにその場を離れてしまったのか。つかみかけた手を離してしまったのか。
今すぐ戻って、独り沈みゆく霧を引きずり上げてやりたい。
それにしても――とも、ふと思ってしまう。
霧と知り合ってから、自分は走ってばかりいる。
そんな気がする。
最初は校門前でビラ配りする霧から逃げるために。
次に生徒会長選挙の応援演説で校内を駆け回り。
それからカウンターの一人としてヘイターたちを追いかけ回すようになって。
そして今、霧を取り戻すために走っている。
「ふざけんな! ふざけんな! ふざけんな!」
心の中で風歌は幾度もそう叫んだ。頭上からは、蝉の声がいよいよ激しく、全身を打つように降り注いでいる。
彼方の空を追いかけながら、風歌は額からしたたる汗を腕で拭った。
「わたしをしんどい道に引きずり込んでおいて! そのくせ、自分は辛くなったから逃げるって? ふざけんな! あんただけ楽になんてさせないんだから! だから、あんたのしんどさも、少しはこっちに回しなよ……」
店に飛び込むように戻ってきた風歌を、文彰が驚きのまなざしで見つめた。
風歌は有無を言わさず、一方的に通告した。
「お邪魔します!」
祖母がニコニコと見守る中、靴を脱ぎ、荷物を置き、廊下を通って階段を上る。
ガッとふすまを開け放った。
いぐさの香る六畳和室だった。
ベッドはなく、布団が隅できれいに畳まれている。ただ、反対側の隅にある机は洋風で、椅子に座るスタイルだ。その机に、霧が教科書とノートを開きながら向かっていた。
「いい子すぎる!」
壁の上にはエアコンも確認できたが、部屋の内外で温度差はない。スイッチは入っていないらしい。その代わり、年代物の扇風機がうなりながら首をゆっくりと振っている。
霧も首を振り上げた。
「沢本? 帰ったんじゃ?」
「学校やめるって言っときながら勉強?」
「知識は生涯の糧だから」
「欲望に忠実になりなよ」
「だから勉強してる」
「嘘おっしゃい!」
「嘘おっしゃい?」
「じゃあ、なんでそんなに泣き顔なの!」
「泣いてなんか……」
霧が確認するように指で目もとをぬぐう。
「うん、泣いてない」
泣いていなかった。
「泣いてないよ! 泣いてるなんて言ってない!」
風歌は近づき、机の上の教科書を取り上げた。
「泣きそうな顔してるって言ってるの! いつもいつも」
奪った物を高々と頭上へ掲げる。
「何をする。返せ」
「泣きたいなら泣けばいいじゃない。あんた、いっつも泣かない」
「どっちだよ。泣くなと言っているのか、泣けと言っているのか」
「泣きたいのに泣きもせず、したいこともしないで我慢して、周りに気を遣ってばかりいて……。それが見ていてイライラするって言ってんの」
「今、初めて言った」
「初めて会ったときからよ! あんたにはずっとムカついてたんだから。高慢ちきで、いつも人を小馬鹿にして、そのくせ、言い返したくても完璧で隙がなくて。しかも、こっちが少しでも怠けてると後ろめたくなるくらい頑張り屋で……」
「お褒めにあずかり恐縮です」
「褒めてない! おかげで息が詰まる!」
「理不尽だ」
「遠埜! あんたはね、もっと自分を甘やかさなきゃなの。商売が大事? 大切な人を苦しめる? 大人のフリしたお利口な理屈なんて知んないよ。そんなの後回し。まず一番は、自分が幸せになること。ならなくてどうする」
「お、日本国憲法第十三条」
霧がシャープペンシルの先をこちらに向けた。
「あー、それそれ。憲法ね、憲法」
「違ったか。違うな。よく考えたら、ぜんぜん十三条と違う」
「ケンポーって言ってるでしょ! ほわちゃあっ!」
今度は、ペンも横から叩くように奪い取る。
「返せよ」
霧が腕を伸ばしてきた。
風歌はペンも高く掲げ、霧に取り返されまいとした。教科書を持つ手と合わせ、ちょうど万歳のような体勢となる。
「返したら、またストレスため込む生活続けるんでしょ」
「君の言動がストレス」
「その毒舌! いつも小出しにして。しっかり毒を吐き出さないから!」
「言ったな。じゃあ、遠慮なく吐かせてもらうが――」
霧が立ち上がり、かぶさるように上体を寄せてきた。
風歌は身を反らし、後ずさりした。
「な、何よ……」
「イライラはこっちだ」
退いた分、霧が詰め寄ってくる。
「君の物覚えが悪いのは能力だから仕方がないにせよ、学ぶ意欲自体が乏しいのはどういうわけだ。馬鹿が勉強しなかったら馬鹿のままだろうが。軽音部なんかにうつつを抜かしていられる身の上か」
「軽音部は悪くないでしょ! この前のライブどれだけ盛り上がったかも知んないくせに、音楽を馬鹿にするな!」
「ライブしたこと自体、初耳だ。……どうでもいい。君がライブをしようと甲子園に出場しようと、こちらには何の影響もないからな。よって、そういうものを馬鹿にするつもりもない。するだけ無駄なので。ボクはただただ、君自身が馬鹿なのを嘆いているだけだ。もっとも、馬鹿は馬鹿でも――」
「何回も馬鹿馬鹿って……。そんなの、成績優秀なあんたから見たら、みんな馬鹿だしぃー……」
風歌はさらに下がり続けた。
「聞けよ」
そのたびに霧も迫ってくる。広くもない室内を、二人は輪を描くように動き続けた。
「それでも、君は珍しい髪の持ち主だから利用価値があると、こっちは期待して近づいたのに、役に立ったのは生徒会選挙の時くらいだ。そもそも何なんだ、その黒髪。せっかく校則を変えて素のままでいられる環境を整えてやったのに、一体いつまで無駄に染めている。親切を無下にされることほど腹立たしいことはない」
「なっ? そんなこと思って……? まじムカつく! あんたと知り合ってから、わたしを見る周りの目まで何だかキラキラするようになって正直悪くない気分だったのに、そっちはそんなこと……!」
「またまた努力もせず、ボクのおこぼれにあずかってたってか。図々しい奴め。こっちは懸命に努力して評価を勝ち取っているんだぞ」
「その顔は生まれ持ったものでしょうが。自分が頑張ったみたいに言うな」
「容姿を自慢したことはない」
「あるでしょ」
「ないよ」
「苦労はしてないでしょ。それだけで特権なの」
「ふむ……多少の苦労はあるが、美を渇望する人たちのそれとは比較にならないだろうな。しっかりチヤホヤもされているし」
「チッ」
「だから、持てる者の義務として世のために活用しなくちゃならないんだ。そして、そうしてきた。美男美女の声はよく届くからな」
「嫌味な奴!」
「嫌味でけっこう。君ごときにどう思われようと何も堪えん」
「ホントに見下して……! こっちはあんたのこと、友達じゃないこともないかなって、このごろちょっと思うようにもなってきてたのに」
「ボクのそばでいい思いしてただけだろ。さっき自分で言ったばかりじゃないか」
「どっちもあるの! どっちも本当! あんた友達かもって……」
「ふん、友達ねえ。そもそもボクにそんなのは要らない。使えるか使えないかだ。でなきゃ救えるか救えないかだ。君は使えないし、救えてもいない」
「ひどい! もしかして生徒会のみんなもそんなふうに見て? 友達じゃないって」
「仕事仲間だ。友達じゃあないな」
「なら、あんたのファン。あんた囲んでキャーキャーはしゃぐ子たちは?」
「また自分で言ってる。……ファンだよ」
「真子ちゃん、あま姉、あゆ姉」
「後輩、先輩、先輩のパートナー」
「あんたのお父さん、お婆ちゃん」
「それこそ友達のはずない。家族だろ」
「そうか」
「やはり馬鹿だな」
「あっ」
風歌は後退しつつも顔を上げた。
「家族って、友達以上でしょうが!」
「ん?」
「馬鹿はあんた! 知ってる? あんたのお父さん、今のあんたを見て、ぜんぜん嬉しそうじゃなかった」
「それは仕方――」
「ないって? 誰も望んでないのに! ――きゃっ」
力みすぎたか、風歌は畳の目に沿って足を滑らせてしまった。弾みで霧のスネを蹴飛ばしつつ、背中から布団に倒れ込む。
霧もあっと声を上げ、風歌の上に倒れてきた。
衝突。風歌は下敷きとなる。
「ぐえっ」
「よくも蹴ったな」
「そっちこそ体当たり」
「君が蹴ったからだろ」
「あんたが悪いんでしょ」
「暴力を振るっておいて人のせいか」
霧が上体を起こそうとした。ただ、支えにした両腕が布団に沈み込んだため、二人の顔はさほど離れない。それを良いことに、風歌は右手に持つ教科書で霧の後頭部をパシパシとはたいた。
「暴力って何よ」
「君が今していることだ」
霧が左手で風歌の右上腕を押さえ、体重を乗せてくる。
おかげで風歌は教科書を動かせなくなった。これで自由な四肢はペンを持つ手だけとなる。
その手を、わなわなと震わせながら霧の目もとに寄せていった。
「ペンはよせ! しゃれにならない」
「お尻のほうだからいいでしょ!」
「いいものか!」
丸いペン尻を霧の頬に当て、ぐりぐりとこねるように押しつけてやる。
「イタタ……やっぱりけっこう痛い」
「ウリウリ」
さらにこねくり回す。
「調子に乗るな!」
霧が顔を横に回し、ペンを後方に受け流した。
そのまま今度は自分の番とばかり、反撃の二指を伸ばしてくる。
風歌は鼻をつままれた。
「ふんがっ! あんたこほ暴力!」
「鼻の肉の厚みを測ってやってるだけだ」
「こりゃどうも! 結果はどうでふかあ!」
「正常の範囲! ヨシ!」
「ちょ……意味わかんないんでふけど……!」
風歌もペンを捨て、五指で霧の両頬を鷲づかみにする。霧の上下の唇が左右からの圧力で盛り上がった。
「ちゃんと口とがる! 異常なひ! 人間の顔!」
「検査感謝! お返しどうぞ!」
「イタァ! わたしも!」
「異常なし!」
「こっちも正常!」
「ここはどうかな!」
「じゃあ、ここ!」
「こっちも!」
「そっちも!」
「次は……!」
「今度は……!」
互いに揉み合い、押し合い、いじり合い、ついには絡み合いながら回転し、そろって布団から転げ落ちる。
畳の上でもなお、二人はしばらく暴力的身体検査を続けた。
その間、階下には相当な震動が伝わっていただろう。いさかいの声も聞こえていたはずだ。
それを受け止める人たち、霧の父と祖母の心境はどのようなものだったか。
恐らくだが。
さほど悪いものではないはずと、風歌には信じられた。特に父のほうに関しては、先にもの悲しい顔を見ていたことが大きかった。
子を思う親の表情として、あれより暗く沈んだ色を、風歌はこれまでの人生でじかに見たことがない。
そのように心臓が記憶していた。
もっとも、驚きと戸惑いの色は少なからず表れていたかもしれないが。
やがて。
階上の二人はついに疲れ果てた。
全身汗だくのまま畳の上でそろって仰向けになり、ハアハアと呼吸のリズムを一致させる。
「やるな……」
「あんたもね……」
「これだけ暴れたら疲れるな」
「痛いことしたら痛いしね」
「正しい。暴力は良くない」
「暴力ダメ、絶対」
「非暴力、か」
「非暴力だよ」
「それにしては限りなく暴力……」
「ぎりセーフってことで。最後の一線を越えていいなら、もっとスマートにやり合ってたでしょ」
「確かに。おかげで事件化せずに済んだが、代わりに妙な工夫を余儀なくされた――」
霧の息づかいが急に止まった。
それもつかの間、何やら独り言のように彼女がつぶやく。
「――された。されている。ボクらはいつだってそうだった。いや、進んで工夫を積み重ねてきた」
「……遠埜?」
風歌が霧の顔を覗こうとしたとき、ポケットのあたりが振動した。風歌はおもむろにスマホを取り出し、確認した。
「あゆ姉からだ。勝ったんだぞ……?」
にわかには要領を得られず、ついメッセージを読み上げてしまう。
「あ、ガンディーは勝ったんだぞ、か」
どうやら今朝のやりとりの続きらしかった。
流れでさらに読み上げる。
「例えば塩の行進。植民政府の塩の専売に抗議するために、そんなのは買わずに自分たちで作ろうぜってことで、みんなして海まで歩いたんだ。そん時それは違法だったから大勢逮捕もされちまったけど、運動は成功して政府は専売を諦めた。こうした行動が、めでたくインド独立に結びついた」
「……」
霧がおとなしく耳を澄ませている。
「非暴力って、ただ暴力を振るわねーことって一般にゃ思われてるけど、その本家本元の意味っつーのは――」
風歌はいったん息を吸い、意識して高揚を抑えつつ、わずかな残りを淡々と読み上げた。
「暴力以外、何でもありだ。暴力以外、何だってしてやる」
視線を感じる。
霧がこちらを見つめながら静かに身を起こしていた。その瞳には、窓からの陽光がくっきりと宿っていた。
九月。関東大震災発生日と同じ日。
二学期が始まった。
始業式の壇上へ、生徒会長・遠埜霧が立つ。
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