第十二話 我慢しない!(3)
3
「遠埜が学校に戻ってくる!」
風歌は胸を弾ませた。
風歌には、霧と会って話したいことが山ほどできていた。
冤罪で停学処分になってしまったこと。霧の父が逮捕されたこと。カウンタープロテストに警察が強硬姿勢をとり始めたこと。いまだ続く
数えあげれば、辛いことばかりだった。
もっとも、自分個人に限れば、さらに状況が悪化したところで、辛さとしては、せいぜい中学生か小学生のころに戻るだけだ。慣れてはいる。
慣れている?
本当に?
うん、たぶん。
そう思いたい。
「無理無理……」
風歌はうめくようにつぶやいた。
ともあれ、停学解除は喜ばしいことだ。近ごろでは貴重な祝い事だ。
霧にはぜひとも一言、お帰りなさいと声をかけてやりたい。
「そうだ」
風歌は新校舎の玄関口に向かった。そこに緑の電話が設置されてあったからだ。
直接会ってからでなくていい。伝えたいことがあるなら、さっさと伝えればいい。何なら、復学の第一報を自分が知らせることにもなるかもしれない。そう思い、駆け足になって教師に見つかり注意され、競歩の速度でたどり着く。
なお、この時の風歌はどういうわけかスマホを所持しており、ポケットの感触からその事実にも気づいていたが、校則で持ち込みが禁止されている以上、校内で使うわけにはいかなかった。校外でも、制服を着ている間は使用を控えたほうがいい。ただでさえ、わずかな風評にも大きく翻弄されるこの情勢下だ。
テレホンカードとやらは持ち合わせていないので、素直に十円玉を投入する。こうした電話機を自分が使うのは初めてだったが、他の生徒が使用する様子なら幾度か目にしたことがあったため、使い方には特に困らなかった。電話番号についても、それの記されたメモを持っていた。メモがカセットテープケースに収まった状態で、かばんの底に埋もれていたのだ。霧の自宅を訪れるための口実として、テープとともに顧問から託されたものだった。
受話器を取り、メモの番号を順々に押す。すべて押すと、ものの数秒で応答があった。出たのは霧の父の文彰だった。
「お電話ありがとうございます。本庄書店でございます」
そうか。
風歌は失念していた。この番号は家の固定電話のそれだった。
「恐れ入りますが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「あ、霧さんのクラスメイトの沢――」
「
「いえ」
「霧ですね?」
「はい。あ、でも……」
霧の父は逮捕されて不在のはずなのにと、風歌は不思議に思っていた。とはいえ、まっすぐ尋ねるのもはばかられる。そのせいで言いよどんでいると、先方がどうやら察してくれた。
「……もしかして、僕?」
「ええと、まあ……」
「そうですか。逮捕の報道をご覧になったのですね」
「……はい」
「ご心配をおかけしました。幸いなことに、あのあとすぐ不起訴となりまして」
「吹きそう……?」
「お咎めなし。自由の身です。店の表の本棚が少し道に出てしまっただけですからね。きっと、その日はたまたまストッパーを掛け忘れてしまったんでしょうね。お恥ずかしいかぎりです……。皆様には大変なご迷惑をおかけしてしまいましたが、警察の方からは思いがけないご温情をたまわり、今後はもっと気を付けるようにとの注意だけで済ませてくださいました」
「あ、あ、そうだったんですね! おめでとうございます!」
ほっと肩の力が抜けた。霧の停学解除と合わせ、風歌にとっても重ね重ね朗報だった。
「ありがとうございます。不起訴のほうは報道されませんでしたからね」
「良かったです。本当に……。霧さんもきっと……」
「ええ……」
今度は文彰が何やら言いよどんだ。
途端、電話が遠くなり、くぐもった音声で「かあさん」だの「そんなお願いは……」だのと小さく聞こえる。どうやら受話器を手で塞ぎ、彼の義母、すなわち霧の祖母と話しているらしい。「あの子」という祖母の声も、さらに遠くでかすかに聞こえた。
「すいません、妙な間を取らせてしまいまして」
「あの……霧さんに何か?」
「霧は……」
またしても間が空く。が、先と異なり、しばらく完全な無音だった。
タイルの道を、風歌は必死に走っていた。通学路から筋一本隔てた、立て看板や放置自転車だらけの進みにくい小路だ。
それらの障害物と重なるかのように、用心の必要性を説いてくれた天祢や、いつもひたすらに自分を心配してくれる両親の顔が、何度も何度も目に浮かぶ。
風歌はそのつど、幻を払うように首を振った。
公安にとって自分は歯牙にも掛けない存在だ。
だから――ごめんなさい。
自分は大丈夫だから。
それよりも、今は霧だ。
そうこうするうち、本庄書店の前に到着する。
以前の訪問時と様子が一つ異なっていた。店舗前にあった書架がすべて撤去されていたのだ。それらが霧の父の逮捕理由だったので、やむを得ないところか。
しかし、ならば、この付近の住民たちも数多く逮捕されていないとおかしい。
改めて通りを一望する。どちらを向いても障害物だらけだ。
風歌は、これが公安の仕事かと、真夏の空のもと、全身の汗も一気に引くような薄ら寒さと情けなさとを覚えた。視界に納まる建物のどれかか通行人の中に公安が紛れていて、今もひそかに、こちらの様子をうかがっているのかもしれない。
風歌はきっと虚空をねめつけると、再び向き直り、書店に入った。
「沢本さん」
店の中では、文彰が風歌の到着を待っていた。逮捕前と少しも変わらない、優しく穏やかな表情だ。
「すいません、
と、麦茶の入ったグラスをすっと差し出す。
奥の間では、霧の祖母がちょこんと座っていた。こちらを控えめに見やりながら、喜怒哀楽が今ひとつ判然としない顔で、ゆっくりと繰り返し頷いている。
風歌は麦茶を受け取って一気に飲み干すと、一気に吐いた。
「霧さんが立て籠もってるって本当ですか!」
荷物をその場に置き、文彰の案内で家に上がらせてもらう。
廊下を歩くと、古い木造家屋のせいか、踏む板によっては床が軋みを上げた。ただ、掃除と整頓は行き届いていて清潔感はある。
「この上があの子の部屋です」
階段の前で文彰が止まり、風歌も頭上を仰ぎみた。
沢本家のそれよりも傾斜が急な階段だった。幅も狭い。それもあってか射し込む光量が乏しく、上のほうは特に薄暗い。
「この先に……」
かたずを飲む風歌の傍らで、水洗の音がした。そちらにトイレがあり、中からちょうど霧が出てきた。
「あっ」
「あっ」
階段は、廊下よりもさらに大きくキシキシと鳴った。
霧のあとを一段ずつついていく。
「なんで君がうちに」
「呼ばれて来たの! あんたが立て籠もってるって聞いたから」
「立て籠もり? 父さんがそう言ったのかい?」
その父は風歌にさりげなく後事を託し、自身はすでに店舗のほうへ引き上げている。
「うん、言った」
「本当に?」
「言った」
「確かに立て籠もりって?」
「……あんたが、うちに籠もってるって」
「ほら、認識ミスだ。人質をとった強盗じゃあるまいし。ボクは立て籠もりでなく引き籠もり」
「そっちか!」
「君は相変わらずだな。相手の間違いをそのままに付き合う父さんも父さんだけど」
「でも、引き籠もりだって……」
それだって問題ではないかと、風歌は口先をとがらせた。
階段を上がってすぐの右手にふすまがあった。
霧が立ち止まった。
「念のため、全国百万人同胞のために言うが」
引手に手をかけ、半ばまで開ける。
「引き籠もり自体は悪ではないぞ。インフルエンザウイルスに咳や熱で体が対処するように、引き籠もりは症状だ。元凶は別にある」
「……」
「だから、そっとしておいてくれ。ボクは、カウンターと学校をやめる。そうそう、力ずくで家から引き剥がそうとしても逆にこじらせるだけだから」
「なんで!」
「仕方がない。そういうものだ」
「咳なんでしょ? 熱なんでしょ? なら、具合くらい見させてよ」
「見てもどうにもならない。君には治せない」
「何が原因?」
「知ってるだろ。父さんが逮捕されたんだ。ボクのせいで」
「それは……」
「父さんは自分が失敗したように笑うけど、父さんが仕事に対して手を抜かないこと、ボクが一番知っている。あれはミスなんかじゃない。きっと公安の工作だ。ボクをおとなしくさせるために」
「それで、まんまとおとなしく?」
「商売にとって信用がどれほど大事か、会社員家庭の君には知るよしもないか。父さんは確かに無罪放免になったけど、逮捕されたことが世間に喧伝された時点で、警察はじゅうぶん目的を果たしたのさ。公権力様の大勝利だ」
冷笑じみた言葉と裏腹に、霧の肩はかすかに震えていた。少なくとも風歌の目にはそう映った。
「実際、もう店の外に本を陳列できなくなってしまった。またいつ勝手に動かされるか知れたものではないからね。これだけでも、売り上げの面ですでに打撃だ」
霧がふすまをさらに開け、一歩、中へ入る。
「世のため人のために力を尽くす――その思いを胸に生きてきた。わざわざ進んで意識するまでもなく、いつのころからか、それがボクにとっての自然となっていた。けど……そのせいで、ボクの一番大切な人たちを苦しめることになってしまった」
霧が振り返った。
「これで分かったろう? ボクは、もう……何もしないほうがいいんだ」
霧の顔の前で、ふすまが静かに閉められた。
「遠埜……!」
「そっとしておいてくれ」
中から低く籠もった声がした。
鍵はなく、主に紙でできた脆い仕切りだ。この薄い一枚のすぐ向こうに霧はいる。しかし、どうすればこの隔たりを越えることができるのか、もはや風歌には見当が付かなかった。
一人すごすごと引き返してきた風歌に、文彰が落胆するでもなく、かえって風歌をいたわるような笑みを見せてくれた。諦観の上に塗り重ねられた微笑だった。
「そうですか。あの子がそんなことを……」
本棚を整理する文彰を、風歌は報告がてら眺めていた。段ボール箱から出した本を棚に上げたり、逆に別の本を棚から下げたりしている。冷房こそ効いているものの、その額には、うっすらと汗がにじんでいる。
「霧もよくそこに座ってね……。あまり遊んであげられなくてゴメンねって謝ったら、お仕事大事でしょって、なぜかこちらが叱られまして」
「あいつらしい」
風歌はくすりとした。
「親としては不甲斐ないかぎりですが、苦しい経営事情を知っていたんでしょうね。脱サラしてからも、なるべく生活水準は下げないよう心掛けたつもりではいたんですが」
「……」
「小学何年生の時でしたか。一度、小遣いの受け取りを拒否したときには、それはもう義母と慌てましたよ。義母などは、ややもすれば自分の年金を削ってまで、ちょっと非常識な金額を霧に包んでいましたからね」
奥の間で祖母がニコニコしている。
「大金ならまだしも、一円も受け取らないのは、さすがに僕もいたたまれないので、ついきつく当たったりしまして。それから長い時間をかけて、ようやく、世間並みの金額なら、ということで交渉締結となりました」
「……」
「ただ世間並みといっても、情報源によってバラツキがあるんですよね。あの子がそれを知ってからは、なるべく金額の少ない情報をネットなどで求めるようになってしまって……。探せばいくらでも都合のいいデータはあるものだ、なんて放言することもありました。これは教育上よろしくないので、僕も極端に金額の大きな資料をあえて探し出してきて、あの子のとぶつけたり。なにせ、こちらは資料集めの専門ですからね。データを使った騙し合いなら、僕に一日の長があるというわけです。その甲斐あって、資料は人をたばかるために使うものではないんだなと、あの子もいたく参ってくれたようで……。以来、自分の願望は脇において、とにかく信頼度の高い資料を持ってきてくれるようになりました」
「あいつにネトウヨみたいな時期が……」
「これは……。つい、他人様の子に説教臭いことを」
文彰が自嘲の笑みをこぼした。
「それでもね、結局は同じだったんですよ。あの子、ほとんどタンス預金に回していましたから。それこそ義母にもらっていたころからね。最近でこそ、カウンターの活動でその分ともども使ってくれるようになりましたが」
「……」
「あの子は貫いてしまうんです」
文彰が最後に天井を見上げた。霧の自室があるほうだった。
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