第十一話 遠埜霧さん(4)
4
メモが示していた住所は、駅前の表通りから路地一本分外れた区画だった。白いタイルで舗装された道を挟み、両側に個人商店や民家が連なっている。シャッターが閉じられて久しそうな店もちらほらと見受けられるが、駅前から引き続き、手を繋いだ親子連れや外回り中とおぼしきスーツ姿の人々も相応にいて、全体としてさほど寂れてはいない。むしろ放置自転車や立て看板、鉢植えの類が、車がやっと通れるくらいにまで道を左右から圧迫し、好意的に捉えれば、それらも視覚的な一種のにぎわいとなっている。
「この辺のはずだけど……」
風歌はしばらく迷っていた。目に入る表札のどれにも「遠埜」の文字がなかったからだ。
「よしっ」
風歌は、人に尋ねることにした。少し前までの彼女ならいざ知らず、今はそうしたことへの気後れなどない。ちょうど目の前に店があり、上の看板を見ると「本庄書店」とある。店名どおり、店の前にはキャスター付きの書架が敷地内いっぱいに展開している。納まっている本にはどれも年季が入っていた。
書店は書店でも、どうやら古書店らしい。表側の面が壁もドアもガラス張りになっているため、それらしい店内の様子も見てとれる。
これは好都合、こういう店の人なら街のことにも詳しいだろう、さらに言えば忙しくなさそうだしとの勝手な思い込みで、風歌は勇んで中に飛び込もうとした……。
「あたっ」
通路が狭すぎた。いや、風歌の幅が広すぎた。背負ったベースのケースが書架の一つに引っかかってしまったのだ。
さいわい、キャスターのストッパーはオンになっていたらしい。おかげで車輪を少し地面にこすらせただけで済んだが、風歌は慌てて身を翻し、位置のずれた書架をきっちり元へ戻そうとした。そのはずみで、今度はケースとお尻が入り口のドアを押し開ける。
ドアベルの美しい音が鳴った。
「そのままで構いませんよ。道にははみ出していないようですし。狭くて申し訳ありません。ご迷惑をおかけします」
ベルの音に続き、ドアの向こうから物腰の柔らかそうな男性の声がした。
見ると、男性はほの暗い店の一番奥に、本に囲まれるようにして座っていた。縁の細い眼鏡をかけ、ワイシャツの上にエプロンを付けている。目が屋内の明るさに慣れてくると、声のとおり、口もとに優しげな微笑をたたえているのも見てとれた。
年の頃は判然としない。中年かそれ以下ということだけが確実で、四十代から二十代まで、どれもありえる気がする。ただ、風歌にとって古本屋の主人といえばお年寄りのイメージだったので、いずれにせよ「意外に若い」という感想だ。あるいは店員かもしれない。
「すいませんっ」
「いいんですよ」
「あのう……」
風歌は、そのタイミングで改めて道を尋ねることにした。
棚の上で、小さな扇風機がゆっくりと首を振りながらエアコンの冷気をかき混ぜている。弱冷房だろうか、柔らかな空気が、じわじわと時間をかけて体を適温に仕上げていく。コンビニやスーパーのように汗が急速に引く感じはないが、長居したくなる居心地の良さだ。
「――自宅ですか? 遠埜さんの」
「この辺だと……」
「ここですね」
「ふあ?」
「僕が店主で、遠埜
「ほへ? だって……」
風歌は店内に入ったことも忘れ、改めて看板を確認しようと見上げてしまった。
「ハハハ、店の名前ですか?
傍らには、小さな写真立てがあった。店主が慈しみに満ちた目で、そちらへ風歌の視線を誘導する。写真の中では、若い女性がこちらに向かって優しく微笑んでいた。どこか遺影のようだった。
「彼女の父、先代も十年ほど前に亡くなりましてね」
その言い回しで、「どこか」でなく、まさにそうなのだと分かる。
「残された
そこまで述べてから、店主が改めて風歌に微笑みかけた。
「娘――霧のご友人ですね?」
聞けば、風歌が修高の制服姿で店の前に現れたときから、まずそうだろうと確信していたとのことだった。
「今どきは、古本屋に来る学生さんなんて、めったにいませんからね」
「……」
風歌は店内を見回した。ほかに客の姿はない。
「学生さんでなくても来ませんでした」
店主が、照れ隠しのように頭の後ろを掻く。
「霧でしたね。すいません。今は――」
「人と会っちゃいけないんですよね。でも……」
「いえ、ちょっと出掛けておりまして」
「出掛け……? だって自宅謹慎――」
その語を口に出すと、店主が敏感に、それでいて、ごくわずかに顔を上げた。その微妙な変化で眼鏡のレンズが白く光り、奥の表情を遠くする。
それでも風歌は迫るように言った。
「会いたいんです、どうしても」
ドアベルが鳴った。
「すいませーん。売りたいんですけど」
本でパンパンに膨らんだ紙袋を両手で重そうに提げながら、客がひとり入ってきた。
「いらっしゃいませ」
店主が、営業スマイルのまま風歌を向いた。
「……申し訳ありませんが、少々お待ちいただけますか?」
店主が客の応対をしている間、風歌は店の片隅でじっとしていた。この時、熱心に本棚でも眺めて過ごしていれば、表を往来する人たちから見て生ける宣伝物にもなったのだろうが、気が回らなかったのだ。が、それが幸いしたというべきか、店主の背後、住居部分のほうから、何やらニコニコと手招きする人影があることに気が付いた。
店主の義母、霧から見て母方の祖母にあたる人が、風歌を呼び寄せていたのだった。
「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
三たびドアベルが鳴る中、店主が丁寧なお辞儀と挨拶をする。
「さて、と――」
店主が振り返ったとき、風歌は縁側のように貼り出した床板に腰を掛け、霧の祖母にすすめられた栗まんじゅうを口いっぱいに頬張っていた。
「霧さんのお友達でいてくれて、ありがとうね」
よほど風歌の来訪が嬉しかったのか、祖母は板間にちょこんと座りながら、何度もそうした言葉を口にしていた。
さすがの風歌も少し恐縮した。氷の入った麦茶で、口の中のものを急ぎ流し込む。
半分飲み、グラスを置いた。
「遠――霧さんなら、友達いっぱいいますよ。生徒会長だし、美人だし、頭いいし」
実際には、「友達」よりも「ファン」や「取り巻き」と称したほうが的を射ていたし、同じだけ敵も多かったが、風歌はわざと正確さを欠いて告げた。
ところが気遣いもむなしく、祖母の反応は鈍かった。ようよう、つぶやくように漏らす。
「近ごろで、来てくれたのは、あなただけ」
「……」
「霧が停学になってからは、ですね」
店主が少し椅子をずらし、風歌のほうを向いて座り直しながら、祖母の言葉を補足した。
「てて、停学っていっても、本人は何も――」
風歌が慌てて霧を擁護しようとすると、店主は穏やかにかぶりを振った。
「安心しました。どうやら、あなたも同じのようですね。僕たちも、あの子を信じていますので」
「……それで、霧さんは今?」
「それが……パトロール、と」
「パトロール……? あ、ヘイトパトロール」
風歌には聞き覚えがあった。確かカウンターの一種だ。街に出て、ヘイト行為がゲリラ的に行われていないかを見て回るという。
「ええ、確かにそのように。カウンタープロテストというんですか。僕はあまり詳しくないんですが、あの子ときたら、停学となったからには、普段なかなかできないことをするんだと譲らなくてね」
「あいつ……」
「何でも、揺り戻し――でしたか。このごろ警察のたがが緩んできているので、市民がしっかり見ていてやらないと、などと張り詰めた顔で言うものですから」
店主が祖母と視線を交わし、どちらも諦めたような顔でうなずき合った。
「本当は自宅にいさせないといけないんですが……。なにぶん、普段は全然わがままを言ってくれない子でして……。で、僕たちもつい……。保護者失格かもしれませんね」
二人の表情とは対照的に、写真立ての女性は相変わらず屈託なく笑っている。
「そんなこと――」
風歌は二人を交互に見やった。
「そんなことないです。反差別活動は、少しでも手を抜いたら手を抜いただけ、誰かを助け損ねてしまうんです。それに、正しいことよりも悪いことのほうが力が強いから、正しいことは悪いことよりもたくさん、たくさんしていかないと――。だから、仕方ないんです」
「悪いことのほうが強い?」
「霧さんが、よくそう言って」
「霧が……」
店主は、何やらしばらく沈思すると、しみじみと店内を見回した。先ほどの客を最後に、まだ誰も入店してきていない。
「この商売、年々厳しくなる一方でしてねえ……」
「はあ……。あ、ネットで買えるから……?」
「それもあるんですが、万引きも、ね。お客さんは減っているのに、万引き犯の方たちは、なぜか、なかなか減ってくれないんですよ」
「……」
「本の原価率をご存知で?」
「いえ」
「新書でおよそ八割。定価が千円の本ですと、店は八百円で仕入れるわけです。売れれば二百円の儲け。ですので、もし千円の本が一冊盗まれてしまったら八百円の損害ですので、二百円の儲けを四回――千円の本なら四冊、四千円分売らないと被害を回復できないんです」
実のところ原価率という言葉の意味自体を知らない風歌だったが、店主の分かりやすい説明を受け、とっさに指を折りながら数えてみる。
店主が、にこやかに続けた。
「古本屋も同様です。本によって原価率は異なりますが、やはり一冊盗まれてしまったら、その分、何冊か売らないと損失を取り戻せません。万引き犯一人のために、必要な仕事量が何倍にも跳ね上がってしまうんですね。ほかに防犯用の設備投資も要りますし。盗むほうは、たかが本の一冊と思っているのかもしれませんが」
風歌は、あ、とのどの奥を鳴らした。
「悪いことのほうが――」
「強いんです。残念ながら、これが世の中の仕組みのようで。でもね、僕はこうも思うんです」
「……」
「それでも世界は回っている。回ることができている、と。うちもギリギリですが、今日までどうにか続けてこられましたし」
店主が、写真の女性のように微笑んだ。
「やっぱりね、正しい、のほうが強いんですよ。沢本さん」
不意に自分の姓を告げられて、風歌は自分がまだ名乗っていなかったことに気が付いた。自身や仲間の名をうかつに口にしてはいけないというカウンター時の原則が、癖となって表れてしまったのかもしれない。
「あれ? どうしてわたしの名前……」
「よく、霧があなたの話をするものですから」
「あいつが? わたしのことを?」
「僕もあなたとお話しさせていただくうち、この方がそうなのだろうとピンと来ました」
グラスの中で氷と氷がぶつかり、小気味よく鳴る。祖母が、懐かしそうに店内を見やった。
「あの子、いつもここを遊び場のようにしていたねえ」
その目には、さほど広くもない店内で、喜々とはしゃぐ幼い霧の姿が映っていたらしい。風歌も目を向け、想像する。さらに先の屋外では、あふれるほどの夏の光が、向かいの建物と路上とを白一色に染め上げていた。
時は日盛りだ。
「そろそろ……」
帰ろうと立ち上がりかけた風歌を、店主がいったん引き留めた。
「学校とは毎日、朝夕の決まった時間に本人が直接連絡を入れることになっておりまして。ですので、それまでには戻ってくると思いますが」
「夕方まで、まだまだありますし――」
風歌はそう遠慮すると、祖母にごちそうさまでしたと丁寧に告げ、今度こそ遠埜家をあとにした。
最後に店の前で振り返り、改めて「本庄書店」の看板を見る。
霧の実家は古書店だった。
どうりで読書好き、かつ、やや古いものの、必要な種類の本を即座に入手できるわけだ。
どうやら母は亡く、祖母と父との三人暮らしらしい。
霧は不幸だろうか?
それは分からない。他人が勝手に決めることでもないと思う。
ただ、父と祖母はとても暖かい人たちのようだ。霧への理解もある。
霧は十分、家族に恵まれていると風歌は確信した。
同時に、霧は孤独ではなかった、とも。
だから安心し、霧とは会えなかったものの、弾むように家路についた。
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