第十一話 遠埜霧さん(3)


     3


 霧に無性に会いたくなった。会ってどうするということもないが、独りになってもなお差別と闘い続ける霧の隣に、自分の姿もあればよいと思った。自分もここにいることを、霧に気づいてほしかった。

 ひとまず、会わないかとスマホでメッセージを送ってみたものの、既読マークは付くのに返信がない。当然ながら電話にも出ず、留守電サービスに繋がるだけだ。

 おそらく、停学処分の一環という「友人との接触行為の禁止」を律儀に守っているのだろう。

 それなら――。

 風歌は諦めなかった。

 そちらが自重するなら、こちらから強引にでも会いに行ってやればよいだけだ。

 幸いにして霧は徒歩通学だ。住所こそ知らないものの、ともあれ自宅は学校の近くにある。うん、明日の終業式のあとにでも――。

 しかし、正確な住所を知るには思いも寄らない障壁があった。

 体育館での式も終わり、担任が、夏休みを有意義に過ごすためのありがたい諸注意を言い残し、ついに教室をあとにする。

 風歌はそれを廊下で追いすがり、二言三言、手短に告げた。

 ところが、担任の口からその障壁が飛び出した。

 風歌は目をしばたたいた。

「個人情報? 住所って、クラスメイトにも秘密なんですか?」

「クラスメイトにも秘密なんです。昨今の風潮でね」

「なんで、そんなとこだけ進歩的……」

「何か言ったか?」

 いえ何も、と風歌は素早く小刻みに首を振った。

 担任がふうと嘆息した。

「プリントなら、お前がわざわざ届けにいってやらんでも、本人が取りにくることになっとる。今までもそうだったろ」

「それっていつですか? 今日ですか? 受け渡し場所はどこですか?」

 下手な探偵のように食い下がる風歌に、担任はすっかり辟易したらしい。風歌に呼び止められた瞬間こそ立ち止まったものの再び歩き出し、風歌もなお懲りずに付いていく。

「ダメなものはダメだ」

「ヒントだけでも」

「ダメだ」

 風歌の鼻先で、突然ピシャリとドアが閉まった。担任が後ろ手に閉めたのだ。思わずくしゃみが出る中、磨りガラスの向こうへと担任は消えていく。いつの間にか、職員室の前まで来ていたのだった。

 仕方がない。

 風歌は、はなをすすり上げた。

 こうなったら他を当たるか。当初の予定どおり自分が霧の自宅を訪ねることにしよう。生徒会役員か、同じ中学出身者か――誰かしら住所を知っている子はいるだろう。

 そう思案した矢先、背後から「ちょいと、沢本さん」と声がした。しわがれた聞き覚えのある声だった。

 振り向くと、自研部の顧問が今にも倒れそうな弱々しさで立っていた。軽いながらも脳梗塞の後遺症があるとのことで、倒れるならいつでもどうぞ支えますよと顔には出さず用心する。

「助けて、もらえんかね」

「はい」

 風歌は反射的に即答した。

「では、ひとつ、頼まれ事を」

 顧問がにこりと頷き、何やらいったん職員室に、ゆっくりとスローモーションのように入っていく。

 しまった今それどころじゃなかったのんびり人助けしてる場合じゃなかったと、後悔しながら風歌は待つ。

 しばらくして、顧問が再び部屋から出てきた。ある物を手に携えており、これをね、と差し出す。

 見ると、手渡されたのはカセットテープという遺物だった。透明のプラスチックケースの中に収まっている。知識はあったものの、実物に触れるのは初めてだ。確か、黒い海藻のような部分に音声が記録されているのだったか。カセットにはラベルが貼られていて、顧問が書いたのか、黒のペンで「PC8001」とある。さすがに読み方も分からないアーティスト名だ。ほかには「マイコン」「ソフトプログラム 入門編」などとも記されてあり、ここでようやく風歌は気づく。

 これは、歌って覚えるコンピューター用語みたいな曲なのだろう。

 顧問が告げた。

「遠埜さんが、生徒会で忙しく、あまりマイコン部の、活動ができていないようなので、自宅でも学習できればと、用意しておいたんだが、今の今まで、ずっと渡すのを、忘れていてね。代わりに、届けてもらえると、助かる」

「……」

「住所と、電話番号も、その中に」

 よく見ると、確かにカセットとは別に、一枚のメモ用紙もケースの中に収まっていた。

 遅ればせながら、風歌はやっと顧問の意図を汲み取れた。遣いの用事を口実に、霧の住所を教えてくれたのだ。

 風歌の顔にパッと明かりがともった。

「はい! 遠埜には、しっかり勉強させなきゃですよね! わたし、責任をもって、あいつにこの曲を渡してきます! でも、いいんですか? 個人情報……」

 破顔から一転、今度は瞬時に表情を曇らせる。

 親切はありがたいが、このせいで、ご自身の本校での立場が危うくなったりはしないか? ただでさえ病み上がりでフラフラなのに……。

 顧問は、ゆっくりとかぶりを振った。

「少し、長話になるけど」

 顧問は、職員室とは反対側、校庭を一望できるほうの窓へ歩み寄った。そのまま窓枠に寄りかかり、外の景色を見つめる。風歌もならって一つ隣の窓枠の前に立ち、同じように外を見やった。

 いくつかの運動部が早くも練習を始めていた。部員たちの体から飛び散る汗が夏の光を反射し、一粒一粒がきらめいている。掛け合う声に蝉時雨が加わり、気分をいっそう奮い立たせる。

 あまりのまぶしさに、風歌は吸い込まれそうになった。

「昔、本校で、陰湿なイジメが、あってね。いや、イジメはどれも陰湿だし、犯罪だし、今もある。われわれ教師が、気づけていないだけで」

 情熱的な外の光景とは対照的に、顧問の口調は淡々としていた。

「それで、その時のイジメだけど、加害者グループが、被害者宅に、火をつけるところまで、エスカレートしてね。不登校になった生徒を、見舞いに行くと称して、その担任から、住所を、聞き出したんだ。本人たちにとっては、ちょっとしたいたずら、軽いジョークの、つもりだったらしい。いわゆる、ノリというものだね。皆、最後まで、そんな顔をしていたよ。たまたまボヤで、済んだことも、あってね」

 風歌は、まじろぎもしなかった。

「そういう事件もあって、どれほど、親しそうな、間柄に見えても、ある生徒に、別の生徒の、個人情報は、むやみに、教えない決まりに、なったんだ」

「……」

「一見、理不尽に思える、ルールにもね、成立するだけの、理由がある。本校の校則は、特に厳格なことで、知られるけれど、すべては、生徒たちを、守るためなんだ。そのことだけは、どうか忘れないでいてほしい。先生たちも、悪意や意地悪で、厳しく当たっているわけでは、ないんだよ」

「……」

「とはいえ、規則のせいで、困ることも、時にはある。さっきの君みたいに」

 視線を感じ、風歌は顔を向けた。目が合った。

「そこで、論題となる。このような場合、どう対処すべきか。なおも、規則を守るべきか」

 顧問のまなざしは、温和な中にも情熱と真剣味を帯びていた。霧をはじめ、どこかカウンターの面々にも通じる色合いのようでもあり、風歌は目を逸らすことも忘れて見入った。

「わたしはね、この点が、人間と、コンピュータとの違いと、思っている。コンピュータは、命令を、実行するだけ。対し、人間には、自律した精神がある。その時々で、何が正しく、何が間違いか、自分で考え、判断を下せる、精神が」

「……」

「わたしは、人でありたい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る